第12章:【神回2】上司への復讐ASMR
第12章:【神回2】上司への復讐ASMR
深夜一時。
私のワンルームマンションの中央に、異様な物体が鎮座していた。
それは、人の生首の形をしていた。
正確には、肌色のシリコンで作られたダミーヘッドマイク。両耳の部分に超高性能マイクが埋め込まれた、ASMR(自律感覚絶頂反応)配信の必須アイテムだ。
お値段、八十万円。ケンタがなけなしの貯金(というか、どこかから調達してきた資金)で買ってきた最終兵器だ。
「……ねえケンタ。こいつ、名前あるの?」
「『ダミ男くん一号』っす。大事に扱ってくださいよ。これ一台で軽自動車が買えるんすから」
ケンタはヘッドフォンを装着し、真剣な表情でミキサーのつまみをいじっている。
「マイクテスト頼むっす。……右耳から、吐息混じりに」
「……あー、あー。……聞こえる? 社畜ども」
私がダミ男くんの右耳に唇を寄せ、ウィスパーボイスで囁くと、ケンタがビクッと肩を震わせて親指を立てた。
「ゾクッときたっす。やっぱアンタの声質、ASMR向きっすわ。低音の倍音がエグい」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
私は咳払いをして、水を一口飲んだ。
今日の企画は、私の独断と偏見、そして個人的な怨念によって決定された。
題して、『【睡眠導入?】無能な上司が、深夜残業で君をジワジワ追い詰めるASMR』。
「正気っすか?」と最初はケンタも止めた。
ASMRといえば、耳かきやマッサージ、あるいは甘い言葉でリスナーを癒やすのが王道だ。
ストレスを与えるASMRなんて、前代未聞だ。
だが、私は確信していた。
私のリスナー(社畜団)たちが求めているのは、生ぬるい癒やしではない。
彼らが求めているのは、**「共感」という名の劇薬(デトックス)**だと。
「配信開始、いきます。……三、二、一。スタート」
『LIVE』ランプが点灯する。
同接は、告知の効果もあって既に二万人を超えていた。
私はダミ男くんの背後に回り込んだ。
そして、わざと重苦しい、革張りの椅子がきしむような音を口で作る。
……ギィィ……。
「……おい、佐藤くん」
私はダミ男くんの左耳の真後ろから、ねっとりとした低音で囁いた。
それは、あの権田原部長が、私の背後からPC画面を覗き込む時の距離感と声色を、完全に再現したものだった。
『うわあああああ!』
『距離ちけえ!』
『鳥肌立った』
『リアルすぎて吐きそう』
コメント欄がいきなり阿鼻叫喚になる。
よし、掴みはオッケーだ。
私はさらに演技を深める。
右手に持った缶コーヒー(微糖)のプルタブを開ける音。カシュッ。
そして、わざとらしく啜る音。……ズズッ、ジュルッ。
「まだ帰らないのかぁ? 君も好きだねぇ、仕事」
『いる! こういう上司いる!』
『コーヒー啜る音が汚ねえええ!』
『ASMRの使い方間違ってんだろwww』
私はニヤリと笑った。
マリアンヌのガワは、無表情のままリスナーを見下ろしている。
ここからが本番だ。
私はダミ男くんの正面に回り込み、デスクに見立てた台の上に、一枚の紙(退職届の書き損じ)を置いた。カサッ。
「例の稟議書だけどさぁ……」
私は耳元で囁き続ける。
右から左へ。左から右へ。
逃げ場のないステレオ音声で、理不尽な指導(パワハラ)が始まる。
「これ、誰が承認したの? 俺、聞いてないよなぁ?」
「え? メールしました? ……ふーん。メールしたからオッケーって思っちゃった? 君さぁ、仕事ってのは『心』でするもんだよ? デジタルの履歴が残ればいいってもんじゃないんだよなぁ……」
『胃が痛い』
『やめてくれえええ!』
『なんで俺、休日に上司に詰められてんの?』
『再現度高すぎて笑えないwww』
コメント欄は「辛い」「やめろ」と言いつつ、同接はぐんぐん伸びていく。
これが「怖いもの見たさ」だ。
人は、安全圏から見る悲劇が大好きなのだ。
そして、私は懐から「例のブツ」を取り出した。
百均で買ってきた、三文判のハンコ。
そして朱肉。
「……で、ここ。ハンコなんだけどさぁ」
私は朱肉の蓋を開け、ハンコをインクに押し付けた。
グチュッ、 という湿った音が、高性能マイクを通じて生々しく響く。
「佐藤くん。君、このハンコ……真っ直ぐ押してるよね?」
静寂。
コメント欄が一瞬止まる。
そして、爆発的なスピードで流れ出した。
『出たあああああ!!!』
『伝説の「お辞儀ハンコ」!!!』
『都市伝説じゃなかったのか!』
『うちの会社もこれあるわ……』
私はハンコを紙に叩きつけようとして、寸前で止めた。
そして、呆れたような、軽蔑するような溜息を、ダミ男くんの耳に吹きかける。
「はぁ……。君さぁ、マナー講師に習わなかった? ビジネスマナーだよ、常識だよ?」
