第9話 総予備投入

 1940年5月13日。

 セダン南西、ブリュージュ高地。

 そこは、フランス軍が築き上げた鋼鉄の墓標となっていた。


 重厚なコンクリート要塞の裂け目からは、7.5cm野砲が休むことなく火を噴き、高地への斜面を焦熱地獄へと変えている。

 ドイツ軍の先鋒部隊は、開けた斜面で完全に足止めを食らっていた。

 泥濘と硝煙、そして引き裂かれた歩兵の断末魔が混じり合い、大地はどす黒く変色している。

 先頭の戦車は履帯を無残に吹き飛ばされ、ただの鋼鉄の塊と化して黒煙を吹き上げていた。

 地上の兵士たちは、降り注ぐ砲弾の嵐に頭を上げることすらできず、冷たい泥の中に縫い付けられている。


 後方の戦闘指揮所。

 戦場を俯瞰するハインツ・グーデリアン中将の鋭い眼光が、広げられた戦術地図を射抜くように刺さる。


「……膠着したな。フランス軍め、こちらの出鼻を挫こうと必死だ」


 中将の声は低く、そして冷酷なまでの平穏を湛えていた。

 彼は地図上のセダン南西の一点、ブリュージュ高地の付け根を指先でなぞる。


「抵抗は激しい。だが、ここだ。この防衛線さえ抜ければ……」


 グーデリアンは顔を上げ、通信参謀へ向けて断言した。


「第2戦車大隊を投入せよ。総予備『鉄の牙』……全力でこの防衛線を力ずくで引き裂け。先頭はあの小隊だ。奴らになら、この泥濘の地獄を、我らの進撃路へ変えられるはずだ。……幸い、第一装甲師団が右翼に隣接している。彼らに楔を打ち込ませ、防衛線を根こそぎこじ開けろ!」


 中将の言葉は、参謀達の空気を一変させた。

 周囲の参謀たちが息を呑む。総予備の投入。

 それは、グーデリアンが難局を乗り切る瞬間にしか下さないはずの決断だった。


「防衛線の接合部、ブリュージュ南西の突出部に楔(くさび)を打ち込め。遅滞は許さん。この一撃で、フランスの首を絞めるのだ!」


 グーデリアンの命を受け、大隊無線が唸りを上げる。

 前線へ向けて、戦況を決定づけるための鋼鉄の牙が、今、静かに動き出そうとしていた。


 ヴェーバー少佐の号令が無線に響く。

「これより総予備を投入する! シュミット少尉、貴様が先頭だ!閣下が惚れた、そのお手並み拝見させてもらうぞ」


「ヤボール……了解しました。三十分以内に突破口をこじ開けます」


 待機という名の「腐食」を強いられていた小隊の空気が、一瞬で凍りついた。

 シュミットは、ハッチを閉めながら独りごちる。

「……ようやく出番か。待っていたぞ」


 シュミットの合図とともに、五両の鋼鉄の獣が唸りを上げた。

 その頭上を、耳をつんざく咆哮とともにJu87「スツーカ」の編隊が通過する。

 急降下爆撃機のサイレンが地上のフランス軍の神経を焼き切り、要塞の至近で爆炎の華が咲いた。


「今だ。突入する」


 シュミットの短く、しかし鋼のように冷徹な号令が無線機を震わせた。

 その瞬間、戦場の均衡が音を立てて崩れ去る。


 101号車と102号車のIV号戦車D型が、湿った土を激しく跳ね上げながら先陣を切った。

 砲塔をわずかに揺らし、7.5cm短砲身が咆哮を上げる。

 ドゴォォォォォォォン!!

 鈍い金属音とともに放たれた徹甲弾は、狙い違わずフランス軍の重厚な銃座を粉砕し、四散するコンクリート片と肉片が硝煙の中に溶けていった。

 

 続く103号から105号のIII号突撃砲A型が、獣のような低重心の車体を泥濘に沈めながら、戦列から外れて死角を縫うように高地へと這い上がる。 

 彼らにとって、この泥濘は障害ではない。

 シュミットが描いた「数式」の通り、最速で死角へ到達するための物理的なルートに過ぎないのだ。


「いいか、ヴィクター! 奴の砲塔の付け根だ! あそこを抜け!」

 103号の車内で、ハルト伍長が野太い声で吠える。

 視界を覆う硝煙の中、彼は敵のわずかな砲塔の旋回速度すら正確に予測していた。

「了解。今の射角なら、余裕だぜ」

 砲手のカスパルが静かに応じる。

 彼の手元には、時計の歯車を扱うような繊細な動きがあった。

 カスパルが放った一撃は、重々しい金属音を響かせてフランス軍の砲塔根元を正確に貫いた。

 ドゴォォォォォドゴォォォォォォォン!!

