第8話「取引の夜」
夜の街は、昼とは別の顔をしていた。
同じ石畳なのに、日が落ちると別の場所になる。昼間は商人の声で賑わっていた市場が、今は静かだった。静かすぎた。人の気配は消えていなかった。ただ、表に出てこなくなっただけだった。
路地の奥に、明かりがある。扉の隙間から声が漏れる。どこかで酒の匂いがする。
この街の本当の商売は、夜に動いている。
俺はそれを、ここ数日で学んだ。
カルムの依頼を受けるかどうか、期限は明日だった。
答えを出せないまま、俺は夜の街を歩いていた。
考えるために外に出たわけじゃなかった。ただ、ギルドの天井を見上げ続けるのに限界が来ただけだった。
角を曲がった時、声が聞こえた。
くぐもった声だった。誰かが何かを押し殺しているような音だった。
俺は足を止めた。
路地の奥に、人影が二つあった。
一つは壁に押しつけられていた。もう一つが、その胸倉を掴んでいた。
月明かりで顔が見えた。
壁に押しつけられている方が——ミトルだった。
「もう一度言う」と胸倉を掴んでいる男が言った。「店を閉めろ」
ミトルは答えなかった。答えられなかった。男の腕が、喉に当たっていた。
「ロッガの旦那はな、一度で聞かない奴には優しくしないんだ」
男が壁に叩きつけた。鈍い音がした。
俺の足が動いた。
考えるより先に体が動いていた。路地に入って、男の背中に向かって言った。
「すみません」
男が振り向いた。
三十代。筋肉質。腰に剣を差していた。俺を見て、一瞬だけ値踏みして、すぐに興味を失った目をした。
「消えろ。関係ないだろ」
「ギルドの者です」と俺は言った。「この方、ギルドの依頼人なので」
「だから何だ」
「ギルドの依頼人に危害を加えると、ギルドとの取引に影響が出ます。ロッガ商会はギルドと取引していますよね」
男は俺を見た。
剣の柄に手が伸びた。
俺は動かなかった。動けなかった。でも動かなかった。
心臓が喉から出そうだった。でも顔には出さなかった。出したら終わりだとわかっていた。
男は三秒、俺を見た。
それからミトルの胸倉を離した。
「覚えておけ」とミトルに言って、路地を出ていった。
足音が遠ざかっていく。
遠ざかり切ったところで、俺は息を吐いた。
足が震えていた。
ミトルは壁に手をついて、しばらく咳き込んでいた。
俺は近づかなかった。
回復を待った。
ミトルが顔を上げた。俺を見た。
「また助けられた」
「たまたま通りかかっただけです」
ミトルは首を振った。
「ロッガに狙われている」と彼は言った。「わかっていた。でも——店を閉めるわけにはいかない」
「なぜですか」
ミトルは少しの間、黙った。
路地の奥から、風が来た。薬草の匂いがした。ミトルの服に染み込んだ匂いだった。
「親父が死ぬ前に言ったんだ」とミトルは言った。「この店の薬で、何人もの命が助かった。それを続けろって」
俺は何も言わなかった。
「馬鹿みたいだろ」とミトルは笑った。笑い方が歪んでいた。「命が危ないのに、薬屋を続けるなんて」
「馬鹿じゃないと思います」
ミトルは俺を見た。
「本当にそう思うか」
俺は少しの間、考えた。
「わかりません」と正直に言った。「でも——そういう人間がいなくなったら、この街は終わりだと思う」
ミトルはしばらく俺を見た。
それから、また歪んだ笑い方をした。今度は少しだけ、さっきと違った。
「一つ、頼んでいいか」と彼は言った。
「聞きます」
「ロッガが何を運ぼうとしているか、調べてくれないか。あいつが動く時、必ず誰かが消える。次に消えるのが誰かだけでも——知っておきたい」
俺は答えなかった。
すぐには答えられなかった。
これはもう商談じゃなかった。俺が首を縦に振れば、カルムと正面からぶつかることになる。
でも。
ミトルの目が、俺を見ていた。
縋っているわけじゃなかった。ただ、正直に頼んでいた。それだけだった。
「わかりました」と俺は言った。
言った瞬間、自分でも驚いた。
損得を計算した結果じゃなかった。
『商談成立。ガチャを一回引きます』
頭の中で音が弾けた。
今まで聞いたことのない音だった。重い音だった。
光の輪が回転した。
いつもより長かった。
止まった。
『★★★★★【直感・極上】を取得しました』
五つ星。しかも「極上」という言葉がついていた。
俺はその文字を、頭の中でしばらく眺めた。
意味がわからなかった。直感が、どう役に立つのか。
でもスキルが発動した瞬間、何かが変わった気がした。
世界の輪郭が、少しだけ鮮明になった。
路地を出た時、人影があった。
すぐそこに立っていた。
レイナだった。
壁に背中を預けて、腕を組んでいた。いつからいたのかわからなかった。
「全部聞いていたか」と俺は言った。
「ほとんど」
俺は溜息をつこうとして、やめた。
「怒っているか」
「怒っていない」
「じゃあ何だ」
レイナは少しの間、俺を見た。
それから、路地の奥——ミトルが消えた方向を見た。
「あの商人」とレイナは言った。「長くない」
俺は黙った。
「ロッガのカルムが動き始めたなら——止める手段がなければ、消える」
「わかっている」
「それでも引き受けたのか」
「ああ」
レイナは俺を見た。
長い間、見た。
何かを測っているような目だった。でも今日は少し違った。測りながら、何か別のことも考えているような目だった。
「教えることがある」とレイナは言った。
「カルムについてか」
「ああ」
夜風が吹いた。
レイナの銀色の髪が揺れた。
街の奥から、誰かの笑い声が聞こえた。
カルムの笑い方に、似ていた。
「歩きながら話す」とレイナは言って、歩き始めた。
俺は隣に並んだ。
夜の石畳を、二人で歩いた。
レイナが話し始めた。
それは俺が予想していた内容より、ずっと暗い話だった。
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