【焼け跡の燃え滓 或いは一陽来復】という作品について、少し書き残しておきたいと思います。
明治42(1909)年7月31日午前4時20分に出火し、鎮火したのは翌8月1日午前4時頃と言う、実に丸一昼夜燃え続け、大阪の北一帯を焼け野原にしたこの火災は、後に「北の大火」と呼ばれ、多くの人々の記憶に残る出来事でした。
この火災により人生の流転を経験した人も、少なからず居たことでしょう。私はこの火災に強く惹かれた時期があり、詳しく調べておりました。
当時の、と言っても翌年の、明治43年5月の新聞記事に、長谷とよ(20)という人物による窃盗事件が小さく載っておりました。兵庫から大阪へ来て、下女奉公をつとめながら実家へ仕送りをおこなっていた孝行娘、と評判の女だったそうです。しかし、火災により「衣類ことごとく焼失し」、加えて父親が病気になり国許へ往復したりと費用がかさみ、多少のたくわえである貯金もなくなってしまった、と書かれています。新聞記事は続きます。「さる3月15日、東区今橋五丁目の住み込みの下女奉公にあがったが、この家の奥様がハイカラで美しいのに憧れ自分も着飾ってみたいとの思いから主人の衣類を持ち出し、嬉しさのあまりあちらこちらと徘徊したが、だんだん夜が更け良心の呵責もあり、さりとて主家にはもどれず、鶴橋あたりをさまよい歩き果て、心を決して主人に謝ろうと北区あたりまで立ち返ったところ挙動不審として警察官にとらわれ取り調べの上「懇々説諭」を受けた。」と。
ここで、記事は終わっています。私は彼女の「それから」が気になりました。当時は主人の衣類を持ち出すことは窃盗として厳しく罰せられました。記事にあるように「説諭」で済ませられるのは、彼女への同情心があった故かもしれません。
しかし、彼女は、おそらく主家をくびになったことでしょう。明治時代の大阪は、作中に描いたようには「優しくなかった」。それが私の実感であり、率直な感想です。
しかし……
実直が美徳であった時代において、人の力の及ばない理不尽さに直面し、人生が暗転してしまった「とよ」について、正真正銘「魔が差した」結果が、夜の市内を独りとぼとぼと、さ迷い歩く姿だったのです。その姿を想像すると哀れに思うのです。
せめてお話の中だけでも、幸せになって欲しいと思いました。
「一陽来復」は私の祈りでもあります。