(6)来し方行く末
お江戸に出たお静は、しばらくの間、下女として働くことになった。
働くのは、代官様の親戚のお屋敷。
女子衆の手が足りなくなっていたお屋敷で、お静は重宝された。
「お静、もう水汲みが終わったのかい?」
「はい。お屋敷の井戸は、滑車が軽くていいですねぇ」
「かまどの灰は、集めたのかい?」
「はい。まとめておきました。お江戸は、大したものですねぇ!
灰も、使い切った蝋燭も買い取ってもらえるなんて」
「それが、珍しいのかい?」
「ええ。村では、灰は畑や布の色染めなんかに使います。
売ることは無いし、買う者もいません」
「そりゃ、そうか。町ならではの景色かも知れないねぇ。
けど、この灰も灰市に出されて、近くの村に売られるって話だよ」
「そうなんですか。灰がお金になるなんて。
村に戻ったら、灰も大事に使います」
「あははは! お静は、素直でいい子だねぇ!」
小さな村では、皆が、それぞれに出来ることをして働く。
名主の娘とて、ほかの村人と変わりはない。
水汲みだって、かまど掃除だって、お手のもの。
お静にとっては、当たり前のことだった。
代官様の伝手でやって来る名主のお嬢さん。
どうせ、何も出来ないに違いない。
屋敷の者たちは、期待もせずにいたようだった。
けれど、働くお静の姿は、屋敷の者たちの考えを覆す。
受け入れられたお静は、心安らかな日々を送っていた。
***
お江戸に出てから、半年あまり。
若殿様の動きはなく、村に姿を現すこともなくなった。
代官様にも、『お静を差し出せ』という催促はないらしい。
初めのうちは、とにかく屋敷を出ないようにしていたお静。
けれど、あまりに何事も起きない。
『考えすぎだったのかも知れない』
そんな気さえ、するようになっていた。
用心する気持ちは、少しずつ薄れていく。
近くへのお使い程度なら、と屋敷を出ることも増えていった。
『そろそろ戻っておいで。皆も会いたがっている』
そんな父からの手紙が届き、お静は村へと戻ることになった。
「もうすぐ村に戻るんだろ? だったら、せっかくなんだしさ。
屋敷にばかりいたんじゃ、お江戸に来たなんて言えやしない。
村への土産とか土産話のひとつも持って帰らなくちゃ!」
「そう?」
「そうだよぅ。お静ときたら、屋敷に籠りっきりじゃないか。
せっかく仲良くなれたんだ。最後に、遊びに行こうじゃないか」
「でも、いいのかなぁ?」
「いいに決まってるだろ? あんたは、真面目すぎるんだよぅ!」
「ふふふ。そうね。土産のひとつくらいは、買って行きたい」
同じ屋敷で働く娘に誘われて、大きな町へとくり出すことになった。
正直、お静は町に惹かれるものなど無い。
ただ土産をもらって喜ぶ家の者の顔は、見たいと思ってしまった。
「あの大きな小屋は、何だろうね?」
「あれかい? あれは、相撲が見られるのさ」
「あ、おいしそう! なんで串に刺さってるの?」
「そりゃ、食べながら歩けるようにさ」
町に出てしまえば、村とは違うものばかりが目に入る。
大きなお寺に、芝居小屋、屋台の食べもの、かわいい小間物。
お江戸に来るのは、最後かも知れない。
そう思うと、お静は全てを見ておきたくなってしまう。
だから、気づくのが遅れたのは仕方のないことだった。
「こっちに来い!」
「ちょっと! 離してくださいよっ!」
「黙れ。騒がずに、ついて来い」
「嫌です! 離してって言ってるでしょっ!」
手首をガッシリと掴まれて、お静は心の臓が口から飛び出そうになる。
見れば、お静の手首を掴んでいたのは侍姿の若い男。
見覚えは、ない。
そもそも、お静はお江戸で外には出ていない。
知り合いなど、いるはずもない。
「うるさい。騒ぐな。騒げば、連れの命はないと思え」
「えっ?」
慌てて、あたりを見回す。
共に来たはずの娘の姿が見えない。
「お咲ちゃんを、どこにやったの?」
「来れば、分かる」
お江戸で、お静を連れ去ろうとする侍。
そんな心当たりは、若殿様の家臣以外になかった。
(まさか、今になって見つかるなんて!)
