第4話
「歩兵団の歩みが遅れているぞ! 急げ!
とにかくそこまでは走り抜けろ!」
孫策は後方の気配に意識を集中していた。
こんな風に昼も夜も無く、泥に塗れて暗い森の中を追われていると、
どうしても脳裏に過る。
何も反撃出来ず大勢の仲間を死なせた。
その記憶。
孫策は手綱を静かに、強く握りしめていた。
多分この胸の奥にグラグラとする想いは、恐怖なんてものじゃなくて、
(怒りだ)
自分に対するものと勿論、呂布に対するもの。
しかし
「孫策殿」
肩越しに振り返る。
声をかけて来た
だが孫策には怒りを抱え込み外に出さずに出来る、強さがあった。
「やはり行軍は遅れています。
ここは部隊を分けて南郡を目指すべきでは」
一瞬、睨んだと言っていい鋭い表情を浮かべた孫策だが、瞬き一つですぐに怒りを押し込んだ。
冷静な指揮官の顔になる。
「駄目だ。
【
今、騎馬と歩兵を分けても俺たちは逃げ切れるかもしれんが必ず歩兵は奴の餌食になる」
「陛下……」
「ここが
言っておくが俺はもうすぐ父親になる。
こんな所で死ぬのはごめんだからな」
孫策が不意に笑ったので、深刻な顔をしていた
「笑わせないでください。この緊迫した状況で部下たちから韓当が笑っている危機感がないなどと叱られるのは嫌ですぞ」
「何言ってんだ。最悪の状況だから笑うんだよ、韓当!」
孫策が足を止めた馬上から韓当の肩を叩いた。
そうだろ、と瞳をこちらへ向ける。
口数少なくいた孫策は、きっと呂布のことを思い出していたに違いない。
潰走した漢寿の戦いを。
見知らぬ極寒の涼州を追い回された、地獄のような記憶。
韓当も思い出す。
だが不思議だ。
(あの時とは全く違う)
勿論色々な状況は違う。
ここはまだ、長江の匂いが届く。
それが自分たちの勇気になる。
でもそれだけではないのだ。
側を通り過ぎていく歩兵たちに声をかけ「頑張れ」と若い兵の頭をわしわしと撫でて直に声をかけてやっている孫策の姿に、韓当は不意に、幼い孫策の頭を撫でている
(この方は大きくなられた。あの時よりも、ずっと)
今や腐敗した漢の支配下から外れ、
呂布とまみえ、
憎むべき
呂布の蛮勇は今も変わらないだろうが、
今、孫策の側に立つ韓当の胸に恐怖は無かった。
明るい太陽に身体が当たっている。
そんなごく自然な安堵と、確かな光の力を感じるのだ。
きっと
同じ状況でも、あの時とは違う。
「こいつらを見捨てて逃げたら、今は呂布と遭遇して唯一生き延びたなんて俺を誉めてる連中が、あっという間にこいつは呂布に遭遇するたびに味方を死なせて逃げてる卑怯者だって罵って来るぞ。
俺は長く、呉の帝位に就くつもりはないが、
それでも今はあの国の王だ。
王である間に、国民に罵られるようなことはしない!」
呂布に追われる緊張感の中で、それでも孫策の周囲には落ち着きがあり、静かに話す姿には風格があった。
「俺は十二歳の時、周瑜を娶って、一番最初に親父に言われた。
これからは俺が戦場で馬鹿をすれば周瑜が恥を掻く。
汚い真似をすれば、周瑜が悪く言われると」
韓当は微笑んだ。
「勿論。ですが命が掛かった時は恥も捨てねば」
「それは分かってる。勝算がないなら俺だってこんな所にはいない。
でもこいつらはもともと董卓軍と遣り合う為に連れて来たんだ。
準備は出来てる。
甘寧と陸遜も来た。
本意ってわけじゃないが、周瑜も出て来てる。
俺らの庭である長江はすぐそこだ。
呂布に追われてる危機と思えば危機だし、
あの野郎を討ち取る絶好の機会と言えば機会なんだよ!」
孫策の瞳に力が漲る。
ああ、この人なら本当に呂布を討ち取ってしまいそうだ。
韓当は胸が震えた。
「だから俺は逃げねえぜ。
歩兵団は、ここにやって来る周瑜の盾だ。
無駄に殺させたりしねえ。
――甘寧と陸遜が網は張ってる。
油断をするところじゃないが、臆病に駆られる場面でもねえ。
今強襲されたら俺はやるぜ。
やってやる!
