疑惑への誘い
一、裏香屋
金の刻は華やかなる鬼灯商店街なれども、銀の刻にはしんと静まりかへり、ひやりとした空気が頬を撫でつけます。闇に包まれし最中では、微かなる風に揺れし木木の影も、あやかしのうごめきに感ぜられてなりませぬ。
狭き裏路地のその奥に、怪しげな煙をくゆらす商店がひとつ、ぽつりと見へました。それが、件の香屋でした。香を求むる客人らと思はしき列が、店の前にひとすじ伸びております。皆一様に分厚き外套を目深にかむり、頂より鼻先までを隠しております。彼らは黙したまま虚ろな足取りでふらり、ふらりと香屋の中へと吸ひ込まれていきます。揺光も先人に倣ひて外套で自らを隠し、客人らの列の後ろへとつきました。
先刻より燻る蓮の匂香に混ぢり、脳をちりちりとしびれさせ、喉奥に張り付くやうな甘き香が漂ふております。その香は揺光の思案を鈍らせ、そのまぶたを閉ざさんと優しく撫でつけてまいります。あまりの香の強さに足元のおぼつかぬやうになり、揺光は一度ぎゅうと強く目を瞑りました。
目を開くと、いつの間にやら暗き店の内に足を踏み入れておりました。妙なることに、先刻まで列をなしていた客人らは煙のごとく消え去りて、店内に立つは揺光のみでありました。店の棚にはあまたの香が並び、各各の匂ひの絡み合ふた複雑な匂香が立ち込めております。その香に微かなる潮の匂ひの混ぢりて、空気自体にぬめりけのやうな肌の粟立ちたる悪寒が感ぜられ、心地良き香であるとは到底思へませぬ。ひやりとした土の床の上を、小さきとかげが一匹、朱き舌をちろちろと出しながら這ふております。このとかげからひそめかしき声の聞こゆる気がいたしますが、果たして真に聞きたる音であるか、香の惑はしたる幻聴であるやも定かにございませぬ。揺光はこうべを振りて霞を払ひ、目的たる星の香を求めんと、狭き視界の中で眼を巡らしました。そのとき、店奥の影からぼそぼそとくぐもりた声が聞こへました。
「汝、常世のものあらずや」
揺光はどきりとして面を上げました。影からぬうと出でしは大なる鬼でございました。香屋の店主と思しきこの鬼もまた外套を深くにかむり、顔貌がよく見へませぬ。揺光が如何に応ふるべきか判らず立ち尽くしておりますと、店主は再びぼそりとつぶやきました。
「応へずともよい。星の香、ひとつ五十加也」
揺光は羅刹天より拝借せし銭を店主に手渡し、包みを受け取りました。その間も、店主が見へぬ貌の奥から揺光をじいと見つめているのが感ぜられます。その目棲は、揺光の心地を悪くさせました。斯様に不気味なる場は一刻も早く離れとうございます。揺光が踵を返そうとした瞬間、店主が身を乗り出し、揺光の腕をぐいと掴みました。腕を掴みしその手は、煤のごとく黒きものでございました。このとき、揺光はその腕を振り解くことができませんでした。その腕にはなぜか覚へがございます。いつのことでございましょうか、黒き腕が己の腕を掴みて引かれ歩みた淡き光景が蜃気楼のごとく目裏を掠め、にはかに掻き消へます。ぼうと立ち尽くし動ぢぬ揺光の姿勢を隙と捉へ、店主は揺光を引き寄せささやきました。
「汝と我のみで話したきことあり」
店主の眼が闇の中できらりと光りました。金色をした、射抜くような光でした。揺光は我に返り、その眼を真直に見返しました。
「汝の手に退魔衆の紋認むるも、これを善く思はず。次に来たりし銀の刻、誰にも云はずして再び来られよ。これを守らるるならば、天部共の教へぬ語りを聞かせやうぞ」
揺光は止まりかかりた思案を動かし、応へました。
「紋なくして銀の刻歩くこと叶はず」
すると店主はにたりと笑みて、とかげのごとき細き舌先を覗かせました。
「なれば、銀の香授けん。この煙、魔衆の目を欺けり。さすれば汝、独りでここへ来られやう」
そう云ひて、店主は揺光の手中に灰色の塊を押し込めました。
二、誘惑
私が香屋を出ると、彼方にふたつの影が見えた。ひとつはすらりと長身で、もうひとつはそれよりもやや小ぶりな影。伊舎那天様と羅刹天様であられた。私が香屋に赴いている間、蓮の香漂う香屋には近づけぬものの、それでも私に危険のあらぬようにと待機しておられたのだ。彼らは私の姿を認むると小走りに近づいてこられた。
「あんちゃん、大丈夫か? なんだか目がぼうっとしているぜ。具合が悪いんじゃねえのか」
羅刹天様が私の面を心配そうに覗き込まれ、私の眼前にて二、三度手をひらひらと振りた。
「やはり、無理をさせるべきではなかったな。本当にすまな……」
