「おらぁッ、どきやがれ雑魚どもがぁ!」
怒号と同時に、私のすぐ真横を男が通り過ぎていった。
正確には、全身に赤黒い電撃を纏ったスキンヘッドの男が、凄まじい風切り音を立ててコンクリートの路面を爆速で走っていったのだ。おそらく、身体能力を強化するか、あるいは電気を推進力に変えるタイプの『能力』だろう。よくある能力さ。
少し前方で、派手な爆音と共にガードレールがひしゃげる。スキンヘッドの男は、待ち構えていた別の男、両腕を岩石のように巨大化させた男と正面から激突し、火花を散らして殴り合いを始めていた。要するにハゲ頭と岩男の戦いだ。
「うわっと、危ない危ない。せっかくの朝飯が台無しになるところだった」
私は、ひらりと軽い身のこなしで、飛んできたコンクリートの破片を避けた。
右手には、買ったばかりのコンビニの肉まん。ふかふかと温かいそれを愛おしそうに見つめながら、俺はいつものように、のんきな笑みを浮かべる。
現代社会において、これはもはや珍しくもない、ごくありふれた朝の風景だ。
誰もが生まれながらにして固有の『能力』を持ち、それを活かして生きる時代。ある者はその力で億万長者に、ある者はその力で飯を作り、そして血気盛んな不良たちは、その力を誇示するように日々路上で拳を交わしている。
「おい、そこのにやけてるガキ! 邪魔だっつってんだろ!?巻き込まれたくなきゃー」
岩石の腕を持つ男が、鬱陶しそうに俺へ向かって巨大な拳を振り下ろしてきた。挨拶代わりの理不尽な一撃。この街のストリートファイトじゃ、巻き込まれる方が悪いとされるのが日常のルールだ。
「おっと」
私は一歩、後ろに引いた。
ただそれだけの動作で、大振りの拳は俺の鼻先をかすめて空を切る。
「あはは、ごめんごめん。邪魔する気はなかったんだ」
笑いながら、俺はポケットから左手を抜いた。
彼らは知らない。この騒がしくも平和な街の住人は、誰一人として知らない。
私がかつて、個人傭兵として世界のあらゆる戦場を渡り歩き、各国の軍隊や特殊部隊を相手にたった一人で壊滅させてきた「生ける伝説」だということを。
私の心の中にあるものは、この生ぬるいストリートファイトに興じる彼らのような常人には、逆立ちしても理解できないだろう。しかし、そんな平和な世があることは幸せだろうな。
だけど、今はそれでいい。この平和な日常を、私はそれなりに気に入っている。
「チッ、チョロチョロと……動くんじゃあねぇ!」
完全に頭に血が上った岩男が、丸太のような腕を横一線に振り回してきた。
同時に、さっきまで彼とやり合っていた電撃スキンヘッドのハゲ頭までが、「俺の獲物を横取りすんじゃねえ!」と赤黒い火花を散らしながら、俺の背後から突っ込んでくる。
前後からの同時挟み撃ち。こういった喧嘩をよく見ている観衆が見れば「詰み」と思うような状況。
けれど、各国の部隊や暗殺者の殺意の雨を潜り抜けてきた私の目からすれば、彼らの動きはあまりにも大振りで、あまりにも隙だらけの、ただの「じゃれ合い」にしか見えなかった。
「ちょっと失礼」
私は右手の肉まんをそっと上空へ放り投げた。
次の瞬間、背後から迫るハゲ頭の電撃突撃の軌道を見極め、その襟元を左手で掴む。
合気道の要領で、彼の突進の勢いをそのまま前方へと受け流した。
「ぐはぇぁっ!?」
大きな体と突進の勢いの分相手に大きくダメージが入った。こういう輩の動きは読みやすい上、ダメージを与えやすい。
勢いを制御できなくなったハゲ頭は、そのまま岩男が振り下ろした巨大な岩の拳へと、自ら正面衝突する形になった。
