第4話 節制ーTemperanceー


「今はここで、目的地はここで……」

「うんうん、順調だね」


 僕らは一度駅に立ち寄って地図を見ながら道筋を確認していた。駅にはもちろん誰ひとりいなくて、世界の終焉に僕らだけ取り残されてしまったかのようだ。


「『先生』、次は僕が漕ぎます」


 『先生』の息が少し上がっている。『先生』も分かっているのか、


「そうかい、じゃあ任せた」


 と、素直に代わってくれた。背後に『先生』の存在を感じながら僕は自転車を漕ぎはじめる。『先生』の温かさを感じる。ちゃんと『先生』がここにいるんだと、ふとそんな当たり前のことを思った。


「見て、ハジメ。星が綺麗だよ」


 僕はそう言われて遠くの空を見つめた。数えきれないほどの星が僕らを見下していた。そういえば『先生』と最初にタロット占いをしたとき、『先生』が引いたカードは『星』のカードだったな、と漠然と思い出した。



 ある日僕が『先生』の病室を訪ねると、中から微かな歌声が聞こえた。


「『からたちの花が咲いたよ

 白い白い花が咲いたよ』……」


 『先生』は片手に柑橘っぽい果物を弾ませがら静かに口ずさんでいた。


「それ、何の曲なんですか?」

「知らない?これだから現代っ子は」

「あんまり歳変わらないでしょ……」


 今日も今日とて『先生』は小さな机いっぱいに原稿を広げて小説を書いていた。


「『先生』のところにはいつもオレンジがありますね」

「あぁ、食べる?」


 『先生』は脇に飾られていた籠から鮮やかなオレンジを手に取った。


「俺が好きだからみんないっぱい持ってきてくれるんだ」


 簡素なまな板とフルーツナイフをどこからかいそいそと取り出す。ナイフですたんと切った途端、軽やかなオレンジの香りが鼻先を突き抜ける。瑞々しい断面からは雲間から見えたお日様のように気持ちを晴れさせてくれる。櫛切りにされたオレンジは爽やかな真夏の味が口の中で弾けた。


「『先生』、それは?」


 さっき『先生』の手の中で弾んでいた柑橘を差した。


「これはからたち。家に木があったからこの匂いを嗅ぐと、元気だったころのことを思い出せるような気がするんだ」


 『先生』はすん、と一度香ってみせて、からたちを僕に向かって投げ渡した。


「これは食用じゃないから食べられないからね」


 『先生』は悪戯っぽく笑ってそう言った。


「・・・まだ何も言ってませんよ」


 なんだか呆れた心地になりつつ、元気だった頃の『先生』を思い描いた。どんな少年だっただろう。みんなに好かれる人だったんだろうか。それとも静かで穏やかな人だったのだろうか。僕もからたちの香りを嗅いでみた。ゆずにもみかんにも似た爽やかで清らかな香りは『先生』のようだった。この妙にふかふかとした衣をまとったからたちとオレンジの実を比べてふと宇宙に思いを馳せた。


