最終話 陽だまりの食卓と、遥か彼方に消えた灰色の記憶
都心の高層オフィスビルの最上階。
全面ガラス張りの社長室から見下ろす東京の街並みは、まるで宝石箱をひっくり返したように輝いていた。
眼下を行き交う無数の車のヘッドライト、ビルの窓から漏れる生活の灯り。
かつて、この街の底で泥水を啜るように生きていた俺、湊遥輝(みなと はるき)は、今、この景色を見下ろす場所に立っている。
「遥輝、そろそろ出る時間よ」
背後から、柔らかく落ち着いた声が掛かった。
振り返ると、そこには妻の玲奈(れいな)が立っていた。
彼女は、俺が立ち上げたIT企業「ミナト・ソリューションズ」の共同創業者であり、公私ともに俺を支えてくれているパートナーだ。知的で凛とした美しさを持ちながら、その瞳には深い慈愛が宿っている。
そして、彼女の腕の中には、まだ一歳になったばかりの娘、愛理(あいり)が眠っていた。
「ああ、分かってる。準備はできてるよ」
俺はデスクの上のタブレットを閉じ、ジャケットを羽織った。
今日は特別な日だ。
久しぶりの休日を利用して、俺たちは両親が住む地方の街へ帰省することになっていた。
俺が復讐を終え、この街を出てから数年が経つ。
ビジネスを軌道に乗せることに必死で、なかなか顔を見せられずにいた。
電話やビデオ通話では話していたが、玲奈と愛理を直接会わせるのは今日が初めてだ。
「お義父さんとお義母さん、驚くかしら」
「驚くさ。孫の顔を見たら、きっと泣いて喜ぶよ」
俺は玲奈の腰に手を回し、愛理の頬を指で優しく突っついた。
温かい。
この温もりを守るためなら、俺は何だってできる。
かつて復讐のために燃やしたあのどす黒い情熱とは違う、静かで力強い決意が胸に満ちているのを感じた。
地下駐車場に停めてある愛車、ドイツ製のSUVに乗り込む。
重厚なドアが閉まり、静寂が車内を満たす。
エンジンをかけ、俺たちは首都高へと滑り出した。
車窓を流れる景色を見ながら、俺はふと過去を思い出した。
冤罪で学園を追われ、絶望の中で復讐を誓ったあの日々。
西園寺蓮(さいおんじ れん)への憎悪、一ノ瀬沙織(いちのせ さおり)への未練と失望、裏切った友人たちへの怒り。
それらはかつて、俺の生きる原動力そのものだった。
だが今、それらの感情は、驚くほど色褪せていた。
まるで、遠い昔に見た映画のワンシーンのように、現実味がなく、感情を揺さぶられることもない。
「どうしたの? 難しい顔して」
助手席の玲奈が心配そうに覗き込んでくる。
「いや、なんでもない。……昔のことを、少し思い出していただけだ」
「昔のこと?」
「ああ。……本当に、随分と遠くへ来たなって」
俺はハンドルを握る手に力を込めた。
物理的な距離だけではない。
俺は、あの「灰色の青春」から、遥か彼方まで歩いてきたのだ。
あれから五年以上の月日が流れていた。
高速道路を降り、国道を走る。
このルートを通ると、かつて俺たちが住んでいた街の近くを通ることになる。
意図したわけではないが、ナビが示した最短ルートがそこだった。
開発が進み、新しい商業施設が建ち並んでいるが、どこか見覚えのある風景が広がる。
信号待ちで車が止まった。
ふと、道路脇の工事現場に目が留まった。
寒空の下、薄汚れた作業着を着た男たちが、誘導棒を振ったり、重い資材を運んだりしている。
その中に、一人の男がいた。
猫背で、ひどく痩せこけている。髪は薄く、無精髭が顔を覆い、目は死んだ魚のように濁っている。
現場監督らしき若い男に怒鳴られ、ペコペコと頭を下げている姿。
「……西園寺、か」
俺は小さく呟いた。
間違いない。あれは西園寺蓮だ。
かつて「王」として君臨し、俺を見下していた男。
親の金と権力を笠に着て、他人の人生をゲーム感覚で壊していた男。
その成れの果てが、あれだ。
今の彼は、俺の車など見る余裕もない。日々の糧を得るために、泥にまみれて這いつくばっている。
「知り合い?」
玲奈が視線の先を追う。
「いや……ただの『他人』だ」
俺はアクセルを踏んだ。
信号が青に変わり、車は滑らかに加速する。
蓮の姿がバックミラーの中で小さくなり、やがて消えた。
胸に去来したのは、憎しみでも、憐れみでもなかった。
ただの「無関心」。
