第2話

 竹本座の台所で、私は大量の麦飯を炊きながら、奥の書斎から聞こえる父の咳に耳を澄ませていた。

 

 父は、ここ数年で明らかに弱っている。

 

 かつての父は、筆を持てば数日は不眠不休で書き続ける強靭さがあった。

 しかし今は半刻も机に向かえば、酷く肩を上下させて喘いでいる。

 

 それでも、決して筆を握る手は止めようとしない。

 

 ――それはまるで、自分がいなくなった後の世に、消えない傷跡を残そうとするかのように。

 


 ♔

 

 

「おい、お信! 手が止まってるぞ。飯を焦がす気か」

 

 荒っぽい声で、私は一気に現実に引き戻された。

 振り返ると、同い年の下働き、清吉が空の桶を床に投げ出したところだった。

 

 清吉は、竹本座で人形遣いの見習いをしている若者。

 私とは幼い頃からの顔見知りだが、近頃の彼は、私を見るたびに尖った言葉を投げつけてくる。

 

「……焦がしてないわよ。清吉こそ、水汲みは終わったの?」

 

「へっ、女のお前に指図される筋合いはねえよ。お前はただ、黙って飯を作ってりゃいいんだ。……どうせまた、お師匠様の目を盗んで、何かこそこそ書いてるんだろ?」

 

 清吉が私の手元にある、書きかけの紙の束を冷ややかな目で見据える。

 私は咄嗟にそれを前掛けの裏に隠した。

 

「あんたには関係ないでしょう」

 

「関係大ありだ。浄瑠璃ってのはな、男が命を削って語り、操るもんだ。女の腐った脳みそでひねり出したが、この竹本座の敷居をまたげると思うなよ。お前がどんなに頑張ったところで、お前はただの『近松門左衛門の娘』。それ以上でも以下でもねえんだからな」


 

 清吉の言葉は、鋭い針のように私の胸を刺す。

 

 彼は彼なりに、人形遣いという男の聖域に必死にしがみついているのだろう。

 だからこそ、その聖域に、ただの台所働きの女が筆一本で踏み込もうとしているのが許せないのだ。

 

「女のくせに、浄瑠璃なんて生意気なんだよ」

 

 吐き捨てるようにそう言って、清吉は再び桶を掴んで井戸へと向かっていった。


 

 ♔


 

 私は今年で十八になる。

 おなごが浄瑠璃を書くなど、世間が聞けば腰を抜かすか、鼻で笑うに違いない。

 ましてや、あの近松門左衛門の娘が、父の掲げる『虚実皮膜』の美学に真っ向から逆らう物語を書こうとしているのだ。

 

 執筆の時間は限られていた。

 朝は誰よりも早く起き、井戸端で水を汲み、煤にまみれて火を熾す。

 竹本座の若い門弟たちの食事を作り、破れた衣類を繕い、近所の商家への使い走りもこなす。

 

「お信ちゃん、いつも悪いねえ」

 

「いいえ、おばさん。この大根、瑞々しくて美味しそうですね」

 

 八百屋の女将さんと交わす何気ない言葉。

 長屋の軒先で子供たちが泥だらけになって遊ぶ姿。

 借金に追われながらも、「なんとかなるさ」と笑って暖簾を掲げる蕎麦屋の親父さん。

 

 ――父はこれらを「下らぬ日常」と呼び、劇的な死の装飾に足りぬものとして切り捨てた。

 

 けれど、私には分かっていた。

 この泥臭い、格好のつかない、それでも懸命に明日を掴もうとする人々の営みこそが、この世で最も尊い輝きを放っているのだと。


 夜、皆が寝静まった後に、私は行灯の火を頼りに筆を走らせた。

 

 私が書きたいのは、心中へ逃げる恋人たちではない。

 

 例えば、そうね――

 家のために愛を諦めようとする娘が、持ち前の機転で商売を大成功させ、頑固な親を説得して愛する男と祝言を挙げる物語。

 あるいは、無実の罪を着せられた若者が、長屋の仲間たちの助けを借りて真犯人を追い詰め、最後は皆で酒を酌み交わす物語。

 

 それは、父が嫌う「めでたし、めでたし」の大団円だ。



 ♔


 

「……お信、お前は何を書いている」

 

 背後から響いた冷徹な声に、心臓が跳ね上がった。

 振り返ると、父が幽霊のように立っている。

 

 私は咄嗟に書きかけの紙を隠したが、父の目は鋭くその端を捉えていた。

 無造作に私の原稿を取り上げ、一瞥する。

 

「……下らぬ。借金に苦しむ男が、富くじで当たって万事解決だと? お信、浄瑠璃とは。奈落の底へ落ちるからこそ、観客は己の憂き世を忘れられるのだ。こんな、その場限りの慰めに何の意味がある」

 

 父の手の中で、私の原稿がくしゃりと音を立てた。

 

「……お父様、それは違います」

 

 私は震える声で、しかしはっきりと言い返した。

 

「お父様の浄瑠璃を観た後、人々は溜息をついて帰ります。『死ねば楽になれるのか』と。私の書きたい物語は、観た後に『明日も商売を頑張ろう』『明日も前を向いて生きよう』と、外の空気が美味しく感じられる物語なのです」

 

 父は鼻で笑い、原稿を床に放り捨てた。

 

「無名の、それも齢十八の小娘が書く夢物語など、誰も見向きもせん。竹本座の座員たちも、そんな女の書いた本で人形を動かすほど落ちぶれてはおらんよ」

 

 父はそのまま、暗い廊下の奥へと消えていった。

 床に散らばった紙を、私は一枚ずつ丁寧に拾い集めた。

 

 悔し涙が溢れそうになったが、それを掌でぐしぐしと拭う。

 たしかに、父の言う通りかもしれない。


 私は無名の、ただの女。

 誰にも届かないかもしれない。

 

 

 けれど。

 

 昼間に会った八百屋の女将さんの笑顔が、

 使い走りの途中で見かけた夕日の美しさが、

 私の背中を押していた。

 

 この人たちが、幸せに笑って生きられる場所を守りたい。

 たとえ、誰の心に届かなくても、私は書き続ける。

 

 私は再び机に向かい、墨を磨り直した。

 

 

「――見ていてください、お父様。私は、お父様が殺した人々を、私の筆で生き返らせてみせます」

 

 

 これこそが、私の反逆。

 死を謳う天才・近松門左衛門の娘が選んだ、泥まみれの「生の賛歌」なのだ。

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