第14話 国家簒奪
1940年6月6日。
ソンム川以南、深化した突破口。
払暁から始まった猛攻は、夜を徹しても止むことはなかった。
シュミット少尉率いる第1小隊がこじ開けた一筋の亀裂。
それは後続の第2戦車大隊、そして第1装甲師団全戦力の流入を許す修復不能な「裂け目」へと拡大していたのです。
IV号戦車101号車のキューポラに立つシュミットの瞳には、重度の疲労ではなく、冴え渡る数学的な興奮が宿っていた。
「……カール、速度を維持。左翼の歩兵連隊との距離、誤差500メートル以内に維持しながら前進」
操縦手席から、カール・シュミット伍長が地下鉄の転轍機を切り替えるような正確さで、エンジンの回転数を調整した。
「ツー・ベフェール(了解)、少尉殿! 地下鉄の急行並みに飛ばしてやりますよ」
マイバッハHL120TRMの咆哮が、一段と高まった。
彼らが突き進んでいるのは、もはや強固な防衛線ではなかった。
フランス軍第7軍が必死に再編したレジスタンス・センターは、シュミットの計算に基づいた波状攻撃の前に、次々と孤立した「点」へと成り下がっていたのです。
「103、104、左前方から合流しようとする敵の増援を阻止せよ。距離1500。奴らはまだ、こちらの展開速度を読み違えている」
「了解だ、シュミット少尉。ハルダウンで待ち伏せます」
かつての臆病さをかなぐり捨て、シュミットへの心酔を深めるシュタイン伍長の104号車が、地形の起伏に滑り込む。
シュミットの脳内では、戦場という名の図面に、フランス軍の「指揮系統の切断図」が描き出されていた。
一箇所の拠点を抜けば、隣接する拠点の補給路が断たれる。
補給路が断たれれば、敵はパニックに陥り、火網の密度が下がる。
その瞬間に、装甲部隊が深部へと「浸透」する――。
「……これが、グーデリアン閣下の望んだ『速度』による防衛網の無力化だ」
前方から、フランス軍の75mm野砲による散発的な砲撃が届いた。
だが、それは昨日のような統率された「火網」ではない。
恐怖に駆られた盲目的な威嚇射撃に過ぎなかった。
「ベルガー、主砲の7.5cmは温存しろ。……同軸機銃で十分だ。敵の観測兵を沈黙させれば、あの野砲はただの鉄屑になる」
「心得ました、少尉殿。……時計の針を止めるように、静かに処置しましょう」
砲手ベルガーの指先が、精密機械のスイッチを入れるように機銃のトリガーへ触れた。
その時、無線機に連隊長ヴァルテンベルク大佐の、高揚した声が割り込んだ。
「101号車!シュミット少尉、聞こえるか! 師団長キルヒナー中将から伝辞だ。『ウェイガン・ラインの心臓部は停止した』。今、我が師団の右翼を走る第2装甲師団も渡河を完了した。敵の全線が崩壊を開始している!」
シュミットは、硝煙の混じる風を吸い込み、小さく息を吐いた。
「……了解しました。ウェイガン・ラインは死にましたね、大佐殿」
崩壊は、連鎖反応となってフランス軍を飲み込んでいったのです。
拠点を固守せよというウェイガン将軍の命令は、背後に回り込んだドイツ戦車のエンジン音にかき消され、フランス兵たちは泥まみれの軍旗を捨てて南へと敗走を始めた。
「105号車から101! 少尉、見てくださいよ! 敵さんが次々に車両を捨てて逃げ出してますぜ!」
アルフレート・グリム上等兵が、双眼鏡越しに愉快そうに叫んだ。
「ゼーリヒ、あそこの逃げ遅れた装甲車、お見舞いしてやれ!」
「了解〜、ふふふ〜ん」
ゼーリヒが放った大雑把な一撃が、敵の先頭車両を炎上させ、敵兵の逃走経路を寸断した。
もはやそれは「戦闘」ではなかった。
一方的な追撃であり、蹂躙だった。
6月7日。
雨は止み、初夏の陽光が再び泥濘を照らし出す。
だが、その光が照らし出したのは、かつて「最強」を自負したフランス軍戦車の無残な残骸の列だった。
シュミットは、101号車の砲塔に腰掛け、泥に汚れた地図を広げた。
ウェイガン・ラインという名の境界線は、もはや地図上のどこにも存在しなかった。
「……パリですか、少尉殿?」
カールが、抑えきれない興奮を込めて尋ねる。
「いや。……フランスという名の国の命運を、完全に終わらせる場所だ」
第1装甲師団、別名「死神の道標」。