道端の石ころを見るのと同じ感覚。
ああ、俺の復讐は本当に終わったんだな。そう実感した。
彼がどう生きようと、どう野垂れ死のうと、俺の人生には1ミリも影響しない。
それが、俺が出した「答え」だった。
さらに車を走らせると、寂れた商店街の横を通り過ぎた。
シャッター街と化したその一角にある、安売りスーパーの前。
大きなレジ袋を両手に持ち、トボトボと歩く女性の姿があった。
髪はボサボサで、季節外れの薄いコートを着ている。
背中を丸め、地面ばかりを見て歩くその姿は、実年齢より十年以上老けて見えた。
一ノ瀬沙織。
一瞬、目が合った気がした。
彼女が顔を上げ、俺の車を見た。
高級車に乗る人物を、羨望と嫉妬の入り混じった目で見上げる、見知らぬ通行人の目。
彼女は気づかなかっただろう。
ハンドルを握っているのが、かつて彼女が裏切り、捨てた幼馴染であることに。
彼女の顔には、深い疲労と生活苦が刻まれていた。
かつての「学園のアイドル」の面影は、風化して消え失せている。
彼女もまた、自らの選択の結果として、その場所に留まり続けているのだ。
俺が手を差し伸べることもないし、声をかけることもない。
彼女は彼女の地獄で、俺は俺の天国で。
二つの世界線は、もう二度と交わることはない。
「……さようなら」
俺は心の中で別れを告げた。
それは過去の幻影への決別であり、自分自身への最後の肯定でもあった。
街を抜け、さらに一時間ほど走ると、景色は穏やかな田園風景へと変わった。
両親が移り住んだ新しい街だ。
復讐を終えた後、俺が送った資金で、両親はこの静かな土地に家を建てていた。
ナビに従って、小高い丘の上にある一軒家を目指す。
白い壁に、オレンジ色の屋根。
庭には手入れされた花壇があり、季節の花が咲いている。
車を停めると、玄関のドアが勢いよく開いた。
「遥輝!」
「まぁ、遥輝!」
父さんと母さんが飛び出してきた。
二人とも、以前より少し白髪が増え、皺も増えたが、顔色は良く、表情は明るい。
あの事件の直後、世間からのバッシングに耐え、小さくなっていた頃の悲壮感は微塵もない。
「父さん、母さん。ただいま。……随分とご無沙汰してしまったね」
俺は車を降り、二人に歩み寄った。
父さんは俺の肩を強く叩き、母さんは俺の手を握りしめて涙ぐんでいる。
「よく帰ってきたな。立派になって……テレビで見たぞ、社長さんなんだってな」
「元気そうでよかったわ。本当に……待ってたのよ」
「紹介するよ。妻の玲奈と、娘の愛理だ」
俺が後部座席のドアを開けると、玲奈が愛理を抱いて降りてきた。
「初めまして。玲奈です」
「あ……あぅ……」
愛理が眠そうに目をこすりながら、不思議そうに祖父母を見つめる。
その瞬間、父さんと母さんの顔が、くしゃくしゃに崩れた。
「あぁ……なんて可愛い……」
「初めまして、玲奈さん。愛理ちゃん。よく来てくれましたね」
母さんは玲奈の手を取り、涙を流して喜んだ。
父さんも目を細め、愛理の小さな手に指を添えている。
「俺にも、孫ができたか……。長生きはするもんだな」
その光景を見て、俺の目頭も熱くなった。
あの日、俺はこの両親に「忘れてくれ」と言って家を出た。
迷惑をかけたくなかった。俺という存在が、彼らの重荷になると思っていた。
復讐を終えた後も、俺は自分の手が汚れている気がして、なかなか会いに来れなかった。
ただ金を送り、遠くから見守ることしかできなかった。
けれど、彼らは俺を待ち続けてくれた。
俺が戻る場所を守り続けてくれた。
「さあ、入って。ご飯できてるわよ。遥輝の好きなハンバーグ」
母さんが嬉しそうに言う。
「ありがとう。懐かしいな」
家の中は、木の香りと、美味しそうな匂いで満たされていた。
リビングには、俺が子供の頃の写真や、会社の設立時に送った写真が大切に飾られていた。
そして、その横には、かつて俺が冤罪で苦しんでいた時に、父さんが必死に集めてくれたであろう無実を証明するためのメモや資料が、ファイルに閉じられて置かれていた。
彼らは、どんな時も俺を信じ、戦おうとしてくれていたのだ。
食卓を囲む。
大皿に盛られたハンバーグ、ポテトサラダ、温かいスープ。
豪華ではないけれど、世界で一番贅沢な食事だ。
父さんがビールを開ける。