ドガァァン!!と、鈍い音と共に身内同士の誤爆が炸裂する。
「いだぁっ!? てめぇ何しやがるハゲ!」
「うるせえっ、後ろのガキに引っ張られたんだよ!」
火花と砂埃の中で、二人が痛みに顔を歪めながら怒鳴り合う。
その隙に、私は上空から落ちてきたホカホカの肉まんを、左手でナイスキャッチした。一粒のゴマすら落とさせない。
「よし、無傷」
私は肉まんを頬張りよく噛んで食べる。
「んん〜、この美味しさ!ちょっと冷めちゃったけどね…」
「……この、ナメやがってぇぇぇ!!」
二人の怒りの矛先が、完全に私へと向いた。
岩男は両腕をさらに巨大化させ、ハゲ頭は全身の電撃を最大出力でスパークさせる。どうやら電撃&身体強化の能力者だったようだ。
本気のストリートファイトの始まりだ。周囲の野次馬たちが「おいおい、あのガキ死んだぞ」とザワつき始める。こんなテンプレ化した言葉を喋るやつが今もいるんだな、と少し感心した。
…しかし、これ以上時間をかけてしまえば、せっかくの朝飯が本当に冷めてしまうな。
私はため息をつき、手の中で、私の能力『軌人歴跡(きじんれきせき)』を発動させた。
「軌人歴跡…発動!Smith & Wesson Model 500…!!」
私は手にハンドガンを出現させ、上空に一発撃った。
「さて…殺り合う覚悟は出来たかな?」
私はもう一度上空に撃った。
「ひっ……!?」
鼓膜を震わせる凄まじい銃声に、野次馬たちの歓声が一瞬で悲鳴へと変わった。
私の手の中に握られているのは、鈍い銀光を放つ超大型リボルバー。本来なら人間が撃てば手首の骨が砕けると言われる、大口径のバケモノ銃だ。
能力者たちの間では、銃や刃物といった「既存の武器」は、異能の力より格下の時代遅れな代物だと侮られている。だが、そんな思考は本物の銃火器の威力を知らない平和ボケどもの妄想に過ぎない。
「じゅ、銃だと……!? そんな玩具で俺の岩の身体が――」
「玩具かどうか、試してみるかい?」
私は引き金を引いた。
ドンッ!!!
狙ったのは、岩男の足だ。
凄まじい衝撃波と共に男の岩の足が一部弾け飛び、破片がパラパラと落ちる音が耳に響く。一発の弾丸により、男の自慢の岩の体にピキピキと無数の亀裂が入った。
「がはっ……ぁあ!?」
男は今まで自身の体を砕かれたことはないのだろうか、巨体に似合わぬような身震いをし、地面にへたり込んだ。
「こっ…この…化け物がぁ!」
私は再び岩男に向かって銃を構えた。
「化け物…?この銃は君達や我々と同じ人間という種族が作った一般化されている拳銃の一つ、化け物という言葉は、この銃でも…引き金を容易に引ける人間でもなく、君のような異形の者につく呼び名なんだよ。見た目で判別つく分、君のほうがよっぽど化け物してるよ。まぁ、私を化け物と言いたいのなら…それは怪物の方が合うんじゃないかな?」
「ひっ、う、あぁ……!」
岩男は完全に戦意を喪失し、ガタガタと震えながら後ずさりする。自慢の硬度が、ただの鉄の塊と火薬の前に完敗したのだ。そのプライドは、砕けた岩の足よりも無惨に弾け飛んでいた。
「やれやれ…岩男の癖してガラスのハートか…」
「てっ…てめぇぇえええッ!!」
それを見たハゲ頭が、恐怖をかき消すように絶叫した。全身に赤黒い電撃を最大出力でスパークさせ、自暴自棄な突撃を仕掛けてくる。
私は彼の方へ視線すら向けず、流れるような動作でM500の銃口をそちらへ移動させた。
「「パァッンッ!!!」」
放たれた1発の弾丸は、ハゲ頭の頬をかすめた。
