二十六話
「あなたは……?」
直接は答えず、仁は聞き返した。
「俺はここに住んでるただのジジイだ。こんなとこじゃ立ち話もできねえ。場所変えようぜ」
くいっと男性が親指を後ろにやる。ついて来い、ということだろうか。
一ヶ月前――いや、正確には三年と一ヶ月前だが――に角材で頭を殴られたのは記憶に新しい。
仁はベルトの内側に手を入れ、あらかじめ用意した
男性は周囲を警戒しながらどんどん進んでいく。かなり歩いたが止まる気配はない。ついには六番街に来てしまった。
ぼんやりと壁に凭れ、焦点の合わない人々。道の端に、乱雑にダンボールが畳まれていた。誰かの寝床だ。
路地の奥で何人かが地面に横たわっている。胸が動いている気配すらない。意識的に目を逸らし、彷徨うヤク中と、視線が合わないように気をつける。
ぬめっとした、ところどころが欠けているアスファルト。靴底から伝わる感覚に、仁は顔を顰めた。
「……ここだ。心配しなくていい、店主とは顔見知りだ」
連れてこられたのは、六番街に店を構えるには少しもったいないと感じる、綺麗な内装の喫茶店だった。店内は客で賑わっていて、皆人並みに身なりが整っていた。さすがに高価なアクセサリーや時計を身につけるような馬鹿はいなかったが。
飯は食ったか? と聞かれて首を振ると、メニュー表を差し出された。
ひとまずチキンステーキとサラダ、パンを注文する。
「……あんた、秘書として働いてどんくらいになるんだ」
男がポークチョップ・ドリアを食べながら、不機嫌そうに尋ねてきた。
「えと……一か月ぐらいですかね」
考え込むように目線を上にしながら、名前も知らない男を観察する。何故自分が総代の秘書だと分かったのか、自分に何を話すつもりなのか。
今のところ食べ物から毒の香りはしない。いや、毒を入れてどうこうするつもりなら、わざわざ店主と顔見知りだ、なんて言わないだろう。仁は慎重に肉を切り分け、口に運んだ。
「そうか……じゃあ、前の秘書の話も知らねえか?」
「前の秘書?」
「ああ、そいつはな、よく働く真面目なやつだった。総代のために身を粉にして、翡翠楼の再建に尽くしてた」
男が一番上の目玉焼きの黄身をそっと崩し、独り言みたいに続ける。低く嗄れた声は集中して聞かないと拾えない。
「でも、ある日突然いなくなった。周りの人間は口を揃えて、総代が切ったと言ってるが、俺にゃ真相は分からねえ」
仁はパンをちぎりながら黙って聞いた。
「あんたに言いたいのはな、余計なお世話かもしれないが……あの女を信用すんのはやめとけ。人を物みたいに使って、使えなくなったら捨てる。そういう奴だ」
「なんで、そんなこと俺に教えてくれはるんです」
「ん? ああ、ちょっとな……あんたが不憫に思えただけだよ」
男は少し目を伏せた。
「前のやつは、マフィアの時代を終わらせて、混乱した翡翠楼を一緒に取りまとめてた。ほら、あのマフィアどもが仕切ってた時代だよ、あんたも知ってんだろ? 可哀想にな……やっぱ
軽蔑混じりに吐き捨てる。今まで話した住民と同じ、嫌悪と忌避の目。
(マフィア……炎龍会だの黒鱗会だのが跋扈してた時代やな)
眠っていたせいで新しく感じられる単語は、この世界では三年前に滅びている。
正直言って、実感など微塵も湧かないが、そんなことはおくびにも出さないように努める。
男は財布を取り出した。
「気をつけな兄ちゃん。こりゃ忠告だ、タダでやる」
カウンターに二人分の代金を放り、男は皿の上を平らげて去っていった。
『? ありがとう』
素直にお礼を言ってきた彼女の顔を思い出す。虚を突かれたような、珍しい表情。
大きな黒い瞳、長く重いまつ毛、色白の肌に石鹸の香り。その、月夜のような美しい顔に、頬から耳にかけて刻まれた紅い傷跡。撃たれそうになった仁を、庇ってできたものだ。
なぜかあのとき、お礼の言葉がでなかった。はぐらかしてしまった。感謝も謝罪も、いくらでも並べられたはずだ。少し頬を上げて、人懐っこく微笑めば、誰もが許して受け入れてくれる。
そのはずなのに、彼女にだけは、救ってくれた感謝を出しに執着するよう仕向けることが出来なかった。
(……つくづく調子狂うわ)
すっかり冷めたパンをチキンと一緒に無理くり飲み込み、サラダを流し込む。
店から出て、一番街のほうへ。何とか最後の
指が、くせっ毛の先を弄んでいた。
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