第3話 水曜日

 水曜日。

 降り続く雨は、世界から色を奪うだけでは飽き足らず、音さえも塗り潰そうとしていた。


 アスファルトを叩く硬い音。

 屋根を撫でる湿った響き。

 すべてが重なり合い、教室という箱舟を包囲している。


「……おはよう」


 朝の教室。

 自分の席に座ると同時に、隣から声がした。


 水野さんは、昨日のあの「無防備なうさぎ」の姿など微塵みじんも感じさせない、いつも通りの友好的な笑顔を浮かべている。


 けれど、その目が僕を捉えた瞬間、ほんの一瞬だけ、瞳の奥が揺れた。


 それはクラスの誰にも気づかれない、僕たちだけが解読できる密かな符号。


「おはよう、水野さん」


 僕はあえて、昨日までと同じ「壁」のある呼び方を維持する。


 その壁の向こう側で、彼女の秘密を飼い慣らしているという事実が、僕の喉の奥を熱くさせた。


 彼女は僕の反応を楽しむように、自分の机に頬杖をつき、教科書で顔の半分を隠しながら小声でささやいた。


「ねえ。……昨日のは、本当に内緒だよ?」


 その声は、雨音に紛れて、僕の耳にだけ届く。


 他の男子生徒たちが騒がしくしている中、僕と彼女の間だけに、真空のような静寂が生まれる。


 僕は彼女を見ずに、ただ自分のノートを広げた。


「……分かってるって」


 そのぶっきらぼうな一言に、彼女は満足そうに目を細めて笑った。



 窓を打つ雨脚が、さらに強まる。

 この匂いを嗅ぐたびに、僕は一ヶ月前のあの日を思い出さずにはいられない。


 やはり今日と同じように、予報外れの雨が降っていた。


 放課後の昇降口。

 ビニール傘の群れの中で、水野さんは立ち尽くしていた。


 誰かを待っているのか、それともただ途方に暮れているのか。


 濡れた地面を反射する街灯の光が、彼女の横顔を寂しげに縁取っていた。


 僕は、その姿を校舎の陰から見つめていた。

 心臓が口から飛び出しそうなほど激しく打ち鳴らされ、てのひらには嫌な汗がにじんでいた。


 声をかけるべきか、それともこのまま素通りすべきか。


 僕の中の臆病な自意識が、必死にブレーキをかける。


 変に思われるぞ、嫌がられるかもしれないぞ。と僕の中で思考が巡る。


 けれど、それ以上に強い執着が、僕の背中を無理やり押し出した。


「……これ。使いなよ」


 僕は、自分の予備の折り畳み傘を、彼女の前に突き出した。


 顔は、見られなかった。

 見たら、自分の「下心」がすべて暴かれてしまうような気がしたからだ。


「えっ……でも、君は?」


「……僕は、置き傘あるから。ついでだよ」


 嘘だった。

 僕はその日、ずぶ濡れになって駅まで走り、熱を出して寝込むことになった。


 けれど、あの日彼女が僕の傘を受け取り、僕の名前を初めて呼んでくれた瞬間の、あの衝撃に比べれば、高熱なんて安いものだった。


 僕は自分の「優しさ」を売って、彼女の記憶の中の空欄に、無理やり自分の名前を書き込んだんだ。


 現在に戻る。

 昼休み、図書室の片隅。

 雨音のせいか、利用者はほとんどいない。

 僕は一番奥の、誰の視線も届かないテーブルに座っていた。

 

「……ねえ、何聴いてるの?」


 水野さんが、僕の耳から垂れ下がったイヤホンのコードを指先で弾いた。


 彼女の指が、僕の鎖骨のあたりに触れ、石鹸の香りがふわりと爆ぜる。


「……別に。水野さんの知らないような、古い曲だよ」


 急に話しかけられて、少し冷たかっただろうか。変な態度を取ってしまった。


「ひどい。教えてよ」


 彼女は僕の顔を覗き込み、潤んだ瞳で僕を追い詰めてくる。


 その視線から逃げるように、僕はイヤホンの片方を外し、無言で彼女に差し出した。


 水野さんは少しだけ目を見開いた後、嬉しそうに微笑んで、僕の隣に椅子を寄せた。


 肩と肩が触れ合う。

 上履きを脱いだ彼女の足先が、机の下で、僕の足にほんの一瞬だけ触れた。


 イヤホンから流れる、歪んだギターの音と、疾走するリズム。


 僕たちは、一つの音楽の中に閉じ込められる。


「……この曲、好きかも」


 彼女のささやきは、音楽よりも鮮明に、僕の鼓動を跳ねさせた。


 水野さんは、僕の耳から繋がったコードを指先でいじりながら、いたずらっぽく小首を傾げる。


「ねえ、他にもこういうの持ってるの?」


「……あるけど。水野さんの好みじゃないと思ってた」


「ひどいなあ。私をなんだと思ってるの?」


 彼女はむくれて見せたが、その肩はまだ僕に触れたままだ。

 