しかしそれだけで頬の皮は破れ筋肉が千切れ歯が露出した。
「人類が生み出した軌跡は一人の人間ではそう簡単に打ち破ることはできない、そう…、君達が挑む相手は人類が歩んだ軌跡そのものなんだから…」
静寂が路上に広がり、物珍しさで来ていた野次馬達は怖気づき、そそくさとその場を去っていった。そして喧嘩をしていたハゲ頭に岩男も二人仲良く逃げ出した。
「ふぅ。やっぱり朝飯の後は、少し体を動かすくらいが丁度いいね」
私は親指の操作一つで、まだ銃口から白煙を上げるM500を光の粒子へと変え、虚空へ消滅させた。
何事もなかったかのように、いつもの明るいのんきな笑顔に戻る。ポケットに残った最後の肉まんの破片を口に放り込み、よく噛んで飲み込んだ。
「うぇ〜、ポケットに砂混じってたな…せっかくの朝飯がぁー!」
平和だ。本当に、退屈なほど平和な世界だ。
彼らがやっているのはルールのある「喧嘩」だが、私が今までやってきたのは生き残るための「戦争」。その決定的な差を、彼らは命があるうちに学べたのだから、むしろ感謝してほしいくらいだ。
私は身を翻し、再び気ままな足取りで歩き出そうとした。
大通りに出ると、そこにはストリートファイトの喧騒とはまた違う、この時代ならではの「能力社会」の日常が広がっていた。
上空を見上げれば、背中から鳥の羽を生やした『飛行能力者』の配達員たちが、ドローン顔負けの速度でせわしなく荷物を運んでいる。
道路の向こうでは、工事現場の作業員たちが重機を使わず、土や金属を自在に操る能力で、まるで粘土細工でも作るかのように瞬く間に新しいビルを組み上げていた。
交差点では、『予知能力』を少しだけ持った警察官が、事故を未然に防ぐために的確な交通整理を行っている。
誰もが生まれ持った固有の能力を、パズルのピースのように社会にはめ込んで生きている。
能力の優劣がそのまま収入や社会的地位に直結する、少しばかり格差の激しい世界。だけど同時に、誰もが「明日もこの便利な日常が続く」と信じて疑わない、ぬるま湯のような平和がそこにはあった。
そんな能力至上主義の社会において、私の普段の表の顔は…ただの『しがない便利屋』だ。
大通りに出ると、そこにはストリートファイト等の喧騒とはまた違う、この時代、この世界ならではの「能力社会」の日常が広がっていた。
上空を見上げれば、背中から鳥の羽を生やした『飛行能力者』の配達員たちが、ドローン顔負けの速度でせわしなく荷物を運んでいる。
道路の向こうでは、工事現場の作業員たちが重機を使わず、土や金属等の物質に関する能力や筋力や身体強化能力で、まるで積み木でも作るかのように瞬く間に新しいビルを組み上げていた。
交差点では、『予知能力』を持った警察官が、事故を未然に防ぐために的確な交通整理を行っている。
誰もが生まれ持った固有の能力を、パズルのピースのように社会にはめ込んで生きている。
能力の優劣がそのまま収入や社会的地位に直結する、少しばかり格差の激しい世界。だけど同時に、誰もが「明日もこの便利な日常が続く」と信じて疑わない、ぬるま湯のような平和がそこにはあった。少なくともこの国は…。
そんな能力至上主義の社会において、私の普段の表の顔は…ただの『しがない便利屋』だ。
「おーい、歩くん! ちょうど良いところに!」
声をかけてきたのは、商店街の入り口にある老舗の定食屋の店主、頑固親父の源さんだった。
「どうしたの、源さん。そんなに焦って」
