第20話 「天体物理学と『田園』」
旧校舎の最上階。
綺麗に片付けられ、本来の姿を取り戻しつつある『天文学部』の部室。
「……なあ、聞いてくれよ」
革張りのソファに深く腰掛けた一条蓮が、口元を押さえながら言った。
「なんですか?」
部室の掃除をしていた剣崎が振り返る。
「昨日さぁ、あの
「理崎奏、ですか」
(……名前、知ってるくせに)
剣崎は内心でツッコミを入れた。
「そうそう! 理崎だ! あいつがさぁ、すごいんだよ!」
一条は、先日の相陽高校でのカチコミの様子を、身振り手振りを交えて熱く語り始めた。
ボウリングのように不良をなぎ倒す物理学。最小限の力でトップを沈めた合気道のような投げ技。
語る一条の顔は、少年のようにキラキラと輝いている。
(……めっちゃ嬉しそうだな、一条さん)
剣崎は、孤高の暴君であった一条の変化を、微笑ましく思っていた。
彼がこんなに誰かのことを楽しそうに話すのは、初めてかもしれない。彼の細い蛇のような目が、さらに細く優しく緩む。
「あ、そうだ。ここから一年の教室、よく見えるんだぜ」
一条は不意に立ち上がると、窓際に設置された年代物の天体望遠鏡のレンズを下に向けようとした。
「……一条さん。それは流石にキモいんで、やめときましょう」
剣崎が真顔でストップをかけた。
孤高の王のイメージは、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
***
昼休みの渡り廊下。
奏が歩いてくると、そこには「偶然を装って待ち伏せていた」一条と、付き添いの剣崎が立っていた。
「おっ、偶然だね! 転校生」
一条が、わざとらしく驚いたふりをして声をかける。奏は足を止めた。
「ところで、天文学部に入らないか?」
「……」
「天文学と物理学は、密接な関係があるんだ。物理法則を用いて天体現象を解明する『宇宙物理学(天体物理学)』という分野がある。天文学は、物理学的手法で宇宙を理解する科学へと進化したんだ」
一条は、謎に熱弁をふるい始めた。
「つまり! 天文を愛する俺と、物理を愛するお前とが合わさることで、宇宙の真理に一歩近づくってわけだ! どうだ!?」
一条がドヤ顔でビシッと指を突きつける。
奏は、ゆっくりとノイズキャンセリング・イヤホンを片方外した。
漏れ聞こえてきたのは、ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』。この『新世界より』は、アポロ11号のアームストロング船長らが月への飛行中に好んで聴いていたとされる。
「……何か言った?」
「聞いてなかったーーっ!?」
一条がズッコケる。
「てか、どうだ? って言われてもなぁ」
いつの間にか背後に立っていた剛田が、腕を組んで割り込んできた。
「お前には言ってない」
一条が即座に冷たくあしらう。
「言ってること、難しくて全然分かんないしぃ」
ミカも横から口を挟む。
「お前にも言ってない」
ギャーギャーと騒がしくなる廊下。
その時。
――ガンッ!
