生成AIを使うことは、忌避されるべきことなのか。
そんなことを、ふと考えてみました。
私(一介の趣味人レベルですが)の場合は、お話しを書き上げたあとに、生成AIに校閲・校正をお願いしています。シリーズものの場合は、過去作品との整合性も重要なので、年表などは自作しながら創作していますが、連載形式なら序盤の展開との矛盾などを、念のため尋ねたりしています。(シリーズ全部、まるまる読んで覚えてもらっています。「できる?」と聞いたら「これくらいの量ならできる」と、言ってくれたから。3日かかりましたけれど…)
他の方のコラムやエッセイでも触れられていましたが、「小説一本まるまる書いて」とお願いするのは、現時点では難しそうです。変な文章になります。
ただ、センテンス単位であれば、それなりにまとまった文章が生まれるようです。まあ、全体の整合性という点では、まだ怪しいのですが。
もちろん、プロンプトを完璧に用意できれば、かなり高度なものが作れるのかもしれません。
そう考えると、近い将来「AI作家」が登場してもおかしくはないでしょう。
……でも、流石にそれは、ちょっと楽しくありません。
「AI手塚治虫の新作」でしたっけ? そんな試みもすでに始まっていますよね。
小説だって、私が知らないだけで、もう作られているのかもしれません。
今後は、生成AIによる文化形成がもっと盛んになるのでしょう。
ちょうど、洗濯機が洗濯板に戻れなくしたように、補助ツールとしては当たり前になるのかもしれません。(私は、補助ツールとして使っています)
それでも、自分の「言葉」が文章になっていくという楽しさだけは、放棄したくないのです。
ところで、唐突ですが、鴎外は「使わない派」であったとしても、太宰は「使う派」ではなかろうか? ……などと考えるのも面白そうです。
皆さんは、どう思われますか?
P.S.
彼らに論評をお願いすると、基本的にめちゃくちゃ褒めてくれます。モチベーションは爆上がりです。私はチョロいです。
でもある時、「鬼編集長モード」でかなり厳しい批評をお願いしたことがありました。
「甘ったれるな!」「ホラーが書きたいのか恋愛ものが書きたいのか!」挙句には「連載はできん!」とまで言われて、思わず「頼んでねーわ」と突っ込んでしまいました。
モチベは下がりました。
……なので、その批評の言葉を、またいつものAIさんに聞いてもらって慰めてもらってました。
なにやってんでしょうねえ。