第10話:ロッカー
梅雨らしい、じめっとした雨が降っている。
あれから二週間、いつも通り俺は黙々と書類を積み、
イシダを連れ、街を巡回した。新しい相談や、案件にも必ず同席させた。
張り付かせて、出来る限りのことを伝える。
イシダはしっかりと俺の技術を吸収していた。
「この案件は、どう対処する」
「まず、相談者を保護して、聞き込みに回ります」
「それから」
「連携を取り、追い詰めます」
「よし。それでいい。報告書、上げろ」
「はい。……コンドウさん」
「何だ」
「ありがとうございます」
「……まだ、早いだろ」
「そうですが、何度言ってもいいじゃないですか」
少し鼻で笑うと、パソコンを開いた。机の上に、ファイルが積み上がっている。
エナミ関連の資料。供述、資金の流れ、過去の照会履歴。
俺は一枚ずつ、黙って確認していく。
ノートにその流れを書き込み、まとめていく。
もうすぐ、席はなくなる。それでも、今はまだ刑事だ。
手元のカードは、残さない。名義貸し口座の洗い直し。関連会社の登記の再確認。一見無関係に見える金の動きを、時系列に並べ替える。
「コンドウ」
課長が、後ろから声をかけてきた。別室に移動し、ドアを閉める。
「辞職願、受理された。七月末だ」
「ありがとうございます」
「最後まで、イシダの面倒を見ろ」
「はい」
「しっかりと引き継いで、職務を全うしろよ」
「承知しました」
部屋を出ると、深く息をついた。さて、どこからやるか。カウントダウンだ。
あと、十日。俺はデスクに戻ると、書類をまとめ、イシダを連れて聞き込みに出た。
退勤後、ミチコの家に、ヤヨイの様子を見に行く。
ミチコが買い物に出た後、何でもない様な声で、
刑事、辞めることにした、と伝えた。ヤヨイは、えっ、と目を見張り、黙り込む。やがて、目を伏せて、小さな声で話し始めた。
「わたしの、せいですか」
「違う。俺が自分で決めたんだ」
「でも」
「いいんだ。これで」
「……」
あれからヤヨイは眠れていなかった。常に怯えた目をして、
笑うことが減り、音に過敏になり、ふとした瞬間に遠くを見る。
時折、急に震えて泣きだす。
ミチコがそばにいてくれたが、それでもヤヨイは、日に日にやつれていった。
夜中に、短く息を詰まらせる声が聞こえる。
ミチコは以前、泣きながらそう話した。ふたりで向かい合う。
俺はしばらく考えてから、言った。
「なあ」
ヤヨイが顔を上げる。
「一緒に……暮らそうか」
唐突だった。
「広めの部屋を借りる。指一本触れない。出入りも俺が見る。ここより、安全だ」
ヤヨイはしばらく黙ると、
「うん。そうだね」
そう言って、小さく頷いた。
出勤するとパソコンを開き、書類をまとめる。イシダを連れて外を歩き、
細かい技術を叩きこむ。夜は、ひたすらノートに文字を書き込んだ。
封筒に、シュレッダーにかけるはずだった書類をまとめて入れる。
前に取った、エナミの元内縁女性一件の口座記録と、
関連会社の使っていなかった二件の口座の記録、二件の登記だ。
三年ほど動きはなかったが、半年ほど前から、急に出入金が多い。
しかも、その金額の一致が多く、でかい。
気のせいなら、それでいい。念のため、だ。
その夜、サカイと、賑やかな居酒屋のカウンターに並んだ。
相棒は、今や警部補で組対の班長だ。
「……本当に辞めるんだな」
「ああ」
「後悔、すんなよ」
「しないさ。そのために」
カウンターの上に、ノートと封筒を置いた。サカイが目を細める。
手に取ると、ノートをぺらぺらとめくる。息を呑んだ。
「これを、お前に託すよ」
「……俺を、共犯にするつもりか」
「……別件で行けるか?」
「証拠が揃えばな。今はまだ、点だ」
サカイは、しばらくノートをめくると、封筒の中を覗く。
「こんなの、よく手に入ったな」
「地道な捜査の結果だ」
「はは、地道な捜査、か」
「お前ならこれを、腐らせる前に食えるだろ」
「……面倒臭えな」
「頼んだ」
ふーっと息をついて、俺の顔を見た。
俺は笑うと、グラスを寄せて相棒のグラスを鳴らした。
サカイはノートと封筒をしまうと、グラスを傾けて、笑った。
「さすが、俺の相棒だ」
「褒めすぎだ、相棒」
少し顔を見合わせ、笑う。通りがかった店員に、もう一本ビールを頼む。
「ああ、それと」
「……まだ何かさせんのか」
「いや」
「何だ。もう、驚かねえぞ」
「……ヤヨイと、同居することにした」
サカイは呑んでいたビールを吹き出した。
「結婚か」
「違う。ただの、同居だ」
「ヤヨイさんは」
「了承したよ」
「そうか、驚いた」
「そういう感情はねえ。これが、最善だっただけだ」
「守るため、か」
