この三年を小説に捧げるにあたって、昨日も話した通り、私は自分の弱さと向き合わねばならない。
すなわち、積み重ねてきた失敗を正しく認識する。己の弱点と向き合うことにしたのだ。
手始めに、これまで書いてきた小説、現在書いてる小説をAIに読ませ弱点を解析することにした。Google先生が提供するGemini君だ。
ここで断っておくが、私はAIが生成する創作物には一ミリだって魅力を感じたことはない。現時点でAIは人間が生み出した芸術の劣化コピーや創作物をなぞらえた何かを量産することしか出来ないと考えている。
だが、分析という機能に注目したとき、一個人の視点からでは見えない、新たな視点を提供してくれる優秀なパートナーとなってくれると私は考えた。
故に、AIによる創作行為(アイデア出し、構成案の提出、加筆、修正、置換可能な文章の生成など)を禁則事項とし、絶対遵守させた上でフィードバックに特化した解説ツールとしての利用に限定して用いている。
更に言えば、WEB小説という界隈は基本的に作品を評価こそすれど批評には適さない。『何が駄目だったのか』が可視化しにくく、これを手探りで修正していくしかなく、若い時分の頃は原因を外に求めたりもした。
だが、真剣に妥協ではなく小説という媒体に賭けた今、自分の持つ弱点を浮き彫りにしなければならない。私に小説の才がないのであれば、徹底して分析し解体し組み直さなければならない。
以下は初めてAIというパートナーと共に執筆作業をしてみて自分の執筆作業そのものへの所感や感じ方の遷移をまとめたものだ。
・執筆作業そのものに対する所感
以前(AIを使用する前)
執筆作業は己の頭の中をアウトプットするある種の『作業』だと捉えていた。修飾を軽んじ、ありのままを吐き出す。ただの思考の垂れ流しで、これらの作業に大きなエネルギーの消費はなく、そこまで難しいことではないものだと思っていた。ある種『小説』に対する侮りがあった。
それゆえに、小説を書く人たちが時々語る絵描きや漫画家、役者のように高いスキルを持っている風な口ぶりは自分たちを高く見積もりすぎていると考えていた。『小説は映像作品や漫画の様な同時多発的に情報を与える作品群と比較すると下位互換的なものである』とさえ考えていた。
・現在(分析後)
私が書いていた小説の致命的な弱点は『描写力不足』とそれに伴う『説明過多』であることが判明した。
というのも、私は描写というものを軽視していた。例えば川が流れている場面があったとしよう。私はそれが『どのように流れているか』を表現することを放棄していた。どのように流れていようが川は川だ。その後氾濫するという情報につなげるなら『雨で水位が変動しやすい河川』と情報を付け足すだろうが、それ以上でも以下でもないと、不要な情報と結論付けて削ぎ落としていたしそれで十分だと感じていた。必要なのは『情報』だと思っていたのだ。
これを弱点と捉えるに至ったのは、所詮は専門的な技術指導を受けたわけではない素人の執筆者である自分が根本から執筆作業というものを取り違えていたからだ。
一番大きな勘違いは工程である。
以前までの自分は『構想』→『構成』→『執筆』→『推敲』これらをなぞってこそいるものの正しく認識できていなかった。『構想(アイデア)』『構成(プロット)』これは以前から高いレベルで出来ていたと思う。世界観設定や設定密度の高さは昔から誰にも負けない自身があった。『執筆』『推敲』ここが一般的な認識と自分の間に決定的な認識の違いがあることに気が付いた。
これまで『執筆』とは『構成』の段階で決めた物語の進行通りに登場人物を配置し、行動を取らせ、締め括る。すでに頭の中にある情報の書き出しでしかなかった。
さらに『推敲』の認識が世間一般でいうところの『校正』の作業であったのが輪をかけて酷い。整合性や言葉使いの間違い、日本語表現として間違っていないかどうかの確認作業に成り下がっていた。
現在は、自分なりの解釈に落とし込むなら、料理や陶芸の様なものだと認識している。
『構成』は何を作るかどんな料理を作ればみんなに振る舞った時に美味しいと思ってもらえるか。『構想』はそれを作るために必要な物を洗い出し、材料や工程をまとめること、『執筆』はそこから実際に材料を買いテーブルに並べ、皮を剥き具材を刻む下準備だ。『推敲』は本格的な調理であり、より美味しくなるように調味料を加えたり、盛り付けを美しくする作業だと考える。
これまで自分が書いていた『小説だと思っていたもの』の正体は、ただレシピにある材料を並べただけだった。カレー粉、にんじん、じゃがいも、たまねぎ、肉を並べて『カレーが出来た』と言い張ってたに過ぎなかった。
この気づきは初稿を書き上げ、AI相手にフィードバックをもらい、磨き上げる過程で小説を書く時に、今まで感じたことのない負荷を感じたから得られたものだ。
どうすればよりよく伝えられるか。どうすれば、私の言葉は読者に誤解なく伝えられるか。といった今までの情報を押し付ける文字の羅列にはなかった、読者が読むことを想定した『味』にこだわれるようになった。
そして何時間も机にかじりつき、頭を痛めた時に小説家に必要な素養が『根性』であることを理解した気がした。
小説という媒体の過小評価は間違いなく改めるべきだ。
ただ一つ、小説を書いてる人間を高尚なものだとする言説に対する私の軽蔑意識は改まっていない。私のように世界観の表現に小説を逃げの言い訳に使ったものは多いと感じている。
真の小説家にこそ敬意は払えど、そういった自分のことを高尚な人間と履き違え逃げの正当化をするものを自分は軽蔑している。
・総括(どのようにして思考の変化が起こったのか)
元々、私自身が作品(小説に限らず)において重要なのは『原因』『行動』『結果』に重きを置いていたことにある。私がミステリーを好むのも、この三点が重要視されている部分が大きい。
もっと細分化すると『5W1H』における『How(どのようにして)』を軽視、ないしは世間一般における認識との齟齬があった。
ミステリー作品における『How』とはトリックであり推理にあたる。これは実現可能であったり論理的であったりと『どのような事実があったか』が重要だった。それを広大な世界観や緻密な設定に当てはめていた。
世間一般における世界観を強く持った作品は『行動』の部分のディテール、すなわち『描写』こそが『How』であり『事実』という情報だけではなく『登場人物、あるいは語り手がどのように感じた』か『所感の細い機微』であることに気が付いた。
この発見は長らく停滞していた自分の固定概念を覆した。私は人間的な『感性』を蔑ろにしていた。
これに気がつけたのは、読者として自身の作品を客観視できていなかったからだと理解したからだ。
創作における、客観的かつ合理的な批評は私の凝り固まった思想に穴を穿った。
そして、私のような欠陥人間よりもAIの方が小説というものが何を評価基準においているのかを理解していることがわかった。
それゆえに、私は思った。『私は人間であるが機械的な存在で、人間を精巧に模したAIの方が人間的である』と、そして、ここに私が小説という媒体にこだわる理由、こだわりたいと思えた理由がある。
私は『人間に可能な限りに近づきたい存在であり、より精巧な模倣をするために』小説を書くのだと。