俺は董卓の許で戦ってる【
董卓の野郎には今は手が届かなくても……はしゃいで狩りに出て来た呂布の野郎の首くらいあの人に届けなきゃ、董卓に、喉元に剣を突き付けられながらもあの時
手綱を握り締めて、孫策は自分の左手の親指に嵌まる指輪を手の平で手繰った。
不思議な因縁で、生きていることを周瑜に伝えることになったあの指輪は、そのまま周瑜が首飾りとして身につけている。
これは新しく同じものを作らせた。
飛翔する燕と、花の彫られた美しい指輪だ。
これを見るたびに
こうして軍の重鎮たちが歩兵団の行軍を後ろで見守っているだけでも、彼らは落ち着く。
まだしばらく呂布軍の追撃は躱せそうだと言った。
だが西日が差し込んで来る。
これから夜闇の時間帯になる。
夜。
星が瞬く。
「……不思議だな」
樹間遠くから差し込む僅かな西日を見ながら、孫策は呟いた。
「周瑜と小さい頃、
いろんな話をした。
この国の……漢の国の混乱のこと。
誰が混乱の元凶なのか、
どうしてそうなったのか、
親父やお前たちが集まって夜話してるのを二人で盗み聞きしながら、一緒に話した」
黄蓋が優しい表情をして頷いた。
時々廊下に転がって飽くことなく話していたからか、二人の子供がそのまま身を寄せ合って寝こけていたことが何度もあった。
叱らねばいけないのにあどけない孫策と周瑜の寝顔があまりにも可愛くて「これでは殴れん」と孫堅が嘆いていたことがある。
「その頃から、
董卓が飼う、天下無双の武将。
比類なき蛮勇だが、大望無き衝動、
いつか二人でこいつを討ち取ってやって――親父をびっくりさせてやろうぜって、あの頃から周瑜と二人で話してた」
不思議だなと孫策は繰り返す。
どうしようもない絶望も、
どうしようもない怒りも、
周瑜の瞳を思い出すと、何でもないことのように思えて来る。
(あいつは本当に俺にとって、太陽みたいなやつなんだ)
そこに確かにある。
だから大丈夫だと無条件に思わせる。
例え圧倒される豪雨も、
敵の潜む深い夜闇も。
(必ず光は差し込むって)
孫策は心の中で周瑜に語りかけた。
周瑜もきっと今、語りかけて来ているはずだと思えた。
「あいつと話していたことは、
どんなに時間が掛かっても、
必ず叶うんだ」
数秒だけ浸った孫策は、すぐに彼らを強く見据える。
「とにかく歩兵団は急がせろ。
呂布が迫って来るからじゃない。
あんまり遅いと
豪快に黄蓋が笑い声を立てる。
戦場にその声が響いた。
「ですな!」
「じきに甘寧か陸遜が必ず戻って来る。
そうすれば呂布軍の今の位置が分かるはずだ。
追撃を振り切ったのなら野営する。
まだ追って来てるなら夜を継いでも逃げられるだけ逃げる」
「はっ」
「本陣は南から北上する周瑜の軍勢だと思え!
俺たちはその先陣だ。
歩兵団が長江に辿り着けば、騎馬隊を編成して呂布と戦をするぞ!」
孫策は声を張り、後続の部隊を鼓舞する為にその場から駆け出した。
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