黄昏時。
国道沿いの歩道に、ワイシャツ姿の少年が立っていた。
少し癖がかった、緋色の髪に琥珀のような瞳。
鴨居玲。
手には缶コーヒー1本。
その目は、どこか遠くを見ていた。
そして、次の瞬間――
「うわっ、轢いた!!」
男の車の前を走っていた黒いセダンが、鴨居を真正面から撥ね飛ばした。
鴨居の体は宙を舞い、歩道の植え込みに突っ込む。
セダンは減速もせず、そのまま走り去った。
男は急ブレーキを踏み、車を飛び出す。
「おい! 大丈夫か!? 今の車、轢き逃げしやがったぞ!」
植え込みの中から、鴨居がひょっこり顔を出す。
ワイシャツは泥だらけ、額には血が滲んでいる。
だが、彼は缶コーヒーのふたを開けながら言った。
「……まあ、よくあることだし、しょうがない、しょうがない」
男は絶句した。
「いやいやいやいや、よくあることじゃねぇだろ!
今、お前、フッ飛んだぞ!?特撮映画みたいに!」
鴨居はふらつきながらも、立ち上がる。
「うん、でも死ななかったし。保険証もないし、警察も呼ばないで。
あと、身分証もないから、病院行っても意味ないし」
男は混乱しながらも、鴨居の腕を掴む。
「待て待て待て! お前、名前は? 家は? 親は? つーか幾つだ!?」
鴨居は数秒、血の着いた植え込みを見つめが、一言、
「……じゃ、俺、行くね」
そう言って、ワイシャツの裾を軽く払って、缶コーヒーを持ったまま――
走った。
いや、走ったというより、滑った。
地面を蹴る音もなく、まるで空気を切るように、
鴨居は国道沿いを超高速で駆け抜けていく。
「はあああああ!?待て待て待て待て!!」
男は、叫びながら車に乗っていたことも忘れ、追いかける。
ついさっき、目の前で轢かれたはずの少年が、
今、缶コーヒー片手に時速60キロほどの速度で逃げている。
「アイツ、轢かれたんだぞ!?
なんで走れる!?てか、なんで喋れる!?てか、なんで逃げる!?」
鴨居は振り返らない。
ただ、風に乗るように、歩道を滑走していく。
缶の中のコーヒーはこぼれていない。
ワイシャツの泥も、いつの間にか乾いている。
鴨居を追う、黒い髪を後ろに撫で付けた男。
男は負けず嫌いだった。
そして、世話焼きだった。
そして、足が速かった。
「芸術は爆発だっ!!」
一度止まってスニーカーの紐を結び直し、
男は全力疾走を再び始める。
車道を横切り、歩道を駆け、
自販機を避け、犬を飛び越え、
ついに――角を曲がったところで、
「もういいです、分かりましたっ!一回話合いましょうっ!」
鴨居が息があがりまくった岡本に観念したように声をかけた。
「うち、来てくださいよ。ボロいですけど路上よりはマシなはず」
「あぁぁ、はぁ、そうだな、じゃぁ、お言葉に甘えて...」
岡本は肩で息をしているが、鴨居は汗一つかいておらず、涼しげだ。
「そういえば、車、良かったんですか?」
「クルマ..あっ!!車っ!!やべぇっ!」
鴨居の住むアパートは岡本の車ですぐだった。
線路沿いの古びた木造アパート。
名前は「コーポ希望荘」。皮肉にも、希望はどこにも見当たらない。
外壁は日焼けして色褪せ、郵便受けは錆びて傾いている。
階段はギシギシと鳴り、手すりは片方が外れていた。
鴨居の部屋は、二階の一番奥。
ドアには「退去通知」の紙がセロテープで貼られている。
三日後には強制退去って言われてるんですよ、と鴨居は笑顔で言った。
中に入ると、空気が薄い。
家具はほとんどなく、畳の上に薄いマットレスが一枚。
その横に、缶コーヒーの空き缶が整然と並んでいる。
壁には何も貼られておらず、窓には新聞紙がガムテープで貼られている。
光を遮るためではなく、視線を遮るため。
外から見られるのが嫌なのではなく、自分が外を見たくないから。
「 ……いやぁ、まいりましたねぇ。近頃は景気が悪いってのなんの。
昨日なんか、近所の八百屋のキャベツが、まるで反抗期みたいな顔して並んでてさ。
「買うなら買えよ」って睨んでくるのよ。野菜にまでプレッシャーかけられる時代よ。
で、隣の魚屋の親父が言うには、景気が悪いと鯖がよく腐るんだって。
ほんとかね? 鯖にまで気を遣わせるなって話よ。
そうそう、昨日は町内会の回覧板が回ってこなくてね。
どうやら、隣の奥さんが「読むと気が滅入るから」って、漬物石の下に隠したらしいのよ。
漬物石よ? あれ、情報遮断の最終兵器よ。
俺なんか8割情報あれで仕入れてるって言うのにね。
で、その奥さん、最近は「人間関係は塩漬けが一番」って言っててさ。
旦那さんとはもう3年会話してないらしいけど、漬物は毎日混ぜてるんだって。 なんかもう、愛の形が発酵してるのよ。
…そんでぇ」
鴨居は身振り手振りをつけながら止めどなく、次々と言葉を紡ぐ。
「おい、お前..どうも余計なお喋りが多いぞ」
「あぁ、どうもすいません、年をとると話が長くなっていけない。
おば様達のお話にまで付き合ってたら、すっかり仲良くなちゃって、
今ではすっかり鴨ちゃん出ていかんでよって」
「だから何の話だ、というかお前の年でそんなんなら、俺は常に校長並だよ」
「あぁ、そうでした、名前は鴨居玲。家は…まぁご覧の通り。
理由は自殺未遂による、近隣住民への迷惑行為。」
「自殺....?」
鴨居は岡本の問いに答えずに続ける。
「親は……多分、いない。
1個自殺セットを頼んだら、1万個届いて、家賃も払えなくなった」
鴨居の目線の先は押し入れ。段ボールが積み重なっている。
中には、誤って買わされた「自殺セット」が1万個。
ロープ、睡眠薬風のラムネ、炭、謎の液体、そして説明書。
説明書には「ご使用は自己責任で」とだけ書かれている。
「お前、死にたいのか?」
鴨居は、缶を傾けながら答えた。
「はい。でも、死ねない。何度やっても。
だから、最近は“死にたい”ってより、“死に方を探してる”って感じ」
岡本は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……第五列、って知ってるか?」
鴨居は首を傾げる。
「なんか、軍とか政府とか関係なく、
何でもやる会社でしょ? よく知らないなぁ」
岡本は笑った。
「まぁ、そんなもんか。俺、そこに勤めてる。
お前みたいな“死に損ない”が、案外役に立つかもしれない」
そういうと、岡本は語り出した。
「 正式名称、第五列株式会社。通称、第五列。
国家・企業・個人を問わず、依頼に応じて武力・諜報・破壊・護衛・暗殺などを請け負ってる。民間企業を装った武装集団だ。地下には訓練施設と兵器庫がある。まぁ、一般人で知ってるやつはまずいねぇがな。どうだ?面白そうだろ」
鴨居は、缶を置いて言った。
「初任給は手取り50万円以上で、
出社は午後3時以降、社員寮とかがあるなら」
「しゃ、社長に交渉してみるよ...といか、お前結局幾つだ?」
「56。」
「嘘付けっ!」岡本が叫ぶ。
慌ただしく、1日が過ぎていく。
鴨居の入社まであと2日。