「いやなぁ、厨房の大型冷蔵庫が急にイカれちまってよ! 『修復』の能力を持った修理屋を呼ぼうとしたんだが、どこも予約がいっぱいで捕まらねえんだ。このままだと今日の仕込みの食材が全部パーになっちまう!」
なるほど、能力社会の弊害というやつだ。特定の能力を持つ専門職は、いつだって引っ張りだこで融通が利かない。そもそもだ、技術を学べば普通の人だって直すことができる。別に能力に頼らなくてもいいはずだが、能力という便利が目の前にある今、人類は楽へと走った。そして真の災厄の時に何も出来ず自滅する。能力とは諦めではない、己を一歩踏み出させるための手足の様なものだ。決して停滞を望む者達への便利な道具ではないのだよ。
「そっか、それは災難だね。じゃあ、私の出番かな?」
「頼む! 報酬はいつも通り、今日の昼飯を大盛りで奢るからよ!」
「交渉成立。じゃあ、ちょっと裏口を借りるよ」
私は笑って厨房へと向かった。
世間に対して、私は『機械の構造を理解し、ちょっとした不具合を直せる微弱な能力』を持っている、ということにしてある。実際、この街の住人はみんな、私のことを「手先が器用で、ちょっとしたトラブルを何でも解決してくれる便利な兄ちゃん」だと思っている。
もちろん、本当は違う。
私の能力『軌人歴跡(きじんれきせき)』は、そんな便利な家庭用能力ではない。
薄暗い厨房の裏手、壊れた冷蔵庫の前に立ちながらポケットの工具を取り出し、私は修理に手を付けた。
「なるほど…埃が詰まってショート…これをこうして…ここをこうすれば…」
私は手際よく冷蔵庫の修理を進め、3から4分程で終わった。傭兵時代に様々な国の戦闘に参加して技術を学んだおかげか、いつの間にかこういった知識が身についていた。
「能力に頼らず己の知識と体が戦場のみならず人生においての武器となる…と言った教官は凄いな…」
冷蔵庫の修理が終わり、もう一度電源をつけるとしっかりと動いた。
「おおっ! 動いたか! 流石だな歩くん、相変わらず手先が器用で助かるぜ!」
厨房の奥から様子を窺っていた源さんが、再び冷気を出して唸り始めた冷蔵庫を見て、顔を綻ばせた。
「あはは、ただの接触不良だよ。じゃあ源さん、約束の報酬、期待してるね」
「おうよ! 腕によりをかけた特製の大盛り唐揚げ定食を出してやるから、席で待ってな!」
のれんをくぐってカウンター席に腰を下ろすと、ちょうど昼時ということもあり、店内は常連客たちで賑わい始めていた。
「よお、歩。さっき商店街の裏でハゲと岩男を泣かせたんだって? 野次馬連中が噂してたぞ」
隣の席に座っていた、近所の運送会社で働く青年がニヤニヤしながら話しかけてくる。彼の能力は『触れた者に少し念動力が使える能力』で、普段はトラックの積み込み作業を少しだけ楽にするために使っているらしい。
「ああ、あの二人ね。ちょっと朝飯の邪魔をされそうになったから、大人しくしてもらっただけだよ」
「お前、能力はパッとしないくせに、そういう実戦の立ち回りだけは妙に強いよな。昔どこぞの怪しいジムで格闘技でも習ってたのか?」
「さあね、ただの護身術さ」
適当に話をはぐらかしていると、「へいお待ち!」と源さんが信じられないほどのボリュームの唐揚げ定食を目の前にドンと置いた。山盛りの白米から湯気が立ち上っている。
「残さず食えよ、歩くん。これからの若い奴らがしっかり飯を食って、それぞれの能力でこの街を支えていかなきゃならねえんだからな」
「ありがとう、源さん。いただきます」
サクサクの唐揚げを口に放り込み、白米をかきこむ。文句なしに美味い。