「いえ、大丈夫です。何ともありません」
伊舎那天様の言葉を遮り、羅刹天様の手を退け私は口を開いた。
「この通り、件の香を手に入れてまいりましたから」
私は伊舎那天様の手に香を押し込めた。伊舎那天様は私と香とを見比べられると、にわかに眉根を寄せ、険しき貌で私を見据えた。おそらくは私の不躾な態度に気を害されたのであろう。しかし今の私は、あまり深くを考えることができずにいた。
「そうか、無事に手に入れてくれたのか。ありがとう…… それで、」
「すみません、気分が優れぬものですので、これで…… また後日、がれきの城に伺います」
私は無礼を承知でこうべを垂れ、彼らの面も見ず足早にその場を去りた。
あの不気味な香屋の煙に巻かれたせいであろうか、熱病に浮かされたるが如し思案の鈍りと気怠さが目裏と鼻奥で渦巻いているのを感ずる。何か私の内の善くなき面が喉の奥で膨らみ出でて吐き出され、足元に落ちたる影がぞわぞわと爪先から這い上がりてくるような得体の知れぬ震えが全身を駆け巡る。これが星の香の作用…… 魔衆に転ずるという感覚なのであろうか。慣れぬことをしたせいで気が昂りているのやもしれぬ。とにかく今は一刻も早く独りになりたい。
逃げるように戻りた王宮の門前で、ふと己が左手の甲の紋に気がついた。ああ、あの妖しげな香のせいであろうか。私は多聞天様に紋を返上するよう云われていたことをとうと忘れていた。踵を返そうとした時、視界の端に見慣れぬ影を捉えた。常々に出入りしている本殿の脇に、小さき離宮が霞みて見ゆる。よく見ようと目を凝らせば、それは霞と掻き消えた。なぜかどきりとして思わずこぶしを握り締めた時、手中の感触が私を呼び戻した。件の店主より授かりし灰の塊…… 銀の香である。
……あの香屋は、天部の教えぬことを教えると云うていた。この香があらば、非力な現人たる私であろうと、諸天部尊の御力を借りずとも銀の刻を出歩ける。このことは、この地にありて縋るべきもののあらぬ私にとりてたいそう魅力的に思えた。諸天部尊の御言葉を疑うてはおらぬも、天の語りしことのみが世の全てではあるまい。
しかし、銀の刻に出歩くことを閻魔天様は善しと思われておらぬ。おそらくは、私が諸天部尊以外の鬼共の言葉に惑わさるることも気に入らぬであろう。それに、これがあの香屋の仕掛けし何かの罠であろうは明白である。相手の誘惑に乗るなど言語道断であると、多聞天様も仰られていた……
……違う、これは誘惑などではない。私は己が使命のために赴くのだ。香屋の店主は私が常世の者でないとにわかに解した。彼しか知らぬ何かがあるのやもしれぬ。それに、私の腕を掴みし折に目裏を掠めた、覚えのない記憶…… その記憶は云いようのない不安で私を塗り潰す。この不安を拭うためには、自らで掴まねばならぬ何かがあるはずだ。その「何か」を知るは、おそらくあの香屋だ。行こう。今度は、ひとりで。
次の銀の刻、私はうち忍びて王宮を抜け出で、銀の香をくゆらし裏香屋を目指した。多聞天様の紋は金の刻のうちに返上した。今私が彷徨いしを知る者はひとりもおらぬ。この身を守りしは、手に持ちし銀の香のほそやかなる煙のみ。手のひらのじわりと汗ばむを感じつつ、香を取り落とさぬよう慎重に歩を進めた。
あいも変わらず裏香屋の前は神経を鈍す甘き香で満たされ、視界に霞がかかる。ふと気がつくと、私は再び薄暗く煙の渦巻く店内に足を踏み入れていた。
「約束通り、ひとりで来たな」
店主が私を見てにやりと笑う。過刻に違わずこんもりとした分厚き外套をかむりて、闇の中に金色の目と朱き舌のみが浮かんでいた。
「聞きたいことがあるのだろう」
店主は見透かすような口ぶりで私に尋ねた。
「星を降ろしている者を探しています。あなたならご存知かと思い、ここに来ました」
「……星か。星が落ちるのは星天がいないせいだ。お前ももう知っているだろ? あれは誰かが降ろしているわけじゃあねえ。勝手に落ちて来るんだよ」
こいつの話に呑まれてはいけない。私は気を張ると、店内に並びし香のひとつをつまみ上げ、店主の鼻先に突きつけた。
「それではこの香は如何にして作っているのです。この香は、星でできているのではないのですか。あなたが星を降ろして、この香を作っているのでしょう」
私が食いかかるも、店主は私の手を払いもせず、口を歪め、けらけらと笑うた。
「俺が星降ろしだと云いたいのか。ばかばかしいな。何の根拠があってそんなでたらめを云っている」
