番外編 お見合い被害記録帳 お祖母様編



 問題というものは、どうしてこう、忘れた頃にやって来るのだろう。


 あの手帳が見つかって数日後の午後。

 私は自室の長椅子で刺繍枠を膝に乗せながら、のんびり赤子用の小さな布を縫っていた。


 もっとも、のんびりしているのは私だけで、周囲は相変わらず落ち着かない。


 寒くはないか。

 疲れていないか。

 針仕事は長くしすぎるな。

 お茶はちゃんと飲んだか。


 夫は今日も律儀に心配してくるし、侍女たちは侍女たちで、私が立ち上がるたびに緊張した顔をする。


 元気な妊婦というのも案外、肩身が狭い。


 そんな中で本日の来客は、お祖母様だった。


「顔色は悪くないわね」


「悪かったら、入ってきた瞬間に寝台へ戻れとおっしゃるつもりだったでしょう?」


「当然よ」


 当然らしい。


 お祖母様はそう言いながらも、持ってきた箱を侍女に開けさせた。

 中には、小さな肌着や柔らかな布帽子、細かな刺繍の入ったよだれかけまで入っている。


「わあ……」


 思わず声が漏れた。


「昔なじみの針子に頼んだの。まだ早いかと思ったけれど、こういうものは見ているだけで気分が良くなるでしょう」


「ありがとうございます」


 素直にそう言うと、お祖母様は満足そうに顎を上げた。


 本当に、こういう人なのだ。


 厳しいし、強引だし、私の人生に首を突っ込みすぎるところは大いにある。

 けれど決して、情のない人ではない。


 そこがまた厄介なのである。


「リヒャルト殿は?」


「執務です。もう少ししたら戻ると思います」


「そう。相変わらず忙しいのね」


「でも、帰ってきたらまた私の顔色を見て、湯を飲めだの休めだの言いますよ」


「結構じゃない」


「過保護すぎるんです」


「今の貴女にはちょうどいいわ」


 お祖母様はぴしゃりと言い切った。


 私は少し唇を尖らせたが、反論はしなかった。

 どうせしたところで勝てない。


 侍女がお茶を淹れ直しに下がり、部屋に二人きりになる。

 私は針を置いて、肌着をひとつ手に取った。


 小さい。信じられないくらい小さい。


「こんな小さなものが本当に必要になるのね」


「当たり前でしょう。赤子は小さいのよ」


「知識としては知っていましたけど……」


「実感が湧いていない顔ね」


「少しは」


 答えながら、私はつい傍らの小机へ目をやった。


 そこには本が二冊と、紙切りばさみと、閉じたままの深緑の手帳が置いてある。


 ……しまった。


 昨日の夜、少しだけ読み返して、そのまま棚へ戻し忘れていたのだ。


 しかもよりによって、お祖母様がいる日に。


 いや、大丈夫。

 表紙にはただ『お見合い被害記録帳』としか書いていない。

 中身さえ見られなければ何とかなる。

 たぶん。


 そう思った瞬間だった。


「シシィ」


「はい?」


「あれ、何?」


 お祖母様の視線が、まっすぐ小机を射抜いていた。


 終わった。


「どれですか」


「しらばっくれないの。緑の手帳よ」


「ああ、あれは……その……」


「その?」


 私は猛烈に頭を回転させた。


 日記。駄目だ。読まれる。

 帳簿。もっと駄目だ。お祖母様は絶対に中身を確認する。

 詩集。私にそんな趣味がないことはばれている。


「献立帳です」


「嘘ね」


「どうしてですか」


「貴女が献立を書き残すような殊勝な子なら、私はあんなに苦労してないわ」


 ぐうの音も出ない。


 お祖母様はすっと手を伸ばした。

 私は反射的に手帳を掴み、自分の胸に抱え込む。


「駄目です」


「余計に怪しいわね」


「怪しくありません」


「では見せなさい」


「嫌です」


「どうして」


「嫌だからです!」


 見苦しい問答だった。

 だがここで引いたら終わる。

 あの手帳だけは終わる。


 お祖母様は目を細めた。


「そんなに嫌がるなんて、さては私の悪口ね」


「ぎくっ」


「図星じゃないの」


「違います!」


「今のは完全に図星の音だったわよ」


 どうしてお祖母様という生き物は、こうも勘が鋭いのだろう。


 私がじりじりと後ずさると、お祖母様はふんと鼻を鳴らした。


「安心なさい。いくら何でも、人の手帳を奪ってまで読みはしないわ」


「本当ですか?」


「ええ」


 私は肩の力を抜いた。


 その時だった。


「失礼します」


 扉が開き、リヒャルトが入ってきた。

 仕事帰りらしく、まだ上着をきちんと着ている。私の姿とお祖母様の姿と、そして私が手帳を抱えている状況を見て、彼は一瞬だけ目を止めた。


「何かありましたか」