彼らはウェイガン・ラインの屍を越え、歴史の最短ルートを駆け抜けて、パリへと続く直線道路にその轍を刻み始めたのです。
1940年6月10日。
フランス政府は首都パリを放棄し、トゥール、そしてボルドーへと逃れた。
ソンム川とエーヌ川の最終防衛線「ウェイガン・ライン」が崩壊した時点で、フランス軍には首都を死守するだけの組織的戦力は残されていなかった。
軍事総督アンリ・ダンツ将軍は、市街の破壊を免れるため、パリを「ヴィル・ウーヴェルト(無防備都市)」と宣言する。
この瞬間、ヨーロッパの文化と歴史の象徴たる大都市は、戦術的な目標としての価値を失い、戦火を交えることなくドイツ軍の手に委ねられることが確定した。
6月14日、早朝。
灰色の軍服を着たドイツ軍第18軍の歩兵部隊が、静まり返ったパリ市街へと足を踏み入れた。
抵抗はない。
銃声も、砲の轟音も聞こえない。
沿道には、逃げ遅れた一部の市民が、絶望と恐怖の入り混じった瞳で侵略者の行進を黙然と見つめているだけだった。
エトワール凱旋門の下を軍靴が規則正しく踏み鳴らし、シャンゼリゼ通りにはハーケンクロイツの旗が翻った。
それは、第一次世界大戦の敗戦から20年余り、ドイツが国家の悲願として追い求め続けた歴史的復讐が完遂された瞬間であった。
しかし、その華々しい無血入城の祝祭のなかに、ソンム川の泥濘を切り裂いたあの「鋼鉄の群れ」の姿はなかった。
グーデリアン率いる第19装甲軍団、そして総予備として前線に投入された第1装甲師団の目的地はパリではなかった。
彼らの進撃軸は首都の東方へと向けられ、マジノ線に取り残されたフランス軍主力を背後から包囲、殲滅するための長大な迂回追撃戦へと駆り出されていたのである。
無防備都市となったパリに、重装甲の突撃砲やIV号戦車は必要ない。
パレードの飾りとしては泥にまみれすぎており、破壊兵器としてはもはや標的が存在しなかった。
パリ陥落の報せは、埃っぽいフランス中部の平原を移動中の101号車にも、無線のノイズと共に届いた。
ハッチに腰掛けていたシュミット少尉は、その歴史的なニュースを聞いても、表情を全く変えなかった。
彼の視線は、無電の向こうにある花の都ではなく、手元の膝に広げられた作戦図に落とされていた。
「……計算通りだ」
シュミットの唇から零れたのは、歓喜でも感嘆でもなく、ただの確認作業のような冷ややかな呟きだった。
敵の政治的中枢が機能停止した。
それにより、敵軍の士気低下と指揮系統の完全な崩壊という変数が確定した。
彼にとってのパリ陥落とは、ただそれだけの事象に過ぎない。
自分たちのような総予備戦力が、本来の目的である「決戦」ではなく、ただの「敗残兵の掃討と包囲網の形成」という消化試合に回されている事実こそが、この戦役がすでに終わっていることを物理的に証明していた。
「終わりましたね、少尉」
操縦席からカール・シュミット伍長が、少しだけ安堵の混じった声を出した。
「ああ。だが、我々はまだ止まれない。敵が動く限りは次の目標座標へ向かうだけだ」
パリの空に鉤十字が掲げられ、後方の政治家や将軍たちが美酒に酔いしれている頃。
血と泥に塗れた最前線の鋼鉄の獣たちは、歴史的な勝利の余韻から完全に切り離されたまま、ただ淡々と次の数式を解くために荒野を南下し続けていた。
彼らが得たのは「パリ」という華やかな果実ではなく、どこまでも続く土埃と、戦うべき相手を失った空虚な平原だけであった。
1940年6月、狂乱のパリ。
凱旋門を潜り抜ける国防軍の軍靴の響きとは対照的に、ブローニュの森の奥深くに佇む接収された館には、冷徹な静寂が満ちていた。
その豪華な応接間のソファに、場違いな男が一人、所在なさげに座らされていた。
ウィリアム・パトリック・ヒトラー。
総統の異母兄アロイスの息子であり、イギリスから「叔父の威光」を頼ってドイツへ渡ってきた、野心家だが煮え切らない若者だ。
彼を「保護」したのは、国防軍ではない。黒い制服に身を包んだ親衛隊(SS)の特務班だった。
「……信じられん。これほどとは」
部屋の隅から、凍り付くような声が漏れた。
親衛隊全国指導者、ハインリヒ・ヒムラーである。
彼は円眼鏡の奥の目を細め、ウィリアムの顔を凝視していた。
