第5話 金曜日

 金曜日。

 朝、目を覚ます前から、世界が深い水の底に沈んでいるのが分かった。


 窓ガラスを叩く雨音 あまおとは、もはやリズムを失い、執拗なまでの圧力となって部屋の静寂を侵食している。

 

 予報通りの豪雨。


 一週間のおりをすべて押し流そうとするかのような、暴力的なまでの雨脚 あまあしだった。


 登校中のバスの車内は、湿った傘の匂いと、乗客たちの重苦しい沈黙が充満していた。


 僕は窓の外を流れる、彩度を失った街並みを眺めながら、右手のひらを何度も握り締める。


 昨日の放課後、ノートの端で触れ合った水野さんの指先の熱が、まだそこに残っているような気がした。


 ……今日が終われば、明日は土曜日だ。

 

 その事実が、僕の胸を締め付ける。

 期待と、それ以上に深い不安。


 日常という名のおりから踏み出してしまうことへの、本能的な恐怖。


 教室に入ると、水野さんはすでに自分の席に座っていた。

 

「……おはよう」


 彼女の声は、雨音に紛れて、驚くほど近くで響いた。


 水野さんは僕の方を向かず、ただ濡れた自分の髪を指先でいじっている。

 

「おはよう、水野さん」


 昨日までと同じ、代わり映えのしない挨拶。

 けれど、僕たちの間にある空気の気圧は、周囲とは明らかに違っていた。


 彼女が動くたびに、濃密な石鹸の匂いが、雨の湿り気を伴って僕の鼻腔を撫でる。

 

 午前中の授業。

 窓を打つ雨は勢いを増し、校舎全体が巨大な楽器のように鳴動 めいどうしていた。


 水野さんは友人たちとの会話もどこか上の空で、時折、机の下で自分の指を強く握り込んでいるのが分かった。

 

 僕も、彼女も。

 もう、これ以上「普通」を演じ続けることは限界だった。



 土曜日を待たずして、僕たちの中の何かが、今にも爆ぜてしまいそうだった。


 

 そして、放課後。


 世界は、やはり、厚い雨雲の下で深く沈み込んでいた。


 降り続く雨が、校舎の輪郭りんかく曖昧あいまいに溶かしていく。


 無人の教室。

 掃除も終わり、部活動の声さえも雨音に遮断された、完璧な空白くうはく


 僕と水野さんは、数センチの隙間すきまを空けたまま、隣り合って座っていた。


 どちらも帰ろうとはせず、ただ、暮れなずむ雨の景色を眺めている。


「……ねえ」


 水野さんが、机の上に伏せたまま、僕の方へ顔を向ける。

 

 湿り気を帯びた空気が、彼女の吐息をより甘く、より重く運んでくる。


 伏せられた睫毛まつげが震えるたびに、僕の胸の奥では、やり場のない独占欲が火花を散らした。


 彼女を、僕だけのものにしたい。

 あの日見た鼻歌も、その震える指先も、この雨の匂いも。



 誰にも、一滴だって分かち合いたくない。

 僕のそんなドロドロとした自意識を、彼女は見透かしているのだろうか。


 僕の自意識が、醜くのたうち回る。


 彼女を汚したいのか、それとも僕自身が彼女の色に染まりたいのか。


 その境界線さえ、雨の雫に濡れて混濁していく。


 水野さんは、僕のシャツのそでを、指先で小さく、けれど逃がさないように強くつかんだ。



「……あの日。傘、貸してくれた時。……本当は、すごく、嬉しかったんだよ」


 彼女の唇が、震えている。


 そのひとみには、雨粒を反射した光が、あふれんばかりにまっていた。



 彼女が僕を見る。

 逃げ場のない、真っ直ぐで、純粋すぎる眼差し。


 その瞬間、僕の中の何かが、音を立てて決壊した。


「……つむぎ、さん」



 震える声で、初めて呼んだ彼女の名前。

 反射的に口をいた「さん」という敬称が、僕たちの間に残された、最後の一線だった。


 その一線が、僕たちのプライドであり、同時に、これ以上近づけば戻れなくなるという警笛 けいてきでもあった。


 その響きが、二人だけの教室に波紋はもんのように広がっていく。


 僕は、彼女の肩に手を伸ばしかけて――

 けれど、その指先は空中で行き場を失い、固まった。



 このまま彼女を抱き寄せてしまえば、この一週間、僕たちが大切に育ててきた「秘密の共犯者」は、ただの、ありふれた恋物語へとちてしまう。


 僕が求めているのは、そんな明確な救いではない。

 

 僕はただ、彼女の冷たくなった指先を、壊れ物を扱うように、指一本分だけ重ねた。

 

 水野さんが、びくりと肩を揺らす。

 けれど、彼女は逃げなかった。

 

 窓の外で、大きな稲光いなびかりが走る。


 一瞬だけ、教室が昼間のような輝きに満たされた。



 その白光の中で、僕たちは互いの剥き出しの欠落を、鏡を見るようにして見つめ合った。

 

 重なり合うことも、救い合うこともできない。



 ただ、この嵐のような感情を共有しているという、あまりにもろい共犯関係。

 

「……続きは、明日」

 

 水野さんが、かすれた声で僕を拒絶するように、あるいはもっと深く誘うように、そうささやいた。

 

 彼女の手が、僕の袖から離れる。


 一気に体温が奪われ、代わりに濃密な石鹸の残香ざんこうだけが僕の周りに取り残された。


 

 美しすぎる瞬間は、いつも、終わりの始まりを連れてくる。


 

「……帰ろうか」

 


 僕の言葉に、水野さんは小さく、ただ一度だけうなずいた。

 

 椅子を引く音。かばんを肩にかける音。



 いつもの「普通」の動作が、今はどこか、祭りの後のような寂しさを伴って響く。

 

 教室の扉を閉める時、僕は一度だけ、誰もいなくなった空間を振り返った。


 そこにはもう、光の欠片かけらも、彼女の鼻歌も残っていない。


 雨は、もう止んでいた。

 

 けれど、僕たちの心の中の豪雨は、土曜日の駅裏に辿り着くまで、決して止むことはないのだと、僕は確信していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る