 内部で連鎖する誘爆が、鈍い火柱となって戦車砲の裂け目から噴き上がる。

 巨大な要塞の砲身は、まるで意思を失ったかのように力なく項垂れ、土塊となって崩れ落ちていった。


「見たか! これが俺たちの力だ!」

 ハルトの叫びが車内にこだまする。

 彼らにとって、破壊とは単なる暴力ではない。 

 シュミット少尉という天才が導き出した作戦を、この手で実行するという誇り高き儀式になっていたのだ。


 シュミットはキューポラから戦況を見下ろし、小さく唇を噛んだ。

 敵の火線は網目のように張り巡らされているが、その網目には、数秒単位で必ず「空白」が生まれる。

 ベルガーが装填の秒数を数え、カールがエンジンの回転数で車体の傾斜を調整し、仲間たちがその隙間を完璧なリズムで突いていく。


 泥を噛み、鉄を削り、火を吐く。

 この地獄のような戦場において、シュミット小隊が、時計の歯車のように正確で美しい、死の舞踏を演じ続けていた。


 その光景は、もはや戦争という名の破壊ではなく、一つの完璧な芸術であった。


 かつて、無線機越しに震える声を垂れ流していた104号車の車長、ヨハン・シュタイン伍長は、以前の面影などもはや影も形もなかった。

 今の彼を突き動かしているのは、もはや恐怖ではない。

 シュミット少尉という「絶対的な理」への心酔だ。

 彼の指し示す地点へ移動し、彼の導き出した解を実行すれば、必ずや戦場の死角という名の特等席へと辿り着ける。

 その確信こそが、かつての臆病者だったシュタインを、冷徹な狩人へと変貌させていた。


「マイヤー、左翼のバイザーだ! 二時方向、距離二五〇! 逃がすな!」

 シュタインの叫びには、迷いなど微塵もなかった。

 かつて訓練において、シュミットの指揮速度に追いつけず、自らの死を恐れて泣き言を漏らしていた若者は、今や戦場の空間を瞬時に支配する指揮官へと変貌している。

 彼の瞳は、敵の戦車のわずかな機動の歪みすら見逃さない。


「了解……二時方向、確認」

 砲手のゲオルグ・マイヤー一等兵が、静かに答える。

 狭い砲塔の中で、彼は周囲の轟音を遮断し、自身の心音と砲の照準器だけを同期させていた。

 彼もまた、シュタインと共にこの修羅場を潜り抜け、極限の反射神経を磨き上げてきた男だ。

 

 マイヤーの指先は、トリガーの上でまるで呼吸をするかのように微細に震え、そして固定される。

 狙うのは、敵戦車の装甲の中でも最も脆弱なバイザー(のぞき窓)。

 その数センチの隙間に、一撃の死を叩き込む。


「撃て!」

 シュタインの号令と同時、マイヤーが引き金を絞り切る。

 ドゴォォォォォォォン!!

 砲身が激しく後退し、車内を熱い火薬の臭いが充満する。

 徹甲弾は唸りを上げて大気を切り裂き、フランス軍の戦車の装甲を易々と貫いた。

 バキィーン!