「……からたちの実を地球だとしたらこのオレンジは天王星ぐらいでしょうか」

「へぇ」


 『先生』は興味深そうにオレンジを手にする。


「考えたこともなかったな」

「僕も天体は専門外なんですけど」

「ねぇ、天王星ってどんな星?」

「さぁ。僕もそこら辺は詳しくないので……」


 必死でむかし読んだ図鑑のページを捲った。天王星。地球から気が遠くなるほど遠くにいる星のこと。


「青緑の星ですよ。たしかダイヤモンドの雨が降るんだとか」

「ロマンチックだね。見てみたいな」

「人間は生きられない星ですよ」

「それでも、きっと綺麗だと思うんだ」


 僕は床に散らばった原稿用紙を拾い上げた。窓から吹き込む湿っぽい風に吹かれて落ちてしまったのだろう。


「これ読んでいいですか」

「いいよ」


 『世界が終わる日。』の続きが出来ていた。儚く張り詰めたこの作品を『先生』の文字が彩っている。その文字をなぞって僕はぽつりと呟いた。


「僕は『先生』の字、好きですよ」

「……煽てても何も出ないよ」


 『先生』は照れているのか冗談交じりにそう言った。


「今こうして考えてみると、『先生』が手書きの手紙を送ってくれたからこそ、こうして仲良くなってるわけですしね」

「それもそうか」

「僕も『先生』みたいな字を書けたら、自分の名前も好きになれたのかもしれません」

「君の名前はかっこいいでしょ」

「読みはすごく好きです。でも肝心な名前が漢字の一ってだけって、貧相に見えませんか。もっとかっこいい名前がよかった」

「そう?」


 『先生』は真っ白な紙に透き通った水のような字で僕の名前を書く。綺麗な字の人が書くと、僕の名前も際立って見えた。


「いつか弓道をやってみたいって言ってたよね」


 止めて跳ねて払う。ペンが紙の上を踊るように巡る。


「風に間に一。ほら、弓道をやるために生まれた名前じゃないか。一なんて特に矢に似ている。これ以上ないいい名前だよ」 


 あげる、と僕の名前を綴った紙を差し出しながら『先生』はこう言った。


「そんなに気になるなら、占ってみる?君の未来」


 『先生』はそう言った。


「占いなんてできるんですか?」

「うん、簡単なものしか出来ないけどさ、暇だし習得しちゃおうって思って……」


 ほら、何かの役に立つかもしれないでしょ?と『先生』は引き出しを漁りながら言う。


「あぁ、あったあった」


 引っ張り出されたそれは不思議な絵が描かれたカードたちだった。


「タロット、ですか?」

「そうだよ。やったことはある?」

「ないですよ」


 女性や鳥、ローブを着た人物の見たことがないカードたちが机の上に並んでいく。


「まあ、俺が出来るのは簡単なものだからハジメも気軽にやってみてよ」

 『先生』がそう言って目にも留まらぬ速さでカードを切っていく。


「本当は三枚のカードを引いて過去、現在、未来の運勢の見るんだけど、俺はそこまでのことはできないから一枚引く簡単はものをやるね。……まずはやってみせた方が早いかな」


 『先生』は切ったカードを綺麗に揃えて机の中央に置く。


「やり方は簡単。カードを引くだけ。一番上のを取ったっていいし、真ん中でも、一番下のでもいい」


 『先生』は適当に真ん中ら辺からカードを引いて裏返す。


「『星』だ」


 女性が水辺で壺を持っていて、その後ろでは星が描かれている。


「どういう意味なんですか」

「『星』は『可能性』のカード。何にでもなれる、希望の象徴」


 『先生』はカードを天井にかざしてその絵を眺めていた。空で輝く星は『先生』にぴったりのカードだと思った。


「さ、次はハジメだよ。ハジメがカードをまぜて」


 僕は言われた通りにカードを雑ぜて好きなところからカードを引いた。


「裏返していいよ」


 赤い翼の天使がふたつの盃から水を交わしている不思議な絵のカードだ。


「『節制』のカードだね。『節制』のカードは調和を示しているんだ。バランスを取りつつ、何事もほどほどに、だってさ」

「……調和、ですか」


 今の僕から一番遠い言葉だ。僕には勉強をしているか、こうして『先生』に会いに来ているかしかない。好きなことだけしていたい。『つらいこと』から逃げて自由になりたい。バランスなんて、必要ない。

 この時の僕はそんなことを思っていた。僕は取り繕った笑顔を浮かべて言った。


「……すごいですね、カードと話しているみたいだ」

「誰だってできるよ、これくらいなら」


 『先生』は照れを隠しながらそう言った。


「きっとうまく行くってさ。俺も、ハジメも」


 『先生』はカードの中から『星』のカードをもう一度探し出して『節制』のカードの隣りに並べた。こうしてみると、このふたつのカードはどちらも水辺に立っている。


「似てますね、このカード」

「そう?」


 『先生』は無邪気にそう笑った。

『先生』はこの占いの結果をどう思っているのだろう。『当たっている』と思っているのか、それとも―。嫌な考えが過ぎったのでこれ以上考えるのはやめた。この瞬間からずっと、僕は『先生』から逃げていたのかもしれない。




 僕と『先生』は途中にあったコンビニに寄り道をしていた。


「はい、ハジメ」


 ふたつ入っているアイスの片方を『先生』は差し出してくれた。


「いいんですか?」

「いいから早く。溶けちゃうから」


 僕は慌ててアイスを受け取った。キンとした冷たさが僕の体温を奪っていく。『先生』が僕に肩を寄せてこそっと囁く。


「補導されちゃうかな」


 僕も後ろ目にコンビニを覗いたら中にいた店員と目が合ってしまった。


「まぁ、その時考えましょうよ」

「楽観的」

「二人乗りもしてますし、警察に見つかったら罰金でしょ。考えたくもないですよ」


 正直、『先生』は無断で病院を抜け出しているのではないかと疑っている。病院がこんな時間に外出を許可するなんてありえない。それでも『先生』が来てくれて嬉しい反面、本当に『先生』の体は大丈夫なのかという仄暗い不安で考えはじめたらせっかくの今を楽しめない気がした。


「俺らすっかり不良だねぇ」

「ですねぇ」


 そもそも『先生』が大丈夫だって言っているのだから、僕が心配する必要なんてないのだ。

 コンビニから溢れた不自然な光に夜光虫が群がっている。その中に奇抜な色をした蛾が数匹いた。蛾は一体どんな気分なのだろう。将来は蝶になれると夢見ていたのに、実際の蛹から孵った自分は醜い蛾だったとしたら蝶を憎むだろうか。もしかしたら、僕も蝶ではなく、蛾になってしまうかもしれない。そんなことを『先生』に言ってみた。


「……俺には蝶か蛾かなんてぱっと見じゃ分かんないけどね」

「全然違うじゃないですか」

「そう?でも、俺には見わけもつかないよ」


 他者から見れば姿の違いなんて些細なものなのか。あんな風に空を舞えたら、姿なんてどうでも良くなってしまうかもしれない。僕だってそうだ。自由さえ手に入れば、あとはどうだっていい。


 蛾も、そう思ったのだろうか。


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