「この香が何でできているか調べればすぐに知れることです。だいたい、あなたの云うことこそ根拠など……」
「なあ、」
突然、店主がすばやく身を乗り出し私に寄りてささやきた。
「閻魔天はなぜお前に星天の不在を伝えなかったんだ」
店主の外套がわずかにずれて、その隙間から金色の巻毛がこぼれ落ちた。
「おかしいとは思わねえか、星天の見立てが失敗したことは俺みてえな地獄に暮らしている鬼ですら知っていることだぜ。もちろん天部はみんな知っている。隠すことなんかじゃあねえよ。それなのに閻魔天は、星天の存在をお前に隠しているようだな。そんな奴が云うことを、お前は信じるのか?」
……こいつは何の話をしているのだ? 私は斯様な話をするためにここに来たわけではない。
されど店主の云うように、星天様の不在と星の乱れとの相関を否定したのは閻魔天様のみである。私が星天様の存在を初めて知りしは、水天様を訪ねた折だ。閻魔天様は星の乱れについては口にするも、星天様の名を口にしたことはない。
けれどもそれは…… それは、どうしてだろう。
「俺は云ったよな? 天部どもがお前に云わないことを教えてやろうって。お前は約束通りひとりでここに来た。だから教えてやるよ。星天の見立てが失敗したのは、誰かが見立ての邪魔をしたからだ。これが証拠だ」
そう云いて店主は小さき黄金の輪を投げて寄越した。
「これは?」
「そいつは天の装身具だ」
店主は私が食いついたのを認むると、さも満足げに鼻を鳴らした。癪であるが、興味のそそらるる話であることに違いはない。
「天の見立てってのは、腕輪、足輪、耳飾りの三対の装身具を携えた天の器が天界へ赴き、天部の王たる帝釈天と梵天より、首飾りと天の名を授かることで成立する。ここにあるのは、星天が身につけるはずだった腕輪の片割れだ。星天が今も見立てられないのは、誰かが装身具を外し、星天の器を常世から追放したからだ」
でたらめな話だ。店主の話こそ、どこにそんな証拠があるというのだろう。
「それこそあなたの勝手な妄想ではないですか。その腕輪だって、本当に天の装身具なのですか。そもそも、天の見立てを阻む理由なんてないでしょう」
店主は冷ややかにせせら笑うた。私の意見など全く意に介さぬようだ。
「んなことは俺の知ったこっちゃねえ。問題は、現実にここに金の装身具があるってことだ。金の装身具が誰の身につけるもんかは、お前もわかってんだろ?」
店主の云わんとすることはじゅうぶんに察せられた。金の装身具は天部たる証。おいそれと手にできるものではない。ましてそれを外すなど、果たして冥土の鬼共にできることであろうか……
こいつは、天部が天部の見立てを阻んだと云いたいのだ。それが真だとすれば、なにゆえにそのような愚行を犯す必要があろうか。にわかには信じ難き話であるが、今目の前にある、私の手に載せられし小さき黄金の輪の存在も否定はできぬ。何も云わぬ私にしびれを切らせたか、店主が再び口を開いた。
「ま、俺の話を信じるかどうかはお前次第だ。だがな、閻魔天がお前に何かを隠しているのは事実だ、そうだろう」
それを云われると、私の心はわずかに傾きた。閻魔天様は私の質問に応えてくださらぬことが多い。話をしようにも、謁見の折以外は王宮内の何処にも姿が見えぬ。そして、過刻に見た蜃気楼の如し小さき離宮。あの場について、私は何一つ知らされておらぬ。店主は私が見せたわずかな傾きをめざとく捉えた。
「なあお前、俺と手を組まねえか。星天の装身具を揃えるんだ。装身具は、この腕輪と同じく冥界のあちこちに散らばっているんだ。装身具を揃えれば、おのずと星天となるべき器が現れると…… 俺はそう見ている。
なんせ俺はこの見た目だからな。あまりここいらをうろつくわけにはいかねえんだ。俺と組むなら、この腕輪を見つけた場所を教えてやるよ。他の装身具の場所にも、ある程度アテがついてんだ」
なんと怪しき話であろうか。しかしどうしてか、口が動かぬ。舌が重く張り付き言葉が紡げぬ。それは恐らく、こいつの燻らせし星の香のせいであろう。そうでなければ、斯様に得体の知れぬ輩の甘言にわずかでも心の傾くことなど、あろうはずがない……
「俺は何もお前を唆そうとしているわけじゃあねえよ。実はな、お前以外にも俺が星降ろしだって汚名を着せる奴がいるんだよ。迷惑な話だ。誰が何と云おうとな、俺のような夜叉ぽっちがこんだけ星をめちゃくちゃにできると思うか?