角度によっては、総統アドルフ・ヒトラー本人がそこに座っているのではないかと錯覚させるほど、その輪郭と眼光は似通っていた。
「伯父上……いや、総統閣下はどこに?」
ウィリアムが震える声で尋ねると、傍らに立っていたずんぐりとした体躯の男――総統官房長マルティン・ボルマンが、肉厚な手で彼の肩を叩いた。
「総統は忙しい。だが、我々は君に多大な関心がある。ウィリアム、君はイギリスでくすぶっているよりも、もっと『大きな役割』を果たすべきだとは思わないか?」
ボルマンの口元に浮かんだのは、蛇のような湿り気を帯びた笑みだった。
この場にいる三者の思惑は、すでに一つの「結末」へと収束していた。
ヒムラーは、アーリア人の理想を掲げながらも、その実、自らが支配する神秘主義的な暗黒帝国を夢想していた。
ボルマンは、権力の中枢に潜り込みながら、独裁者の影として帝国の資産を冷酷に差配し、私腹を肥やすことにのみ執着していた。
そしてウィリアムは、手に入れたことのない富への渇望と、歪んだ名誉、そして肉欲という下賤な欲望に突き動かされていたのです。
「アドルフ・ヒトラーは、もはや生きた神になりすぎた」
ヒムラーが、淡々と事務報告でもするかのような口調で言った。
「神は、適切な時期に天へ昇らねばならない。そして、地上には『神の形をした偶像』が必要だ。……操りやすい、偶像がな」
ウィリアムの喉が鳴った。
彼は自分がどのような役割を期待されているか、その恐ろしさと甘美さを瞬時に理解した。
本物のヒトラーを暗殺し、この「生き写し」を替え玉として据える。
実権はヒムラーとボルマンが握り、第三帝国の莫大な富と権力を、総統の名の下に吸い尽くす。
「時期を待つのだ、ウィリアム」
ボルマンが耳元で囁く。
「フランス戦の勝利という絶頂期に殺すのは得策ではない。大衆が熱狂から冷め、あるいは総統の判断に陰りが見えた時……その時こそ、君が『本物』に取って代わる瞬間だ」
「……私は、何をすればいい」
ウィリアムの瞳に、暗い野心の火が灯った。
「まずは、そのイギリス仕込みの振る舞いを捨てることだ。我々が君を完璧な『総統』に仕立て上げる。君は、帝国の金庫を我々に開け放つ鍵となればいい」
窓の外では、パリを制圧したドイツ軍の祝砲が遠く鳴り響いている。
しかし、この密室で結ばれた三者の盟約は、栄光に沸く第三帝国の心臓部に、修復不可能な毒を流し込もうとしていた。
歴史の歯車は、ベルリンの総統が預かり知らぬところで、私欲と裏切りという名の不純物を噛み込みながら、静かに、そして確実に狂い始めていた。
ボルマンが不意にテーブルに近づく。
そこには、接収されたばかりの館の持ち主が遺していった最高級のクリスタル・ボトルが置かれていた。
ロマネ・コンティ(Romanée-Conti)、一九三七年。
黒みを帯びた、濃密なガーネットの液体がクリスタルグラスに注がれる音が、静寂に満ちた応接間にやけに大きく響くのです。
それはまるで、戦場で流される鮮血を銀の器に集めるような、不吉で甘美な響きであった。
「まずは、この勝利を祝おうではないか。我々三人の、輝かしき未来のためにな」
ボルマンがその肉厚な手で、宝石のごときグラスをウィリアムに差し出し、もう一つをヒムラーへと手渡した。
ヒムラーは無機質な円眼鏡の奥で、彼にしては珍しく人間らしい、それでいて酷く歪んだ笑みを浮かべていたのです。
事実、この三人の邂逅は彼らにとって最大の福音であり、祝福すべき未来への『鍵』が手に入った瞬間であった。
「ウィリアム、君がその顔を維持し、我々の台本通りに動く。それだけで、ドイツという名の全てが、すべて我々の私有財産に変わるのだ。……シュペーアが作り上げる壮大な建築も、ゲーリングが略奪した美術品も、そしてライヒスバンクの金塊も。すべては『総統の意志』の名の下に、我々三人の掌の上で転がすことになる」
「……第三帝国のすべてが、か」
ウィリアムは、歓喜に震える手でその薄いクリスタルグラスを受け取ったのです。
脳裏をよぎるのは、ロンドンの煤けた空の下、湿った壁に囲まれた貧相なアパートの記憶。
やっと辿り着いたベルリンで待っていたのは、叔父アドルフから浴びせられた、心臓を抉るような罵声の数々であった。