周りを見渡せば、サラリーマンたちが「午後の仕事、ちょっと能力使いすぎて疲れるわー」とぼやき合い、女子高生たちがスマホを片手に「次の流行りの自分の能力を擬人化」について笑い合っている。
誰もが自分の足元が崩れることなんて考えていない。明日も、明後日も、この美味い定食が食べられて、この退屈で賑やかな日常が続いていくと信じている。
そんな人々の笑顔を眺めながら飯を食べる時間は、かつて硝煙の臭いしか知らなかった私にとって、何よりも贅沢な時間だった。
「ごちそうさまでした。」
すっかり満腹になり、源さんの店を後にした頃には、街は夕暮れ時の優しいオレンジ色に包まれていた。
家路につくため、私は再び大通りを歩く。
公園の横を通りかかると、子供たちが無邪気な声を上げて遊んでいた。
一人の男の子が、手のひらから小さな水の玉を生み出し、それを女の子が『風の能力』でふわふわと空中に浮かべて遊んでいる。シャボン玉の代わりのような、他愛もない能力の無駄遣い。それを見て、母親たちがベンチで微笑ましそうに談笑していた。
「あはは、お母さん見て! 上手に浮いたよ!」
「コラ、あんまり高く上げると他のお家に水がかかっちゃうでしょ」
夕方のチャイムが街に響き渡り、家々の窓からは夕食の支度をするいい匂いが漂ってくる。
飛行能力の配達員たちも一日の仕事を終えて地上に降り立ち、警察官も事件のない平和な日々にあくびをしていた。
この国は、この街は、本当にぬるま湯のようだ。
人類が楽を選び、停滞を望んだ結果生まれた、かりそめの楽園。
いつかそのツケを払う日が来るかもしれない…そう心のどこかで冷徹に思いながらも、私はこの温かい光景が、少しでも長く続けばいいなと、本気で願っていたのだ。いや、本気で願っているのだろうか…
私が、アパートの自室の鍵をポケットから取り出した、まさにその時だった。
「「ガギィィィィィィンッッッッ!!!」」
唐突に鳴り響いた大きな音、聞くだけでは場所を特定出来ないほど大きな音で、その音は世界中に響き渡っているのではないかと思うほど耳に残り残響していた。
「な…何なんだ今の音は…?」
ある一種の能力の類やまた戦争かとも思ったが、私の体の芯と心の中が警告を発していた。
この後起こる事は今まで見た戦争や戦いではない、もっと悲惨でもっと無様で最も恐ろしいものだと。
しかし見た感じは世界に何も起こってはいない。
私の勘だけが凄まじく警告を発しているだけのようだった。だが、確実に何かが起こる予感はしている。
「っ…そうだ…源さん!」
私は急いでアパートを離れ源さんの家に向かって走り始めた。
夕暮れの街を、私は全力で疾走していた。
すれ違う通行人たちは、突然響いたあの怪音に戸惑いつつも、「何だ今の音?」「音を出す能力者の悪ふざけか?」などと暢気に口々に言い合い、まだ足を止めているだけだった。誰も逃げようとはしていない。目に見える異常が何もないからだ。
だが、私の細胞すべてが、一刻も早くここから離れろと悲鳴を上げている。
戦場で数々の死線を潜り抜けてきた私の『勘』は、一度だって外れたことはない。
「源さん、無事でいてくれよ……!」
定食屋のある商店街が見えてきた、その時だった。
私の視界が、一瞬だけぐにゃりと歪んだ。
世界の「色」が、ほんの数秒だけセピア色に、あるいは腐った肉のような濁った色に変色したような感覚。いや、感覚ではない。私の網膜が確実に捉えた違和感だ。
「……ッ!?」
足を急に止め、周囲を警戒する。