「遥輝の成功と、新しい家族に。乾杯」
「乾杯」
グラスが触れ合う音が、心地よく響く。
話題は尽きなかった。
会社の苦労話、愛理の成長、玲奈との馴れ初め。
両親は何度も頷き、笑い、そして時折涙を拭いながら聞いてくれた。
「そういえば……」
父さんが少し声を落として言った。
「前の街の噂を風の便りで聞いたんだがな。あの一ノ瀬家……一家離散したらしいぞ」
「えっ……」
「父親はアル中で体を壊して入院、母親は過労で倒れ、娘の沙織ちゃんは……行方知れずだそうだ。借金取りに追われて夜逃げしたって話もある」
父さんは俺の顔色を窺うように見た。
「……そうか」
俺は一口、ビールを飲んだ。
「因果応報、だな」
それ以上の言葉は出なかった。
かつて家族ぐるみで付き合い、俺を見捨てた隣人たち。
彼らの末路を聞いても、胸が痛むことはなかった。
彼らは自分たちが撒いた種を刈り取っただけだ。
「もう、あっちの話はやめよう。せっかくの食事が不味くなる」
「そうだな。悪かった」
父さんは明るく笑い飛ばし、愛理にイチゴを食べさせ始めた。
夜。
愛理を寝かしつけた後、俺は一人で庭に出た。
空には満天の星が輝いている。
都会の空では見えない、無数の光。
冷たい風が頬を撫でるが、不思議と寒くはない。
背後から、母さんがショールを持ってきてくれた。
「風邪ひくわよ」
「ありがとう」
俺たちは並んで星を見上げた。
「遥輝」
「ん?」
「幸せかい?」
母さんの問いかけは、シンプルで、そして深い愛に満ちていた。
俺は大きく息を吸い込み、夜空に向かって答えた。
「ああ。幸せだよ」
嘘偽りのない本心だった。
かつて全てを奪われ、どん底まで落ちた。
復讐という修羅の道を歩き、手を汚し、心を殺した時期もあった。
けれど、その先に待っていたのは、この穏やかで温かい時間だった。
俺は自分の力で、失ったもの以上の幸福を掴み取ったのだ。
「よかった……。本当によかった」
母さんは俺の背中に顔を埋め、声を殺して泣いた。
「ごめんね、辛い思いをさせて。守ってあげられなくて」
「謝らないでくれよ、母さん。俺は、父さんと母さんの子供でよかったと思ってる。二人が信じてくれたから、俺は腐らずにいられたんだ」
俺は母さんの肩を抱いた。
小さくて、温かい母の体。
これを守るために、俺は戦ったのだ。
そして、これからは玲奈と愛理も守っていく。
俺の背負うものは増えたが、その重みこそが、俺が生きている証だ。
「さあ、戻ろう。明日も早いし」
「そうね。……あ、そうだ。明日の朝ごはんは何がいい?」
「味噌汁がいいな。母さんの作った、ナスの味噌汁」
「ふふ、子供の頃から変わらないわね」
リビングに戻ると、玲奈と父さんが談笑していた。
俺と母さんが入ってくると、二人がこちらを見て微笑む。
その光景は、一枚の絵画のように完璧で、美しいものだった。
俺は心の中で、過去の自分に語りかけた。
『おい、泣いている昔の俺。聞こえるか?』
『お前は今、地獄の底にいると思っているかもしれない』
『世界中が敵に見えて、明日が来るのが怖いかもしれない』
『でも、諦めるな。顔を上げろ』
『お前の未来には、こんなにも素晴らしい景色が待っているんだ』
俺は玲奈の隣に座り、彼女の手を握った。
彼女が握り返してくる。
その強さが、俺を「今」という時間に繋ぎ止めてくれる。
窓の外では、夜明けが近づいていた。
東の空が白み始め、新しい一日が始まろうとしている。
過去の闇は、朝日に溶けて消えていく。
俺の物語の「復讐編」は終わりを告げ、これからは「幸福編」が続いていくのだ。
どこまでも続く、光に満ちた道を、俺たちは歩いていく。
「さて、愛理が起きる前に、コーヒーでも淹れようか」
「私が淹れるわ。遥輝は座ってて」
コーヒーの香りが部屋に広がる。
それは、勝利と安息の香りだった。
俺は深く息を吸い込み、そして、静かに笑った。
ざまぁみろ、とはもう思わない。
ただ、ありがとう。
俺を強くしてくれた、全ての運命に。
偽りの断罪で全てを奪われた僕は、復讐の鬼となり偽善者たちの楽園を焼き払う @flameflame
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