お静は、賢い上に度胸があった。
山間の村で暮らすには、度胸がないとやってはいけない。
大風に山崩れ、地面は震え、川は時に大蛇となって村を襲う。
山の実りが少ない時には、獣たちが村に降りてくる。
おなごだからと怯えるばかりでは、村は守れない。
きっと江戸だとて同じこと。
己の身は、己で守らなければ。
そう思ったお静は、兄から身を守る術を教わっていた。
(そうだ、ここで使わなきゃ! 兄さんに教わった通りにっ!)
掴まれた手首を、内側にクルリと返す。
すかさず、己のほうに手首を引っ張って抜け出す。
と同時に、侍の足の指を思いっきり、かかとで踏みつける。
「うぐっ! こ、このっ!」
虚をつかれた侍は、体勢を崩す。
その隙に、お静は走り出した。
屋敷に知らせなければいけない。
お咲が、さらわれてしまったことを。
(お咲ちゃん! どうか無事で居ておくれ!)
必死に走るお静だったが、追っ手がかかる。
どうやら、侍はひとりではなかったようだ。
お静にとって幸いだったのは、ここが繁華な町だったこと。
人の波に紛れれば、容易くは捕まらない。
「待てっ! 待たぬか! 誰ぞ、そのおなごを捕まえてくれっ!」
それでも、追う声は、少しずつ、お静を追い詰めてくる。
屋敷までは、まだまだ遠い。
(もう駄目かも知れない。どうしよう!)
焦るお静の手首が、再び掴まれる。
「ひっ!」
とうとう捕まってしまったかと、怯えの声が出る。
けれど、お静を掴んだ手は優しく、痛みは感じない。
「こちらへ。声を出さずに居てください」
お静の手首を掴んだのは、白い着物に紫色の袴姿の男。
スラリと高い背に、優しげな顔つき。
初めて会う人だが、今は頼るしかない。
お静は、その男の後ろに口を噤んで、隠れた。
男は、着物の袂をお静の上で静かに振る。
(どうやって、お侍を追っ払うんだろう?)
すぐに、侍たちが近くまでやって来る。
目の前に立つ侍に、再び、お静の心の臓がドクンドクンと鳴る。
(え? どうして? 見えてない?)
侍たちは、すぐそばにいるお静には気づかずに去っていく。
紫色の袴姿の男の連れらしい男といくらか話したあとで。
(不思議な人たち……。いや、人ではないのかも……)
おかしな術を使い、助けてくれた男たち。
お静には、ふたりが人ならざる者のように思えた。
怖くはない。
山間の村に住んでいれば、不思議なことは度々起こる。
狐狸に騙されたと思うような話も、耳にする。
だから、人ならざる者が町にいても驚きはしない。
(ありがたい。山の神様が遣わしてくれたのかも知れない……)
ふたりは、お静を助けてやると言ってくれた。
お静は、物の怪に取り憑かれているからと。
助けてもらえるのなら、ありがたいと思わなくもなかった。
それでも、お静は、その申し出を丁重に断ることにした。
物事には、必ず見返りがある。
名主の娘として育ったお静は、そのことをよく知っていた。
案の定、お静が助かるためには、何かを差し出さなければならない。
どうやら、それは、お静の生きてきた思い。
その中には、愛しい家の者たちとの暮らしがある。
平助のことは、少しだって忘れたくなんかない。
「それでは、お願いは致しません」
そう言い切ったお静を、ふたりはポカンとした顔で見る。
きっと、今まで断られたことなどないのだろう。
(だけど、己のことは己で始末をつけなきゃね!)
ふたりの男に丁寧に礼を言うと、お静はお屋敷に向かう。
お咲を、取り戻さなくては。
村での平穏な暮らしを、取り戻さなくては。
己の心を知れば、若殿様だって諦めてくださるはず。
己の来し方も行く末も、己で守ることは出来るはず。
まだ若いお静にとって、この世は己次第だと思えていたのである。
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