商店街の入り口。主婦たちが夕飯の買い物の足を止め、まだ「さっきの音、何かしらね」と暢気に喋っている。だが、その主婦たちの背後――路地裏の、光の届かない真っ暗なゴミ置き場の影。
そこに、「それ」はいた。
最初は、ただの黒い泥か、あるいは影の塊かと思った。
しかし違った。それはドロドロとしたタールのような液体で構成された、人の形を歪に引き延ばしたような『何か』だった。顔があるべき場所には、縦に裂けた巨大な口があり、そこから幾重にも生えた鋭い牙が、ねっとりとした唾液を垂らしている。
生き物としての鼓動がない。魔力や能力の残滓すら感じられない。ただ純粋に、この世界の存在ではない異形。
「あ……え……?」
立ち話をしていた主婦の一人が、ようやくその影の存在に気付き、声を漏らした。
同時に、商店街の至る所から「それら」が姿を現し始めていた。
ビルの屋上の縁に、蜘蛛のような無数の節足を生やした、上半身だけが人間の女の形をした怪物が這い出てくる。
八百屋の軒先、果物カゴの影から、無数の「人間の眼球」だけが敷き詰められた、ぶよぶよとした肉塊が転がり出てくる。
それは前触れもなく、最初からそこにいたかのように、日常の隙間から次々と染み出すように現れたのだ。
「な、なんだこれ……! 能力者の悪戯……ひっ!?」
近くにいた買い物帰りの男が、おののきながらも『身体強化』の能力を使い、拳を固めて影の化け物に殴りかかった。
だが、その自慢の拳が、異形のタール状の身体に触れた瞬間――。
ジュウウゥゥッ!!!
「ぎゃあああああアアアッッッ!!! あつい、熱いッ! 溶ける、腕がァァァッ!!」
男の腕は、能力による強化ごと、一瞬で黒いドロドロとした肉へと腐り落ちた。能力の防壁など、この異形たちの前には存在しないも同然だった。
男が絶叫してのたうち回る中、周囲の化け物たちが一斉に、ギチギチと骨を鳴らすような不快な音を立てて動き出す。
「いやああああっ!」
「化け物だ! 誰か、誰か助けてくれ!!」
一瞬前までの温かい夕暮れの商店街が、一瞬にして、この世の終わりのような絶叫と鮮血の坩堝へと変貌していく。
逃げ惑う人々。だが、その誰もが能力を頼りに生き、戦い方を忘れた平和ボケどもだ。異形たちの圧倒的な『捕食』の前に、なす術なく貪り食われ、引き裂かれていく。
「チッ……!」
私は舌打ちを一つ。ポケットから左手を抜き、目の前を横切ろうとした人型の異形へ向けて、無意識に踏み込んでいた。
能力(軌人歴跡)は使わない。こんな混雑した場所でM500をぶっ放せば、一般人を巻き込む。
異形が長い腕を振り回し、私の首を刈り取ろうと迫る。
私はその軌道を完璧に見切り、紙一重で身を屈めて懐へ潜り込んだ。傭兵時代に叩き込まれた、対生物用の近接格闘術(CQC)。
そのまま異形の懐から、護身用に持っていたタクティカルナイフを逆手に抜き放ち、奴の「顎の下」から脳天を貫くように突き刺した。
グチャリ、と嫌な手応えと共に、異形の動きが止まる。
引き抜き、一歩下がると、異形は黒い砂のように崩れ落ちて消えた。
「やっぱり……こいつら、この世界の生物じゃないな」
手についた黒いシミを冷徹に見つめながら、私は再び走り出す。
目指すは、源さんの定食屋だ。
周囲では、炎が上がり、悲鳴が響き渡っている。
曲がり角を曲がり、ようやく見えた『源さん食堂』の看板。
しかし、その店の前には、これまで見たどれよりも巨大な、牛の頭と人間の肉体を繋ぎ合わせたような、血に飢えた巨体の異形が、店の扉を叩き壊そうと拳を振り上げているところだった。
「源さん――ッ!!」