 金属が裂ける断末魔のような音が響き、敵の戦車は一瞬で鉄の棺桶と化した。

 誘爆の連鎖が内部で轟き、砲塔が力なく傾ぐ。


「命中……沈黙を確認」


 マイヤーが淡々と告げる。車長のシュタインは小さく満足げに鼻を鳴らした。

 かつて無駄な弾薬消費を極端に嫌っていたマイヤーは、今や「必要な一発」しか撃たない神域の射撃手となっていた。

 対するシュタインも、戦場のありとあらゆる情報を計算し、敵の動きを予測して最適解を導き出す。


 操縦手のクラウス・ミュラーもまた、シュタインの意図を完全に読み取り、敵の死角へと車体を滑り込ませている。

 被弾傾斜を瞬時に計算し、敵の砲撃が届かない最善のポジションを確保する。


 三人の心が、一つのエンジンと砲身を介して完璧に噛み合っていた。

 それは、個人の寄せ集めではない。

 シュミット少尉の描く「戦術」を、血肉を持って体現する一つの生命体――鋼鉄の意志そのものだった。


「行くぞ。次だ。シュミット少尉の指示の元に」


 シュタインの言葉に、二人は迷わず頷く。

 彼らはもはや、生か死かという恐怖に囚われることはない。

 ただ、シュミットが描く勝利の数式の一部となることを誇りに、104号車は再び泥濘を蹴って加速していく。


「カール、速度を落とすな。右へ転轍機を切り替えろ! クライン、敵の正面には出るな。105号を盾にしろ!」


 105号車の車内には、戦場とは思えないほどの異様な空気が漂っていた。

 砲塔内でルドルフ・ゼーリヒ一等兵が鼻歌を口ずさむ中、車長のアルフレート・グリム上等兵は、まるで遠足を楽しむ子供のような屈託のない笑みを浮かべている。


「ペーター、敵の陣地が見えるか? あの硬そうな砲塔の列、なんだかオモチャみたいだな」


「見えてますよ、アルフレート! 腕が鳴りますね!」


 操縦手のペーター・ヘス一等兵は、叫びとともに車体を急旋回させた。

 105号車のIII号突撃砲が、敵の正面を堂々と横切る。

 それは理性ある戦車長ならば決して選ばない、あまりに無謀な機動だった。


「撃て! あの猪武者を仕留めろ!」


 フランス軍の砲手たちが色めき立ち、一斉に照準を合わせる。

 しかし、ペーターの機動は予測不能だった。

 エンジンを唸らせ、サスペンションを悲鳴に近いほど鳴らしながら、車体を左右に蛇行させる。 

 あえて敵の射線に入り込み、直前で回避し、再び別の射線へと飛び込む。

 ヘスの神懸かり的な機動は、フランス軍の照準器を完全に弄び、彼らの集中砲火を空の彼方へ逸らし続けていた。


「どうだ!フランス軍が全員俺たちを狙っているぞ!まるで僕らのためにスポットライトを浴びせてくれているみたいだ!」

 グリムは楽しげに笑いながら、砲手ゼーリヒに指示を飛ばす。


「ルドルフ、適当にバラ撒け! 当てなくていい、注意を引きつけるだけで十分だ!」


「了解、アルフレート。この鼻歌のリズムに合わせて弾丸を配ってやるよ」

 ゼーリヒは楽しげに砲を振り回し、適当なタイミングで火を噴く。

 その荒っぽい射撃が、逆に敵の指揮系統を混乱させていた。

 整然と反撃すべきフランス軍は、この予測不能な「踊る鉄塊」に気を取られ、次々と照準を乱していく。


 そして、その一瞬の「空白」こそが、シュミット小隊の狙いそのものだった。


 敵の防衛網が105号車を排除しようと必死に旋回し、火線が一点に集中する。

 その瞬間、シュミットの冷徹な声が、全車の無線機を切り裂くように響いた。


「いいぞ105。残りの全車、二時から五時方向にかけて扇状に展開。包囲態勢を構築し、敵を沈黙させる。……撃滅せよ」


 シュミットの指令は、指揮というよりも、あらかじめ決まっていた結末を告げる予言のように正確だった。


「「ヤボール!!」」


 重なる返電は、まるで鍛え抜かれた鋼鉄の調律のように鮮やかだ。  

 グリムが敵の注意をすべて自分たちに吸い寄せているその背後、戦場の死角から、103号のハルトと104号のシュタインが、獲物を狙う猛獣のように静かに、しかし確実に間合いを詰めていく。


「ハルト伍長、いい角度だ。今の位置なら、奴の装甲の一番薄いところが丸見えだぜ!」

「ああ、完璧だカスパル。獲物の首元に、俺たちの牙を突き立ててやろう」

 ドゴォォォォォォォン!!

 背面エンジンブロックが炎上したシャルB1 bisを尻目に、即座に次弾の装填にかかる。


 当時としては圧倒的な重装甲(最大60mm)と、車体に75mm榴弾砲、砲塔に47mm戦車砲を搭載した「動く要塞」であったシャルB1 bis重戦車も背面を抜かれれば脆い鉄屑である。


 103号車内では、ハルトの獰猛な笑みと、カスパルの射撃に集中する鋭い眼光が交差する。

 彼らにとって、敵の戦車はもはや戦友を脅かす脅威ではなく、ただの標的――シュミットの計算という「数式」を完成させるための、不可欠な供物に過ぎなかった。

 ドゴォォォォォォォン!!

 ドゴォォォォォォォン!!