「ああ」
「……思い切ったな」
「逃げないって、決めたからな」
お待たせしました、振り向くと、店員が瓶ビールを持って笑う。
ああ、ありがとう、受け取ると、グラスを満たす。
サカイは、酌を受けると、グラスを傾けた。
「とにかく、確認する」
「絶対に裏がある。探ってくれ」
「ああ、食えるうちに、な」
――蒔いた種は、いずれ咲く。信じるしかない。
それからの日々は、忙しかった。
未決了事件のリストを作り、イシダを連れて現場を回って、
エスや関係者を回り、顔をつなぐ。
「これからは、コイツが担当だ。いつでも呼んでくれ」
「イシダです。よろしくお願いします」
「全部仕込んである。頼んだ」
「若いな。ま、コンドウさんが言うなら、大丈夫か」
「はあ」
イシダが、少し不安そうな顔をした。俺はそれを無視して、
エスに軽く手を振り、歩き出す。署に戻り、夜中までパソコンを睨み、
デスクに積んである書類を整理した。総務で事務手続きをする。
装備品のチェックをし、ロッカーにまとめる。
私物を整理し、段ボールに詰める。
「これ、読んどけ」
イシダに分厚いファイルを渡した。これまでのやり方をまとめた資料だ。
捜査資料の作り方、被疑者の追い方、エスとの取引の方法、
制度の範囲内で出来ること、それの使い方、地取りの視線……。
先輩からの教えや、経験の全て。
「あとは、お前がやれ。頼んだ」
「……出来るでしょうか、僕に」
「……」
「コンドウさんがいないと、怖いです」
俺は、ふーっと息をつくと、イシダの顔を真っ直ぐ見た。
「お前だから、任せるんだ」
「……はい」
「自信を持て、俺が仕込んだんだからな」
イシダは、しっかりと頷いた。
最後の時間を走り抜ける。七月三十日。辞職日、前日。
全ての捜査書類に判を押し終え、係長に提出した。パソコンのパスワードを初期化し、データを消す。他課を回って、辞職の挨拶をした。
生安の仲間たちと握手を交わし、笑いあう。
ロッカーを整理していると、後ろから声がした。
「コンドウ、寂しくなるよ」
「係長……後は、頼みます」
係長は、更衣室のベンチに座ると息をついた。
「……俺にも、守れなかった人がいる」
「……」
「同じだ。相談者だった」
「……そうですか」
「俺は手を離したんだ……制度に負けてな」
「え?」
「だからお前の選択を、止められん」
「……」
「後悔しないように、やり切れよ」
「はい」
「戻りたくなったら、言え」
俺は真っ直ぐ顔を見ると、一礼した。
係長は、少し微笑むと、更衣室を出て行った。背中を見送り、段ボールを閉じる。ロッカーの中には、ハンガーにかかった制服と、装備品。
警察手帳と、手錠。それと、拳銃。
本来なら保管庫に返すが、最後まで持っていたかった。
しばらく眺めると、ロッカーを閉める。
夜は明け、辞職当日。じりじりと、焼けるように暑い。
高く、濃い青空と白い積乱雲。
強い日差しが、アスファルトに濃い影を落としている。
汗を拭くと、ロッカーで制服に着替えた。胸の階級章を、指でなぞる。
やれるだけのことは、やった。根回しもした。引継ぎもした。
それでも、迷いがすべて消えたわけではない。
この先、後悔する日が来るかもしれない。でも、未練はない。
自分の心に、そう言い聞かせる。
手錠と、拳銃を取り出す。しばらく眺めて、指でさする。
「警察だ、動くな」
サカイと踏み込んだ、機捜の現場を思い出す。
捜一の、合同捜査会議のバカでかい会議室を思い出す。
地道に歩いた、商店街の人混みと笑顔を思い出す。
息をつき、ロッカーの扉を閉めた。
武器保管庫に出向き、拳銃、警棒、警笛、手錠を返す。
怪訝そうな顔をして、係員が顔を上げた。
「昨夜の、返還記録がないようですが」
「……ああ、すまん。最後だ、許せ」
一瞬目を見て、笑った。係員は、少し黙ると笑って受領証に判をついた。
シリアルナンバーが書かれたプレートを、手帳のポケットに差し込むと、退室した。階段をのぼり、署長室の扉の前に立つ。深く深呼吸し、前を向いた。
ノックをして名乗る。入れ、という声を確認し、ドアを開けた。
帽子を左脇に抱え、深く頭を下げる。署長の前で、直立不動する。
「辞令。警視庁巡査部長コンドウケイスケ。
本人の願いにより、本日をもって職を解く」
署長が、口上を述べた。一歩近づき、両手で辞令書を受け取る。
少し下がり、最敬礼した。
「ありがとうございました」
「ご苦労だった。これまでの働きに感謝する。この先の人生も、励め」
「はい」
半歩引いて反転すると、退室する。外には、課長が腕を組んで立っていた。
何も言わずに一礼すると、課長は小さく頷き、笑った。