「部下のハンコは、上司のハンコにお辞儀するように、左に傾けて押すんだよ。」
『意味わかんねえええ!』
『物理法則無視してて草』
『なんでハンコが会釈すんだよw』
『これガチで言われるから困る』
私はさらに畳み掛ける。
これぞ、私が十年間の社畜生活で味わった、最も無意味で、最も屈辱的だった儀式の再現だ。
「君のハンコが直立不動だとさぁ、俺のハンコが偉そうに見えないじゃん? 分かる? こういう細かい気遣いができないから、君はいつまで経っても『b(平社員)』なんだよなぁ」
私はわざとらしく、ハンコを斜めに傾けた。
そして、紙に押し付ける。
……ヌチャッ。
紙と朱肉が離れる、粘着質な音。
「ほら見てみ? こうやって斜めに押すと、まるで俺に『申し訳ございません』って頭を下げてるみたいで、可愛いだろ?」
『キモすぎワロタ』
『音の解像度が高すぎて吐き気する』
『マリアンヌ様、演技うますぎだろ』
『これASMRじゃなくて拷問だろww』
リスナーのSAN値(正気度)が限界に近づいている。
ここだ。
ここで落とす。
私はハンコを置き、ダミ男くんから一歩離れた。
そして、憑依していた「権田原部長」を脱ぎ捨て、本来の「マリアンヌ(覚醒したb)」の声に戻る。
「……って言われて、お前らもペコペコ頭下げてハンコ傾けてんだろ?」
冷ややかな声。
空気が一変する。
「馬鹿じゃないの?」
私はマイクに向かって、冷たく言い放った。
「いいか、よく聞け。
ハンコを傾けて押したところで、インクの成分は変わらない。契約の効力も変わらない。
変わるのは、『上司のちっぽけな自尊心』が満たされるかどうか、それだけだ」
『正論パンチきた』
『スカッとするわー』
「そんな無意味な儀式に付き合って、神経すり減らして、家に帰って泥のように眠る。……それがお前らの人生か?
『b』の人生ってのは、そうやって『どうでもいいこと』に命を削る人生のことだ」
私はダミ男くんの耳元で、優しく、しかし力強く囁いた。
それは癒やしのASMRではない。
洗脳を解くための、呪文(コード)だ。
「悔しくないのか?
ただのゴムと木の棒きれに、お前自身のプライドまでお辞儀させて」
『悔しい』
『泣けてきた』
『俺、何やってんだろ』
「だったら、顔を上げろ。
ハンコなんて、真っ直ぐ押せばいい。なんなら逆立ちさせてもいい。
文句言われたらこう言ってやれ。
**『部長、ハンコの角度より、御社の傾いた業績を気にした方がいいんじゃないですか?』**ってな」
一瞬の静寂の後。
コメント欄が爆発した。
『wwwwwwww』
『言いてえええええ!』
『強すぎるwww』
『業績が傾いてるwww 山田くん座布団全部持ってきて!』
『¥10,000 退職代行頼むより、この配信上司に聞かせた方が早いかも』
『¥50,000 腹抱えて笑った。ありがとうマリアンヌ』
スパチャの雨。
さっきまでの鬱屈とした空気が、一気にカタルシスへと昇華される。
私はニヤリと笑い、最後の一撃を加えた。
「ま、実際に言ったらクビになるかもだけどな。
でも、心の中では常に中指立てて生きろ。
お前らは、上司の機嫌を取るための道具じゃない。
いつか『a』になって、あいつらを見下ろしてやるための、潜伏期間中のスパイだと思え」
私はダミ男くんの頭をポンと撫でた。
「お休み、社畜ども。
明日はハンコ、真っ直ぐ押せよ?」
配信終了。
私はヘッドセットを外した。
喉がカラカラだ。権田原のモノマネは、喉への負担が半端ない。
「……やりすぎたかしら」
「いや、最高だったっす」
ケンタが腹を抱えて笑っていた。
「『業績が傾いてる』は名言っすよ。切り抜き確定っすね。……見てください、Twitterのトレンド」
彼はスマホを見せてきた。
トレンド一位:#お辞儀ハンコ
トレンド二位:マリアンヌASMR
トレンド三位:業績傾いてる
「社会現象っすね。これ、明日から会社でハンコ真っ直ぐ押す奴、増えるんじゃないっすか?」
「ふん。クビになっても知らないけどね」
私は強がって見せたが、内心ではガッツポーズをしていた。
復讐完了。
私を苦しめたあの理不尽なマナーを、笑い飛ばしてネタにして、金に変えてやった。
これ以上の「ざまぁみろ」はない。
それに、最後のコメント欄の熱気。
あれは単なる笑いじゃなかった。
『b』として抑圧されていた人たちが、私の言葉で少しだけ顔を上げ、鎖を断ち切ろうとするエネルギーを感じた。
「……始まったかもね」
「何がっすか?」
「『3%の革命』よ。……今日の配信で、何人の『b』が覚醒したかしら」
私はコンビニの安い発泡酒を開けた。
プシュッ。
その音は、まるで権田原の頭をハンコでかち割った時のような、爽快な音がした(気がした)。
(第12章 完)
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