第2話 射抜くような視線

 母校の体育館に入った瞬間、独特の匂いが鼻をくすぐった。ワックスと汗と、少しだけ古びた木の匂いが混ざった、あの懐かしい空気だ。

 高い天井から吊るされた蛍光灯が、コートのラインを白く浮かび上がらせている。バッシュが床を叩く高い音、ボールがフロアに弾む軽快なリズム。全部まとめて、私の中の「バスケ」が一度に目を覚ました。


「日和先輩、ほんとに来てくれたんだ!」


 桜野女子小の六年生たちが、カラフルなチームTシャツ姿で駆け寄ってくる。胸元には、丸っこいフォントで「SAKURANO」のロゴ。

 みんなまだ身体が小さくて、ぶかぶかのシャツの裾を短パンのゴムにぎゅっと押し込んでいるのが、なんとも微笑ましい。


「うん、約束したしね。みんな、今日は楽しもう?」


 私は更衣室で貸し出された、鮮やかなエンジ色のユニフォームに袖を通した。

 小学生サイズで作られたそれは、高校生の私には少しばかり窮屈だった。白い縁取りのVネックは、動くたびにインナーの白いタンクトップのラインを露わにする。

 何より困ったのは、セットの短パンだ。サイドに白いラインが入ったエンジ色の生地は、丈が驚くほど短く、私の太ももの中ほどまでしか隠してくれない。一歩踏み出すたびに、自分の素肌が外気にさらされる感覚がして、私は無意識に裾を下に引っ張った。


「お姉さん、でかっ。……それに、意外とスタイルいいんだね」


 アップのためにコートに出ると、対戦相手のベンチから、少しませたような声が聞こえた。

 振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。


 天城こはる。

 事前に「向こうのエース」だと聞いてはいたけれど、実物は想像以上に小柄だった。私より頭一つ以上低い。

 けれど、その存在感は、身長の差なんて簡単にひっくり返してしまうほど強烈だった。


 肩にかかるかどうかの黒髪を、高い位置でぴんとポニーテールに結んでいる。その毛先が、意志を持つ生き物のように跳ねていた。

 彼女が着ているネイビーのユニフォームは、少し肩幅が余っていて、動くたびに脇の隙間から華奢な肋骨のラインや、まだ膨らみ始めたばかりの幼い胸の輪郭がちらりと覗く。

 こはるは片手でボールを扱いながら、まっすぐこちらに歩いてきた。


「……お姉さん、手加減とかいらないから。本気で奪いにきてよ」


 挑発的な笑み。少しつり上がった目尻の奥には、濁りのない、けれどどこか獲物を狙う獣のような光が宿っている。


「え、あ、うん……。手加減するつもりは、ないけど」


 返事をしながらも、私は自分の声が上ずっているのを自覚した。

 相手は小学生。そう自分に言い聞かせようとするのに、真正面から見据える彼女の視線が、私の「余裕」を剥ぎ取っていく。


 試合開始の笛が鳴った。

 私はディフェンスとして、こはるをマークする。

 一瞬の静寂の後、彼女は爆発的なスピードで私の懐に飛び込んできた。


「ついてきてよね、お姉さん!」


 低い姿勢からのドライブ。

 回避しようとした瞬間、こはるは逃げるどころか、自ら私に身体をぶつけてきた。

 ドスン、とユニフォーム越しに伝わる、しなやかな筋肉の弾力。

 こはるの頭が私の胸元にぐっと押し付けられる。汗で湿った彼女の髪が私の顎をかすめ、微かな汗の匂いと、子供特有の甘い体温が混ざり合って鼻腔を突いた。


「っ……!」


 思わずのけ反った私を、彼女は見逃さなかった。

 密着した状態から、ずるりと滑り落ちるように私の脇をすり抜ける。

 その瞬間、彼女の細い指先が、わざとかと思うほど鮮やかに、私の短パンの裾に触れた気がした。


「甘いよ、お姉さん」


 彼女はそのまま宙に舞い、レイアップを沈める。

 ジャンプの拍子にネイビーのユニフォームが大きくめくれ、汗をかいて光る白皙の背中と、タイトなスポーツショーツのラインが露わになった。

 そのあまりに無防備で、けれど力強い美しさに、私は目を奪われて立ち尽くしてしまう。


 ボールがリングを抜ける音が、やけに大きく響いた。


「ナイス、こはる!」


 沸き立つ相手ベンチ。

 こはるは自陣に戻り際、振り返って私を見た。

 そして、さっき私とぶつかった自分の肩を、挑発するようにゆっくりと舌先で湿らせるような仕草をしてみせたのだ。


(……な、なに今の……っ!)


 顔が火照る。

 ただの小学生じゃない。

 あの射抜くような視線、わざとらしいコンタクト、そして時折見せる大人のような強かさ。

 

 私は乱れたユニフォームの襟元を正し、拳を握りしめた。

 エンジ色の短いパンツの下で、自分の脚がわずかに震えているのがわかる。

 

 負けたくない、と思った。

 それは高校生としてのプライド以上に、彼女という存在に、自分の心までガードを抜かれてしまいそうな……そんな未知の恐怖への、精一杯の抵抗だった。

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