星天が見立てられれば、星の乱れも鎮まる。俺は晴れて無罪放免。お前は星天を見立ててめでたしめでたし。どうだ、いもしない星降ろしを探して回るより、ずっといい筋書きだと思わねえか」
確かに、星降ろしなる存在の有無に関わらず、また仮に星降ろしを見つけたところで、根源的な問題として星天様がおらねばいずれまた同じことが起こるだろう。星の安寧を求むるならば、まずは星を守りし天を見立てよと申す店主の主張は尤もである。
しかし、こいつの云うことを信じて良いものであろうか。果たして、星天様の不在が星を落としているのであろうか。
否、誰かが…… この店主が星を降ろしているのだ。目の前に並べられている星の香が動かぬ証拠だ。星天様の不在は確かに星の座を不安定にせしめているのであろう。されどもそのせいで星が落ちているわけではない。星は降ろさねば落ちぬ。それとこれとは、問題が別なのだ。こいつは自らの罪を装身具の話にすり替えようとしているのだ。惑わされてはならぬ。
「せっかくのお誘いですが、お断りします。僕は、あなたが星を降ろしているのだと思っています。確かに今あなたから伺ったお話は、天部様方から聞いたことのないものでした。閻魔天様が僕に何かを隠しているのも、うすうす感じていました。
それでも、閻魔天様は突然現れた僕のことを何も問わず迎うてくれました。僕のような他所者には話せぬことがあるのは当然のことでしょう。他の…… 四大の天部様方も、退魔衆の天部様方も、僕を信頼し、手を差し伸べてくださりました。僕を信じてくださる天部様方を裏切ってまで、あなたに協力することはできません。あなたの云う話を全て信じることも、今の話だけでは到底できません」
私が言い切ると、店主は演技でもするかのように大袈裟にため息をついた。
「そうかい、大変残念だね」
そうしてずれていた外套の中に溢れた巻き毛を仕舞い、もう一度深くかむり直した。
「お前はこっちについてくれると思ったから、腹を割って話したんだがな。 ……まあいいさ。この賭けは失敗だったってだけだ」
そう云うと店主は手をひらひらと振り、私に出ていくよう身振りで表した。私はわずかに拍子抜けし、遣りようを失いた目棲を手中の小さき輪に移した。
「その装身具はお前にやるよ。土産にしちゃあ上等だろ?」
店主が吐き棄てるように云うた。店主は既に私への興味の一切を失くしたようである。手近な香を引き寄せ、燻らした煙だけを見つめている。私など既にここにいないかのように。一体何のために私は彼に呼ばれたのであろう。彼はもとよりこの装身具を渡すつもりで私を呼びつけたのであろうか。
この装身具が天部のものであるとすれば、彼は一体何処にてこの腕輪を手に入れたのであろう。私はそう聞こうとした。されど声が出ぬ。決して怖気付きて声の出ぬわけではない。これまで何なく発せられていたはずの言葉が突然喉奥で掴まれ、無理矢理に腹の底へと引き戻されるように声が出ぬ。
何かがおかしい。されどその正体が掴めぬ。この店主が燻らす煙が私の言葉を障りたのであろうか。あるいは別の何かが……
過刻に退魔衆らと共に香屋を訪れた折に感じた熱病の如き悪寒が再び押し寄せてきていた。この店主には他にも聞きとうことのありしも、一度喉奥に引き込まれた声を再度絞り出すほどの気力はとうに尽きてしもうた。せめてこの不気味なる感覚に押し潰されぬよう、私は軽く咳払いをして誤魔化し、店を出ようと踵を返した。その私の背中で、店主がつぶやいた。
「忘れるなよ。閻魔天はお前に何かを隠している」
香屋を後にした私の影に、店主の言葉が滲みて溶けゆく。闇色の空に、瑠璃色の蝶が舞うていた。それは微かな光を散らしながらふらふらと闇に溶け、掻き消えた。
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