第5話 友

 シュミットのII号戦車C型が、泥を跳ね上げながら咆哮を上げる。

 応急修理の遅れを取り戻すべく、中隊の機動から大きく引き離された車列脇を独走していた。


 並行する道路では、打ち拉がれたポーランド兵たちが捕虜として後方へ連行されている。

 彼らの敗残兵特有の憎悪に満ちた視線が、鋼鉄の装甲を突き刺すように注がれる。

 だが、シュミットは一度も視線を向けなかった。

 彼の意識は、ペリスコープ越しに刻々と変化する地形の凹凸と、背後から伝わるマイバッハエンジンの熱効率――その微細な変調を解析することだけに集中していた。


 戦場に感情の入る隙間はない。

 彼にとっての戦場とは、刻一刻と書き換わる数式に過ぎないのだから。


「次の交差点は、地図上の標高差からして泥沼化するはずだ。味方陣地はその先か……ベルガー、燃料はあとどれだけだ?」

「……予備を含めて、計算通りならあと15キロ。何とか持ちますね」

「十分だ。15キロあれば味方陣地に着く分には余りある」


 戦場から立ち去るII号戦車の排気音は、やがて森の闇に溶けていった。


 シュミットの指先が、再び照準ハンドルをわずかに回す。

 彼の照準器の先には、すでに次なる地形と、そこに待ち受ける敵の「脚」を奪うための数式が浮かんでいた。


「カール、エンジン回転数を下げろ。……奴らの音を聞くんだ」

 気がつくと周囲には、ポーランド軍の車列が刻んだ真新しい轍(わだち)が縦横に残されていた。

「え? 敵ですかい?」


 この時、シュミットの周囲にはポーランド軍の7TP軽戦車が6両、Wz.34装甲車が8両、計14両が展開していた。

 Wz.34装甲車……戦車というにはあまりに華奢で、乗用車というにはあまりに重苦しい鋼鉄の箱だ。

 舗装路を走る分には軽快だが、この深い泥の中では、ただの『動きの鈍い的』に過ぎない。


 霧の中で隊列を組み直そうと停滞していた彼らは、互いに距離を詰めすぎていた。

 シュミットは、その轍の深さと、霧越しに響くエンジンの駆動音から、敵の配置と規模を数式の中に組み込んだ。


 霧の中から、まず先頭の7TPの背後へ、シュミットのII号戦車が音もなく滑り込む。

 ガガガッ!

 2cm機関砲が火を噴く。

 だが、シュミットは停止しない。

 砲塔を固定したまま、車体を旋回させ、後方のWz.34の車軸をピンポイントで薙ぎ払う。

 シャフトもろとも車輪が跳ね飛ぶ。

 シュミットは、敵の戦車が「パニックで車体を回転させる旋回速度」と、自分のII号戦車が「旋回する角速度」を完全にシンクロさせた。

 II号戦車が独楽のように回転しながら弾を撒き散らす。

 一台の7TPの起動輪が砕け、その勢いで隣のWz.34の車輪が巻き込まれ、連鎖的に泥の中へ突っ込む。


「ベルガー、弾倉交換!急げ! ……今の響きは、奴らが『重なった』音だ!」


 空から降り注ぐ脅威を避けるため、ポーランド軍の残存部隊は霧の森へ退避していた。


 ポーランド軍の残存部隊が、泥濘の森へ必死に潜り込んだのには明確な理由があった。

 頭上を旋回するドイツ空軍の「シュトゥーカ」――急降下爆撃機Ju87B型だ。


 その機体は、獲物を見つけると垂直に近い角度で急降下し、胴体下の500kg爆弾1発と主翼下50kg爆弾を4発を叩き込む「戦車を狩る猛禽」だった。

 急降下するたびに機体に取り付けられた装置が悲鳴のようなサイレンを響かせ、地上にいる者の精神を容赦なくすり潰す。


 投下された500キロ爆弾が着弾すれば、たとえ直撃を免れた至近距離であっても無事では済まない。

 強烈な衝撃波が車体を叩きつけ、内部の精密機器を狂わせる。

 激しい振動は乗員の脳を揺らし、鼻や耳から血を流して昏倒させるほどだ。

 ましてや破片が直撃すれば、軽装甲など容易に引き裂かれる。

 遮蔽物のない平原でその音を耳にすれば、死を覚悟せねばならない。

 そして、直撃すればどんな超重戦車であろうと、跡形も残らない。

 ゆえに彼らは、霧に煙る森を空からの絶望を避ける唯一の隠れ家と定めたのである。


 だが、その霧の森こそが、シュミットのII号戦車にとって「敵を追い詰める計算式の方程式」へと変貌していた。


 7TP2台がシュミットの先制攻撃によって舗装路への復帰を阻まれると、彼らは霧の中で完全に方向感覚を失い、密集を余儀なくされた。

 逃げ場のない湿地帯の森林で発砲音を聞き、隊列を組もうとする心理が、彼らを互いへの不信とパニックへと追い込んでいた。


 先頭車両を泥濘に沈め、回避を試みた後続を次々と横転させる。

 さらにその残骸を障害物として利用し、敵の機動力を完全に封殺した。

 視界の利かない霧の中、敵兵たちは見えざる脅威に対し、ただ空虚な発砲を繰り返している。


 それは唐突に現れた。

 最初は空の底を震わせるような、低く鈍い唸り――「ヴウゥゥゥゥゥゥーン」という重低音。

 それが高度を下げ、加速するにつれて大気を切り裂く金属的な悲鳴へ――「キィィィィィィィィィィィン!!」と音階を跳ね上げていく。


 ポーランド戦車兵たちが血の気を引き、退避を試みようと思考を巡らせた時には、もはや手遅れであった。


 ドォォォォドォォォォォォンッ!ドゴォォォドゴォォォォォォォン!!