「何でもありません!」


「その手帳に何かあるのよ」


 ある意味、最悪の助け舟が来てしまった。


 リヒャルトは私とお祖母様を見比べ、静かに近づいてくる。


「見せられないものらしいです」


「そうなのよ。だから余計に気になるの」


「本人が嫌がるなら、おやめください」


 さらりと言ったその一言に、私はちょっとだけ感動した。


 やはりこの人は最高である。


 しかし、お祖母様はそこで引かない。


「貴方までそう言うと、なおさら読みたくなるでしょう」


「ならないでください」


「無理よ」


「なぜです」


「気になるものは気になるの」


 大人げなさが一周回って清々しい。


 リヒャルトは小さく息をついた。

 それから私の隣へ来て、膝をついた。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫じゃありません」


「お腹は張っていませんか?」


「今のところは」


「では手帳より先に、少し姿勢を変えましょう」


 言うが早いか、彼はクッションを整え、私の背を支えて座り直させた。

 私は手帳を抱えたまま、半ば強制的に楽な姿勢へと移される。


「お茶も冷えています。取り替えさせます」


「待って。今はそれどころでは」


「今こそそれどころです」


 本当にこういう人なのだ。


 お祖母様は呆れた顔をしていたが、どこか面白がってもいた。


「相変わらずね、婿殿は」


「妻が最優先ですので」


「知っているわ」


 お祖母様はあっさり言った。


 その返事が妙に自然で、私はむず痒くなる。


 リヒャルトが侍女へ茶の差し替えを指示した、そのほんの数呼吸の隙だった。


「……あっ」


 お腹の子が不意に大きく動いた。


 思わず私が腹へ手を当てると、リヒャルトの視線がすぐにそちらへ向く。


「今、動きましたか」


「ええ、ちょっと強めに」


「どこです」


「ここ」


 彼がそっと手を重ねる。

 その瞬間、私は完全に油断した。


 次の瞬間、お祖母様の手がひょいと伸びて、私の腕の間から手帳を抜き取っていた。


「お祖母様!」


「隙だらけよ!」


「返してください!」


「一頁だけ!」


「一頁でも駄目です!」


 私は立ち上がりかけたが、リヒャルトに止められた。


「立たないでください」


「でも!」


「私が取ります」


「読まずにですか?」


「たぶん」


「たぶんって何ですか!」


 その間にも、お祖母様はすでに手帳を開いている。

 しかもよりによって声に出して読み始めた。


「第三回お見合い、エドガー卿。会話の途中で前髪の向きが変わった。たぶんおでこに乗ってる。風が吹いたら終わるわね、あれは……」


「やめてぇぇぇ!」


 私は顔を覆った。


 リヒャルトの肩が、わずかに震えている。

 笑っている。絶対に笑っている。


「好きな花を聞かれたので白薔薇と答えたら、母上も白薔薇がお好きですと返された。貴方自身はどうなの……ふふっ」


「お祖母様まで笑わないでください!」


「だって事実でしょう」


「事実だけど!」


「結論、結婚したら夫ではなく夫の母と暮らすことになる予感。お祖母様へ。私を何だと思っているのですか?」


 お祖母様はそこで顔を上げた。


「ずいぶん言うじゃないの」


「若かったんです!」


「今も若いわよ」


「今はもう少し丸くなりました!」


「そうかしら」


 疑わしい目を向けられた。

 失礼である。


 だが本当の地獄はまだここからだった。


 お祖母様はぺらぺらと頁をめくり、私が最も見られたくなかったあたりにたどり着く。


「最終回になるといいお見合い。リヒャルト・エーヴェルス卿」


「閉じて! そこは閉じて!」


「顔が良い。困る。声も良い。困る。話が通じる。もっと困る……」


 お祖母様の声が、どんどん楽しそうになる。


 私は恥ずかしくて死ぬかと思った。


 リヒャルトは相変わらず静かな顔をしていたが、耳だけ少し赤い。

 そんな顔をするくらいなら止めてほしい。


「この人は変人かもしれない。でも今までで一番ましどころか、かなり良い気がする」


「お祖母様ぁ……!」


「追記。やっぱりかなり良い。甘いものを出すと言われた。何故そこまで的確なのか。意味がわからない。怖い」


 そこでついに、お祖母様が吹き出した。


 しかもリヒャルトまで、今度は隠しもせず口元を押さえている。


「そんなに面白いですか!」


「面白いわよ」


「私は面白くありません!」


「私は少し光栄です」


 横から落ちてきた低い声に、私はぎっと夫を睨んだ。


「貴方まで!」


