この男、24歳の時に暦生(陰陽寮の暦部門の研修生)でありながら、
造暦宣旨(ぞうれきせんじ。天皇から具注暦という、現代でいう所のカレンダーの作成を依頼されること。当時はカレンダーの作成も天皇の勅命によって作成されていました)を蒙り、その後も暦博士、陰陽頭、そして天文博士という重役を歴任し『三道博士』とも呼ばれていたようです。
そして保憲は、陰陽師としては初めての従四位下にまで昇進します。
更にこの男の評価すべきところとして、源経頼(みなもとのつねより、実資のお友達的存在の公卿)が記した日記『左経記(さけいき)』にて。
長元五年(1032年)五月四日条
「当朝、保憲を以て陰陽の規摸と為す」
という記述が残されています
さっくり要約すると
「現在の朝廷においては、(賀茂)保憲を陰陽師の見本としようね」
という意味になります。
保憲が亡くなって50年以上経った朝廷でも、最も評価されていた陰陽師は保憲であるとして、その名が通っていたようです。
実はかなりすげぇ男。