 轟音と閃光。

 爆風が霧を吹き飛ばし、巨大な火柱が視界を白く塗りつぶす。


 天空からの神の一撃の後、シュミットのII号戦車が霧の中から静かに姿を現した。

 そこには、周囲合わせて十四両の鉄塊が黒く焼け焦げ、複雑に絡み合い、泥沼に座礁して沈黙していた。


 シュミットは照準器から目を離し、冷たく、しかし静かに呟いた。


「……全14両、いつも通り俺たちの撃破数は0だ」

「はじめて見たぜ。アレがシュトゥーカかよ」

「お疲れさんです。伍長。今回は初撃破かと思ったんですがね」

 ベルガーが黒い顔でニヤリと笑う。

「別に個人的な撃破数などいらない。『ドイツの敵』を叩ければ俺は満足だ」

  

 残弾は少なかった。

 シュミットはハッチを開け、霧の冷たさを肌に感じる。

 彼がやったのは、十四両を撃破したのではない。

 十四両の戦車を計算によって「粉砕」しただけだ。


「さあ、相棒。もうすぐで味方陣地だ。急ごう」

 

「軍曹、スツーカも計算のうちですかい?」

「いや……あれは変数だ。運が良かったな……」


「「ガッハッハッハ」」

「軍曹の計算は空軍まで読むのかと感心しちまったぜ」

「俺もだ!」

 部下達の笑い声にシュミットの笑い声も混じっていた。

 II号戦車は、十四両の沈黙を背に、泥に足跡も残して霧の彼方へと消えていった。 


 9月27日、未明。

 ポーランドの首都ワルシャワは死んでいた。

 空爆で焼かれた高層ビルの残骸が、巨大な墓石のように立ち並んでいる。

 道路は崩落した煉瓦と、放棄された軍民双方の車両の残骸で埋め尽くされ、戦車が通れる道は、地図上には存在しない「歪んだ亀裂」だけだった。


 シュミットのII号戦車は、崩れ落ちた広場のど真ん中を、最高速度で突き抜けた。

 ここは戦場ではない。敵が待ち伏せる「鋼鉄の狩り場」だ。


 瓦礫の山から、ポーランド軍のATライフル(対戦車ライフルWz.35)が火を噴く。

 至近距離での狙撃。

 II号戦車の車体に突き刺さるような鋭い衝撃音が響くが、シュミットは鼻で笑う。


「車体角度、40度維持。……カール。すべて回避だ、任せたぞ!」

「了解だ!軍曹!」


 カールの操縦が狂気じみた精度を見せる。

 崩れた壁を足場にし、II号戦車がまるで猫のように市街地の路地を飛び越えた。

 路地裏には、包囲を逃れようとするポーランド軍の最後の主力、7TP軽戦車が三台、重苦しく沈黙を守っていた。

 彼らはワルシャワの街並みそのものを防壁にしている。


「ベルガー、徹甲弾、全弾装填。……ここからが楽しい計算の始まりだ」


 シュミットは路地を全速で駆け抜け、交差点を「ドリフト」で抜ける。

 車体が横滑りしたその瞬間、砲塔を左に旋回させ、敵のエンジンデッキを精密に射抜く。

 火花が散り、鋼鉄がひしゃげる音が、市街地の静寂を切り裂く。


 ガガガガッ!

 ガガガガッ!


 二秒間隔の怒涛の連射。

 一台目が回転を失い、二台目がその旋回速度に翻弄され、壁に衝突する。

 三台目の7TPが主砲を向けるが、シュミットはあえて敵の車体に乗り上げるような軌道で突き当たり、敵砲塔の旋回を物理的に封じた。


 街中の瓦礫が舞う。2cm弾が路地を跳ね、敵の歩兵を制圧し、戦車の履帯を粉砕する。

 ワルシャワの市街地で、シュミットのII号戦車は、まるで巨大な鋼鉄のナイフのように街の動脈を断ち切っていった。


「これがワルシャワの最後の叫びか……」


 シュミットのII号戦車が市庁舎広場へ踊り出た時、そこは既に敵の領土ではなく、さながら味方の集結地と見紛う光景であった。

 広場を埋め尽くすのは、無数の味方装甲車両。

 沈黙した街、煙る瓦礫。

 II号戦車の履帯に絡みつくのは、泥ではなく、粉々に砕けたポーランドの街そのものだった。


 シュミットは砲塔から双眼鏡を覗く。

 ワルシャワは陥落した。

 ポーランドという「数式」は、ここに完全に解かれた。

 彼の耳に、遠くからドイツ軍の勝利を告げる軍楽が微かに聞こえてくる。

 だが、彼はそれに背を向けた。


「助かったぞ、相棒! お前たちのおかげで生き残れた!」

 「いや、最高でしたぜ、軍曹!」

 「軍曹、次があるならまた同じ車輌で!」

 三人のむさ苦しい戦車兵たちは、泥にまみれた顔をほころばせ、敬礼を交わすと、互いの肩を強く叩き合った。

 そして、骨が軋むほどの硬い握手を交わす。

 頑固で融通の利かない彼らのこの姿を家族が見れば、間違いなく仰天したに違いない。

 戦場という死地だけが引き出した、不器用で、熱い絆の光景であった。


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