「怖いと思われていたのは心外ですが」


「今それを言うの?」


「ただ、かなり良い気がすると書かれていたのは嬉しいですね」


「聞かないでください!」


「聞こえてしまったので」


「お祖母様が声に出すからでしょう!」


 私は真っ赤になっていたと思う。

 絶対になっていた。


 けれど、お祖母様は笑いながらも、最後の頁を開いたところでふっと表情を和らげた。


「……お見合いから逃げ回っていたのに、最後に捕まった相手が最高の男だった。なんでこうなったのかわからない。だが悔しいことに幸せである」


 部屋の空気がふと静かになる。


 お祖母様は最後の一行を、今度は読み上げなかった。

 ただ目で追ってから、ゆっくりと手帳を閉じた。


「返すわ」


 差し出された手帳を、私はそっと受け取った。


 お祖母様はいつものようにしゃんと背筋を伸ばしたまま、私を見た。


「ずいぶんひどいことも書いてあるけれど」


「……はい」


「でも、貴女はちゃんと嫌なものを嫌だとわかっていたのね」


 私は目を瞬いた。


 叱られると思っていた。

 呆れられるとも。


 なのにお祖母様の声は、思っていたよりずっと静かだった。


「お祖母様」


「当時の私は、早く貴女を安心できる結婚という道へ押し込みたかった。女が一人で生きる大変さを知っていたからよ」


「ええ、知っています。何年、貴女の孫をやっていると?」


「でも貴女は、安心だけでは足りないと言っていたのね」


 私は何も言えなかった。


 お祖母様は小さく息をつく。


「腹立たしいほど頑固で、面倒な孫だと思っていたけれど」


「今もそう思ってますよね?」


「ええ。でも、その頑固さがなかったら今はなかったのでしょう」


 その言葉が、思いのほか胸にしみた。


 隣でリヒャルトが黙っている。

 余計な口を挟まないのも、この人の優しさだ。


「……最後の一行、読みませんでしたね」


 私がそう言うと、お祖母様はふんと鼻を鳴らした。


「そこまで読んだら、貴女が本気で泣きそうだったもの」


「泣きません」


「どうかしら」


「泣きませんったら」


「では聞かないことにしてあげる」


 絶対に読んだくせに、そこだけ妙な情けをかけてくる。


 やっぱり敵わない。


 しばらくして侍女が新しいお茶を運び、部屋の空気はやわらいだ。

 私は手帳を膝の上に置いたまま、ぼそりと呟く。


「……怒ってないんですか?」


「何に?」


「私があんなことを書いていたことに」


「多少は怒っているわ」


「多少」


「前髪の件なんて笑っちゃうけど」


「笑うんですね……」


「でも、それ以上に」


 お祖母様は私の腹へ目をやった。

 それから、いつになく穏やかな声で言った。


「今こうして、ちゃんと幸せそうだからよかったわ」


 私は返事ができなくなった。


 お祖母様は不器用だ。

 きっと私も似たのだろう。


 真正面から優しいことを言われるより、こういう言い方のほうが胸に来る。


「……お祖母様」


「何よ」


「ありがとうございます」


「今さら素直で気持ち悪いわね」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 するとお祖母様は、ほんの少しだけ笑った。


 その時、隣のリヒャルトが低い声で言う。


「では、その手帳は引き続き保管ということで」


「待ってください」


「なぜです?」


「今の流れで、そこへ行くの?」


「思い出として価値があります」


「私の黒歴史です!」


「私にとっては貴重な資料です」


「資料って言わないで!」


 お祖母様がまた吹き出した。


「良かったじゃない。最高の男なのでしょう?」


 ぐっと言葉に詰まる。

 何も言えないではないか。


 私は手帳を抱え込みながら、ふてくされた声で言った。


「……そうですよ」


「聞こえないわ」


「そうですってば」


「もう一度」


「最高の男です!」


 言った瞬間、リヒャルトが今日一番やわらかく笑った。

 お祖母様は満足そうに頷いている。


 私は真っ赤な顔のまま、膨らんだ腹を撫でた。


 まったく。


 若い頃の私が見たら、きっと信じないだろう。

 お見合い相手の悪口を書き散らして、お祖母様を恨んで、結婚なんてしたくないと息巻いていたあの頃の私が。


 その手帳を、お祖母様本人に読まれたあげく。

 隣では愛しい旦那様が笑っていて。

 私はちゃんと、幸せだなんて。


 人生は本当に、わからない。

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