「あの男は、私を『忌まわしい汚濁』と呼び、公職から遠ざけた……何も努力をして無いなど、私の何が分かるというのだ」
成功した叔父を頼り、薔薇色の人生を夢見てドイツへ渡った彼を待っていたのは、禁欲を強いる独裁者による苛烈な叱責に過ぎなかったのです。
アドルフ・ヒトラーにとって、この甥の存在は、自らが築き上げた鋼鉄の理想郷に混じった「下賤な私欲」そのものであった。
失意のままフランスへ渡り、イギリスへ帰る路銀さえ底を突き、飢えと屈辱の中で今日という日を迎えていたウィリアム。
それらすべての惨めな過去が今、グラスの中で揺れる濃密なガーネットの液体――ロマネ・コンティと共に、無上の快楽へと昇華されようとしていたのです。
「叔父上が私に与えなかった地位も、富も、名誉も、そして……望むがままの若い女たちも。ボルマン、貴公らはそれらすべてを私に約束するというのだな?」
ウィリアムは、叔父に似たその鼻筋を、卑俗な欲望で醜く歪めた。
彼にとって「ヒトラー」という姓は、もはや重圧などではなかった。
それは、この世の贅を尽くすための、最も高価な通行手形に変わったのです。
「そうだ。アドルフが夢見る『千年帝国』は、彼と共に灰になればいい。後に残るのは、我々が支配し、我々が吸い尽くすための巨大な集金システムだ」
ボルマンがグラスを高く掲げた。
「暗殺の手段はいくらでもある。視察先での爆辞、あるいはSSが開発中の『跡形もない病死』。だが焦ることはない。今はあの男に、このフランス戦の栄光を存分に味わわせてやればいいのだ。頂点に達した時こそ、墜落の衝撃は最も美しく、すり替えは容易になる」
カチン、とクリスタルが触れ合う鋭い音が響いた。
「我らブリュードルフシャフト(盟友)に」
ヒムラーが冷徹な確信を込めて、ボルマンが底なしの貪欲さを剥き出しにして、そしてウィリアムが狂おしいまでの野心をその瞳に宿して。
三人は手にしたグラスを掲げ、同時にその深紅の液体を喉へと流し込んだのです。
それは、神聖な国家の規律を嘲笑い、個人の欲望のみを唯一の法とする、一つの固い盟約が成された瞬間であった。
『この三人に上下関係は無く、常に対等であること』
その盟約は、一見すれば奇妙な温情に見えるかもしれません。
しかし、その実態は、第三帝国の法から解き放たれた「獣たちの不可侵条約」に他ならないのです。
SS(親衛隊)という国内最高の暴力装置を握るヒムラー、総統の耳目を独占し資金を操るボルマン、そしていずれ『総統閣下』として君臨するはずのウィリアム。
この三人が対等であるということは、彼らが互いの領分――暴力、金、そして王権――を共有し、それぞれの私欲を最大化するために、帝国の公的な命令系統を「私物」として操作することに合意したことを意味していました。
つまりは、この盟約の裏側に隠されているのは、戦慄すべき国家の「簒奪プラン」なのです。
ボルマンとヒムラーは、目の前の欲深い男を単なる操り人形とは見ていませんでした。
いずれ、本物の総統を闇に葬り、この「模造品」を頂点に据える。
その時、ウィリアムはヨーロッパを統一した偉大なる国家の支配者として、玉座に座ることになるのです。
窓の外では、依然としてパリの街に祝砲が鳴り響いている。
何万という兵士たちが、総統への忠誠を誓い、命を懸けてこの勝利を掴み取った。
だが、その頂点にあるこの館では、帝国の心臓を食い破る三匹の寄生虫が、互いの欲望を認め合い、固い結束を誓っていた。
彼らが語り合う暗殺の計画は、もはや義務感ではなく、これから手にするであろう天文学的な富への「期待」に彩られていた。
いつ、どこで、どのように叔父を殺すか。
その詳細を詰めれば詰めるほど、三人の距離は縮まり、地獄の底で結ばれたような奇妙な友情が芽生えていく。
「楽しみだな、ウィリアム。君がベルリンのバルコニーに立ち、我々がその影で世界を動かす日が」
ボルマンの湿った笑い声が、豪華な応接間に響き渡る。
アドルフ・ヒトラーが絶頂の極みにいた1940年6月。
その背後では、最も信頼すべき部下と、その血を分けた甥によって、「略奪のカウントダウン」が始まっていた。
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