 

 中隊の半包囲網に捕らえられたFCM 36軽戦車たちが、次々と致命的な被弾を受け、火花と破片を撒き散らしながらその場に擱座していく。

 軽戦車としては異質な傾斜装甲を備えた彼らも、シュミット小隊の前では、無力な標的に過ぎなかった。

 その複雑な曲面装甲も、シュミット小隊の前では「撃破しやすい的」にしかならなかった。


 一方で、104号車を駆るシュタイン伍長も、かつての弱気が嘘のような冷徹さで、敵の脆弱な横腹を捕捉していた。


「マイヤー、狙いは車体側面。……今だ、撃て!」


 シュタインの号令と同時に放たれた徹甲弾が、オチキス軽戦車の側面に吸い込まれる。

 ドゴォォォォォォォン!!

 爆炎とともに、オチキス H35 / H39 軽戦車は自慢の砲塔をまるで紙細工のように空へと放り投げ、泥の中に擱座した。


 外見こそ軽快だが、その実態は鈍重な標的に過ぎない。

 戦車長ひとりが「指揮・装填・照準・射撃」をすべて背負い込むという、フランス軍特有の過酷な構造的欠陥が、彼らから俊敏な対応を奪っていた。

 シュミットの戦術眼から見れば、彼らは戦う前から「答え」を晒している無防備な的(まと)に等しかったのだ。


 シュタインの静かな号令とともに、103号と104号の砲身が咆哮を上げる。

 二発の徹甲弾は、敵が105号を追って旋回した無防備な側面に、吸い込まれるように着弾した。


 バシュゥゥゥンッ! という金属を貫く乾いた音の直後、敵戦車の内部で火薬が次々と誘爆し、砲塔が力なく跳ね上がる。

 オチキス H35 / H39 軽戦車の装甲が紙のように引き裂かれ、燃え上がる鋼鉄の断末魔が戦場に響き渡った。


 グリムたちが泥を蹴って踊り、ハルトとシュタインがその背後から確実に急所を摘み取る。

 105号車に執着しすぎた代償はあまりに高く、フランス軍の防衛陣地は、小隊の完璧な連携の前に、ただ崩れ去るのを待つだけの廃墟と化した。


 シュミットは、その光景をキューポラから冷ややかな眼差しで見つめ、微かな満足を覚える。

 彼の頭の中では、すでにパリへと続く次の座標が計算されていた。

 この戦場は、もはや彼ら「鉄の牙」にとっての、凱旋のための序曲に過ぎなかった。


 小隊の連携は、もはや一つの生命体だ。

 ヘスの強引な機動が敵の盾を剥がし、シュミットが描いた緻密な計算に基づく戦術が敵の急所を抉る。

 グリムの無謀とも思える「運任せ」に見える突撃が、実は戦場全体のペースを掌握する最強の囮として機能していた。


「見てろよ、ペーター! あいつら、完全に俺たちに夢中だぞ。笑っちゃうくらい簡単だな!」


「ハハハ! 本当ですね! あっちもこっちも、俺たちを追いかけるのに必死だ!」


 硝煙と轟音に包まれた地獄のような戦場で、105号車だけが青春の遠足のように笑っていた。 

 その狂気じみた楽観さが、フランス軍の組織的な防衛網を内側から崩壊させていく。

 シュミットの数式通りに動き、運という名の奇跡を味方につけた彼らの突撃に、もはや抗える者など存在しなかった。


 フランス軍の兵士たちは凍りついた。

 要塞を突破できないはずのドイツ軍が、まるで最初から地形を掌握していたかのように、自分たちの喉元へナイフを突きつけている。


「突撃砲を配置したこの陣形……、まるで、鋼鉄の網だ!」

 シュナイダー中尉は、無線越しに高笑いした。

「シュミット、お前は天才と聞いていたが、凄まじいな。ただの小隊じゃない。お前達だけで戦場の景色そのものを書き換えているぞ!」


 わずか二十分。

 高地を支配していたフランス軍の堅固な防衛線は、シュミット小隊を先鋒に据えた第一装甲師団の猛攻によって、影も形もなく粉砕された。

 重厚な鋼鉄の蹂躙が過ぎ去った後には、ただ泥にまみれて沈黙する残骸と、戦場の静寂だけが残されていた。


 煙る戦場の中で、101号車のハッチが開き、シュミットが顔を出す。

 その目はすでに次の数式――パリへのルートを計算していた。


「突破完了。……光栄です。中尉」


 彼らがその地を去った後には、無残にひしゃげたコンクリートの残骸と、沈黙した鉄の鉄塊だけが墓標のように取り残されていた。

 シュミットたちが穿った鋼鉄の楔により、フランス軍の強固だったはずの防衛網は今や無力な「空白」と化している。

 その空間には、後方に控えていたドイツ軍装甲擲弾兵部隊が、堰を切った濁流のごとくその亀裂へとなだれ込んでいった。

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