「寂しくなるな。あとは任せろ」
「はい、たいして心配していません」
「はは、言ってくれる。元気でな」
「お世話になりました」
一礼して、笑い返す。階段を下りると、イシダがいた。息を呑む。
「コンドウさん、あの……」
「まだだ、次行くぞ。返納だ」
「……はい」
警務課に向かう廊下で、すれ違う人が一瞬目を見張り、
その後、会釈や敬礼をする。俺は前だけを見て歩いた。
後ろでイシダが、小さくため息を漏らした。
警務課に入ると、保管庫で受け取った受領証と、警察手帳を取り出した。
開いて、しばらく眺める。ふっと息をつき、窓口に差し出す。
胸から階級章を外すと、その横に置いた。
ロッカーを開け、ジャケットを脱ぐ。その後ろでイシダが、深々と頭を下げる。
「ありがとうございました」
「礼は言わなくていい」
「もっと、張り付いていたかったです」
目を伏せて、唇を歪ませた。俺はイシダの肩を叩くと、拳を胸に当てた。
「あとは、自分で歩け。頼んだ」
「……はい」
制服をハンガーにかけ、ロッカーに吊るした。
階級章の付いていた跡を、指でなぞる。
カタン。
ロッカーの扉が、小さな音を立てた。
イシダの顔を見て頷くと、何も言わず、更衣室を出る。
署を出ると、夕焼けが空を染めていた。赤色灯を回しながらパトカーが出る。
ただ黙って見送った。サイレンが、遠ざかっていく。
入口に反転し、一礼すると、振り返り、歩き出した。
引っ越しの日は晴れていた。
レンタカーに荷物を積み込み、何度も階段を往復する。
ヤヨイは黙々と動くが、時折立ち止まり、振り返る。
「そろそろ昼にしよう」
「うん」
近所の中華屋に入る。汗を拭きつつ、コップの水をがぶ飲みした。
しばらくして、俺にチャーハンと餃子、ヤヨイに、冷やし中華が届いた。
いただきます、小声で言うと食べ始める。
ヤヨイは、ガツガツと食べ進める俺を見て、くすっと小さく笑った。
顔を上げると、箸を置く。
「これから、よろしくお願いします」
小さく頭を下げ、穏やかに笑った。俺は手を止め、笑い返した。
店員が、そばに来てコップに水を注ぐと、話し始めた。
「そこに引っ越してきたのよね、ご夫婦?」
「いや、ただの同居人だ」
「そうなんです。通わせていただきますね」
「そう、なの。何だか、不思議な関係ね」
「……共同生活者、だ」
店員は、何だかな、という顔で天井を見る。
「ふーん。よろしくね」
「よろしくお願いします」
ヤヨイが、小さく頭を下げた。店員が離れた後、またくすくすと笑い続けた。
新しい部屋は、まだ匂いがしない。
すぐにカーテンを取り付け、最低限の家具を置く。
何とか荷物を収め、少し遅い夕食を取った。
食卓にヤヨイの作った料理が並ぶ。向かい合って座り、手を合わせた。
「いただきます」
しばらく箸を動かしていると、窓の外で物音がした。足跡が、遠ざかる。
やがて、車の走り去る音が響く。ヤヨイの肩が、ビクッと揺れた。
立ち上がり、カーテンの隙間から外を見る。誰もいない。
鍵を確認し、カーテンを閉める。念のため、玄関も確認して、食卓に戻る。
胸の奥に、ざらつきが残る。
「大丈夫?」
「ああ。何もない」
ヤヨイはほっと息をついた。少しうつ向くと、箸を置く。
「刑事じゃなくなったの、後悔してる?」
「まだ、分からん」
「わたしのせいで、ごめんなさい」
「それは違う。俺が、選んだんだ」
そう答えながら、確信はない。胸の奥の傷は、まだ癒えない。
それでも、ここで生きる。そう決めた。
「それに」
真っ直ぐヤヨイの顔を見て、笑った。
「辞めずにひとりにする方が、多分、もっと後悔する」
ヤヨイ少し息を呑むと、ありがとう、そう小声で言って、穏やかに笑い返した。
守るということは、場所を変えて、手を離さないということだけじゃない。
サカイに渡した、封筒とノートが頭に浮かぶ。最後に種は蒔いた。
出来ることは、すべてやった。もう手を放したが、完全に無関係ではない。
蒔いた種が、どんな花を咲かせるのか、それとも咲かないのか、
分からない。未決のまま、息を潜めている。
眠る支度を済ませ、ヤヨイは寝室に入る。
その背中を見送ると、窓の外と、玄関を確認する。
リビングの灯りを消すと、となりの部屋のドアを開け、中に入った。
枕もとの灯りを付けると、ベッドに横になる。
壁の向こうに、微かに体温を感じた。遠くでまた、サイレンが聞こえる。
静かな部屋に、夜が降りた。
もう、刑事ではない。それでも、まだ、何かを探している。
胸の中の軋んだ音は、まだ消えていなかった。
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