「……っ!」
鈍い音と共に、一条の顔が横に弾かれた。
周囲の生徒の群れの中から、誰かが投げつけた「中身の少し残ったスチール缶」が、一直線に飛んできて一条のこめかみに直撃したのだ。
カラン、カラン……と缶が床を転がる。
一条のこめかみの皮膚が切れ、タラーッと一筋の赤い血が滲み出た。
「誰だ!!」
剣崎が瞬時に反応し、殺気を放って群衆を睨みつけた。
しかし、一条はスッと手を出して剣崎を制止した。
「……大丈夫だ。大したことない」
一条は流れる血を親指で無造作に拭うと、群衆を威圧することもなく、ただ静かに目を伏せた。
一条の反射神経と動体視力なら、あんな速度の缶など容易に避けられたはずだ。軌道は完全に見えていた。
だが、彼は一歩も動かず、まるで罰を受けるかのように、わざとそれを顔面で受け止めたのだ。
「……よかったら、部室来いよ。じゃあな」
一条は、それだけ言うと背を向け、血を拭いながら歩き去っていった。
恨まれているのはわかっている。一条のその背中は、どこか寂しげだった。
「ねえ」
ミカが、残された剣崎に声をかけた。
「一条先輩さ、前はジャラジャラすごいアクセサリーつけてたけど、最近全然つけてないよね。……イメチェン?」
剣崎は、遠ざかる一条の背中を見つめたまま、悔しそうに俯いた。
「……違うよ。売っちゃったんだよ」
「売った?」
「
「えっ……」
ミカと剛田が絶句する。
「そもそもウチの生徒たちから集めた金じゃ、あいつらのとんでもない請求に足りてなかったんだ。色々やりくりしてたんだけどな」
剣崎は拳を強く握りしめた。
「それでも、金額が追いつかなくなっちまって……自分の持ち物を全部売って、穴埋めしてたんだよ」
「……」
奏はイヤホンをポケットにしまうと、無言のまま、野次馬の生徒たちの群れの中へと足を踏み入れた。
(質量 m ≈ 0.05 kgのスチール缶。一条の頭部に命中した際の反発係数 e と入射角 θ から、着弾前の最終速度ベクトルを算出)
(放物運動の軌道方程式。空気抵抗 k を考慮し、放物線の頂点座標を逆算。……投擲位置は、ここから距離 x=6.5 m、角度 φ=15° の地点)
奏は、群衆の中を真っ直ぐに歩き、一人の男子生徒の前にピタリと立った。 生徒はビクッと肩を震わせ、顔を青ざめさせた。
「君の手首の屈筋群と、肩の三角筋前部に、不自然な筋収縮の余韻が見られる。初速 v_0 ≈ 12 m/s で質量体を投擲した証拠だ」
「な、なんのこと……」
生徒が後ずさりしようとした瞬間。
奏は、最小限の力で生徒の右手首を掴み、手根骨の関節構造に沿って、わずかに「てこの原理」で捻り上げた。
「いてててててっ!!」
生徒が悲鳴を上げてその場にへたり込む。
奏は、冷ややかな瞳で彼を見下ろした。
「あの空き缶、君だろ?」
「…………っ」
「空き缶は、ゴミ箱だ」
奏は手を離すと、怯える生徒を一瞥し、旧校舎の方へと歩き出した。
***
旧校舎最上階。天文学部部室。
一条がティッシュでこめかみの血を拭いていると、バンッ! とドアが開かれた。
「なんでお前ら来るんだよ」
一条が呆れた顔をする。
そこには、ミカ、星野、剛田がズカズカと入り込んでいた。
「いいじゃないのよ!」
ミカがキョロキョロと部室を見回し、勝手にソファに座る。
「お前ら、星の良さなんかわかんないだろ!」
「僕の苗字は『星』野ですから」
星野が胸を張る。
「関係ないだろ!」
「まあまあ、細かいことは気にすんなって」
剛田がドカドカと入り、パイプ椅子に巨体を沈める。
「なんだんだよ、お前ら……」
毒気を抜かれた一条がため息をついた、その時。
奏が静かに部室に入ってきた。
「理崎……」
一条が息を呑む。
奏は、一条の前に歩み寄ると、無表情のまま手を差し出した。
「入部届は、どこだ?」
「……え?」
一条は、呆然とした後、フッと口元を緩め、不敵に笑った。
「……後で、用意しといてやるよ」
――しかし。
その頃。隣町の神央工業高校では。
「……相模柏木か」
県央の支配者、御影玲王が、ナイフで机を深く削りながら、どす黒い殺意を滾らせていた。
災いを呼ぶ凶悪な巨星が、相模柏木高校に、そして奏たちに、明確に狙いを定めた瞬間だった。
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