「あ。ねえ、駅の裏にある、あの古い店知ってる? 看板に大きな円盤がついてる……」


「レコード屋、だろ。……知ってるけど、入ったことはないな」


「だよね。私も。あんな大きなの、今時どうやって聴くのかもよく知らないし」


水野さんは少しだけ声を潜め、秘密を打ち明けるように僕の耳元に顔を寄せた。

 

 至近距離で、彼女のまつ毛が小刻みに震えるのが見えた。


 湿った空気のせいか、彼女の瞳はいつもより潤んでいて、僕の居心地の悪い沈黙を、じっと、楽しむように覗き込んでくる。


 彼女が動くたびに、石鹸の匂いと、図書室の古い紙の匂いが混ざり合い、僕の理性をじわじわと削り取っていく。


「でも、なんだか気になるじゃない? あの中には、今の私たちが知らないような、もっと自由な音楽が入ってる気がして。……ねえ、君は、レコードとか聴けるの?」


 唐突な問いに、僕は言葉に詰まる。

 

「いや。プレイヤーなんて持ってない。……親父の代の遺物だろ、あんなの」


「だよね! 私も。再生する機械なんてどこにあるかもわからない」


 水野さんは声を弾ませて笑うと、ふっと少しだけ身体を引き、いたずらが成功した子供のような顔で僕を見た。


 その表情は、クラスで見せる優等生的な愛想とは明らかに違う。


 僕という「共犯者」を前にした時にだけ漏れ出す、完璧な日常の綻び。

 

「……でも、だからこそ、二人で入ってみたいの。中身がわからないまま、ジャケ買いっていうの? そういうの、やってみたくない?」


 二人で。


 その響きが、図書室の静寂の中で、不自然なほど大きく僕の脳内で反響した。

 

 彼女が僕を見つめる視線には、期待と、それからほんの少しの不安が混じっている。


 その瞳の揺れを独占しているという優越感が、僕の警戒心をゆっくりと溶かしていく。


 彼女が差し出しているのは、再生する手段すら持たない、ただの『気になる古い店』への探検の切符だ。


 けれど、それは純粋に僕と彼女の時間を繋ぎ止めるための、あまりにもろく魅力的な口実だった。

 

「……いいよ。暇なら」


 努めて冷静を装って絞り出したその言葉が、僕の精一杯の「承諾」だった。


 水野さんは、僕のその無愛想な返事の裏にある動揺を見抜いているのか、それとも気づかないふりをしているのか。


「やった。……じゃあ、約束ね」


 彼女はそう言って、僕の腕を小さく、一度だけ叩いた。



 放課後。

 駅へ続く坂道。それぞれの傘が重なりそうで重ならない、絶妙な距離。


「あの店、今度の土曜日に行かない?」


 アスファルトを叩く雨音に混じって、水野さんが切り出した。

 

「……土曜日?」


「うん。……内緒の、お礼。昨日、あんなところ見られちゃったし、口止め料ってことで」



 彼女は、傘の縁からしたたしずくを避けるように、僕の方へと一歩寄った。


 僕の差す傘の骨と、彼女の傘の骨が、カチリと乾いた音を立てて触れ合う。

 

「いいよ。……十一時に、駅の改札前で」


「決まり。ふふ、楽しみだな。レコードなんて、触ったこともないから、ちょっと緊張しちゃうかも」


 水野さんは、雨に濡れた歩道の段差を、軽やかなステップで飛び越えた。


 その仕草は、やっぱりあの放課後の『うさぎ』を思い出させる。

 



 僕は、自分の右手に残る傘の重みを噛み締めていた。


 

 優しさ。善意。そんなものは、ただの入り口でしかなかった。


 僕は今、彼女の日常という名の綺麗な包装紙を、一枚ずつ剥ぎ取っている。


 再生できないレコードを買おうとしている彼女の、その無謀な好奇心ごと自分のものにしたい。

 

 駅へ続く坂道の下、水溜りに反射する街灯の光が、彼女の横顔を鮮やかに、そして残酷なほど美しく照らし出していた。

 

 積み上げてきたエゴが、ついに「約束」という形を成した。


 土曜日。


 雨の降らない世界で、僕は彼女のどんな完璧な日常の綻びを見つけることになるのだろう。

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