第十一章:新たな賽

紀元前四十四年、三月十八日。


執政官マルクス・アントニウスの邸宅は、カエサル派の主要人物たちが集い、重苦しい緊張感に支配されていた。


昨日、元老院で可決された妥協案により、ローマはかろうじて内乱の危機を回避した。


だが、それはあくまでも、薄氷の上で保たれた、束の間の休戦に過ぎない。


誰もが、次の一手が、この脆い均衡をどちらに傾けることになるのかを、固唾を飲んで見守っていた。


そして、その次の一手を決定づける、最重要の儀式が、今まさに始まろうとしていた。


ガイウス・ユリウス・カエサルの、遺言状の開封である。


書斎の中央に置かれたテーブルには、一枚の、厳重に封蝋された羊皮紙が横たわっている。


カエサルの義父であるルキウス・カルプルニウス・ピソが、ウェスタの巫女長から受け取り、ここに届けたものだ。


それを、アントニウス、レピドゥス、そしてカエサルの腹心であったレビルス、オッピウス、バルブスたちが、無言で囲んでいた。


レビルスは、その羊皮紙を、冷徹な、それでいてどこか祈るような目で見つめていた。


(閣下は誰に何を託されたのですか?)


レビルスは、心の中で、今は亡き主君に語りかけた。


儀式は、ピソの立会いの下、厳粛に執り行われた。


アントニウスが、執政官としての権限に基づき、厳かに封蝋を砕く。


彼は、自らはその中身に目を通すことなく、傍らに控えていた書記官に、その羊皮紙を手渡した。


「…読め」


その低い声に応じ、書記官は、震える声で、遺言の内容を朗々と読み上げ始めた。


書斎に集まった全ての人間が、息を呑んだ。


第一に、カエサルの莫大な個人資産について。その大半は、ローマ市民一人ひとりに対し、三百セステルティウスずつを贈与する。


さらに、テヴェレ川の対岸にある壮麗な庭園は、市民の憩いの場として解放する、と。


その内容に、バルブスとオッピウスは、安堵の表情で顔を見合わせた。


これは、市民の心を掴む、最高の切り札となるだろう。


そして、次に読み上げられたのは、後継者についての項目だった。


書記官の声が、わずかに上ずった。


「…ガイウス・ユリウス・カエサルは、その財産の四分の三を、ガイウス・オクタウィウスに遺贈する。同時に、彼を我が養子とし、我が名、ガイウス・ユリウス・カエサルを継承させるものとする…!」


その名が読み上げられた瞬間、レビルスは、静かに目を閉じた。


(…オクタウィアヌス殿、か)


彼の脳裏に、アポロニアにいる、あの病弱な、しかし年齢にそぐわぬ冷徹な光を瞳に宿した青年の姿が浮かんだ。


(やはり、あなたは、それを選ばれたのですね、閣下)


その選択に、レビルスは、深い、深い納得を覚えた。


そして何より、そこに、クレオパトラとその息子、カエサリオンの名が、一言も記されていなかったこと。


主君は、最後まで、個人的な情に流されることなく、ローマの支配者としての、冷徹な理性を貫いたのだ。


だが、その安堵は、次に読み上げられた、信じがたい名によって、粉々に打ち砕かれた。


「…もし、第一相続人たるガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスが、相続を辞退、あるいはその任に堪えられぬ場合は…第二次相続人として、デキムス・ユニウス・ブルトゥスを、指名する…」


書記官は、さらに続けた。


「…そして、第二次相続人もその任に堪えられぬ場合は、マルクス・アントニウスを、第三次相続人とする…」


デキムス・ブルトゥス。


暗殺者の一人。


書斎に、凍りつくような沈黙が落ちた。


レビルスの身体を、静かだが、しかし魂の芯まで焼き尽くすような、激しい怒りが貫いた。


(…デキムス…貴様ッ…!)


レビルスの怒りは、カエサルではなく、その裏切り者に、全面的に向けられた。


(閣下は、この遺言を書かれた時まで、貴様を、そこまで信頼しておられたというのに! その信頼を、貴様は、最も卑劣な形で踏みにじったのだ! 万死に値する!)


主君の、あまりにも大きな信頼と、それを裏切った男への、底なしの憎悪。その二つの感情が、レビルスの心を激しくかき乱していた。


その、レビルスの内心の嵐とは対照的に、アントニウスは、静かにその朗読を聞きながら、屈辱と、そしてそれを上回る野心を、その胸の内で燃え上がらせていた。


第三次相続人。


それは、事実上、後継者としては指名されなかったことに等しい。


アポロニアにいる小僧どころか、裏切り者であるデキムスの後塵を拝するとは。


(…この俺が、あの小僧以下だと…!)


だが、彼は、この遺言状の中に、自分にとっての、最大の武器を見出していた。


遺言執行責任者。


その立場は、合法的に、カエサルの全ての遺産を管理し、分配する権限を、彼に与える。


そして何より、「市民への遺産」という、この上なく甘美な果実。


(…使える)


書記官の声を聞きながら、アントニウスの瞳に、再び、野心の色が燃え盛った。


(この遺言状は、俺に、ローマ市民の全てを味方につけるための、最強の武器を与えてくれた。ブルトゥスでも、カッシウスでもない。ましてや、まだイタリアの土さえ踏んでいない、あの小僧でもない。この俺こそが、カエサル閣下の最後の遺志を、市民に届けることができる、唯一の男なのだ)


彼は、数日後に執り行われる、カエサルの国葬の光景を、その脳裏に描いていた。


フォルムを埋め尽くす、悲しみに暮れた市民たち。


その前で、自分が、この遺言状の内容を明かし、カエサルの血染めのトーガを掲げた時、何が起きるか。


市民の悲しみは、必ずや、暗殺者どもへの、燃えるような怒りへと転化するだろう。


その怒りの炎を、自分が意のままに操るのだ。


(…見ていろ、ブルトゥス。そして、小僧よ)


アントニウスは、心の中で、まだ見ぬライバルたちに、不敵な笑みを投げかけた。


(カエサルの遺産は、この俺が、全て受け継いでやる)


ローマの未来を決定づける、新たな賽は、今、投げられた。


そして、その賽の目を、自らの望む形に変えようとする、新しいプレイヤーが、盤上に、その姿を現したのだった。

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