襲来編11.門
二十五層は、別の世界だった。
階段を降り切った瞬間、それが分かった。熱の質が変わった。今まで体の外から来ていた熱が、今は内側へ向かって押し込んでくる。肺が一回り縮んだような感覚があり、呼吸するたびに焦げた空気が喉の奥を焼いた。
広間は異様に広かった。天井は闇に溶けて見えない。壁は遠く、床は一面が焦げ落ちている。火は見えない。燃えていない。それでも燃え尽きた痕跡だけが支配していた。歩くたびに足元の焦土が粉になり、その崩れる音すら熱で歪んで聞こえた。
中央に、門があった。
巨大な二枚扉。互いに噛み合うことを拒み、ずれたまま、鎖によって無理やり引き寄せられている。鎖は一本や二本ではない。十重二十重にも重なり、床に突き刺さり、壁を貫き、空間を縫い止めるように張り巡らされている。扉の表面には彫刻とも傷ともつかない凹凸が無数に走り、苦しみに満ちた顔や焼け爛れた身体が、見るものを恐怖に陥れるように刻まれていた。
「……一切の希望を捨てよ、か」
声に出したのは、確かめるためではなかった。
ここが終点だということは、一目で分かった。アルバスが言っていた通りだ。ここを閉じれば、門の歪みが直る。霊たちは審判を受けられる。怪物は溢れ出さない。
レイアは門へ向かった。
一歩ずつ、熱が増した。皮膚が乾いていく感覚がある。二十四層までの疲労が、足の奥に積み重なっている。それでも足は動いた。
門まであと数歩というところで、鎖が鳴った。
低く、腹の奥に響く金属音だった。警告ではなく、反応だった。生きているかのように、門がレイアを感知した。
扉の隙間が、わずかに開いた。
赤黒い焔が滲み出た。
光はない。ただ圧だけがあった。床が融け、空気が歪み、熱が形を持って押し出してくる。視界が揺れ、平衡感覚が崩れた。
声が来た。
耳からではない。頭の中に直接、ざらついた音が流れ込んでくる。脳をヤスリで擦られるような、ノイズに塗れた声だ。
——匂う。感じる。ここだ。あいつの魂が、ここにある。
意思だけが、暴力的に流れ込んでくる。
「……獄門龍」
短く吐き出し、レイアは走った。
門に触れた瞬間、熱が爆ぜた。
皮膚が裂け、肉が焼け、骨が軋んだ。手を離したかった。離せなかった。離したら終わりだと分かっていた。体が知っていた。
押した。
押し返そうとした。
しかし門の内側からの力は圧倒的だった。腕が震える。関節が悲鳴を上げる。門は微動だにしない。それどころか、こちらを押し戻そうとする力が増している。
鎖が一本、弾けた。
床を抉って転がった。次の瞬間、そこから焔が噴き出した。腕に絡みつき、皮膚を焼いた。再生が走る。また焼かれる。再生する。また焼かれる。そのループが止まらない。
「……っ」
声にならなかった。
血管が浮き上がった。次の瞬間、ブチブチと音を立ててはじけた。血が噴き出した。視界が赤く染まった。それでも手は離れなかった。
胸の奥で、何かが音を立てた。
感情ではなかった。枷が外れるような音だった。ここで終わるわけがない——という、理屈ではない確信だった。
両腕に異変が走った。
筋肉が張り、皮膚の内側から何かが盛り上がってくる。裂けるような痛みとともに、表層が変質し始めた。爪が尖り、腕に黒い鱗が湧き出すように現れ、淡い桃色の脈がその縁を走った。
熱の感覚が変わった。
焔が侵食するのではなく、圧縮され、抑え込まれる感覚になった。
レイアは自分の腕を一瞬だけ見た。
「……龍化」
教えられたことはない。意図したこともない。ただ体が、今この瞬間に必要なものを勝手に選んだ。そんな気がした。
黒と桃色の腕が門の縁にめり込んだ。爪が鎖を噛み、金属が悲鳴を上げた。焔が腕に絡みついてくるが、鱗がそれを弾く。完全な龍化ではない。体はまだ焼ける。それでも、さっきより確かに耐えられる。
「……今しかない」
歯を食いしばり、全身の力を叩き込んだ。
門の内側からの力が、一瞬だけ乱れた。
その隙に体重ごと押した。鎖が悲鳴を上げた。床に縫い止められた錨が引きずられた。門がゆっくりと、ほんのわずかに動き始めた。
そこで最後の抵抗が来た。
赤黒い焔が、爆発するように噴き上がった。
閉じかけの隙間から、逃げ場がなかった。右胸から肩、背中へ。熱が流れるのではなく、体に刻まれるように入ってきた。皮膚が焼け落ち、再生し、また焼けた。何度も、何度も。
意識が千切れそうになった。
腕の鱗が砕けた。脚が崩れた。再生しては壊れた。
それでも、押し続けた。
桃色の脈が明滅を繰り返し、光量を上げていく。押し返す力が、少しずつ上回り始める。
重い音とともに、門が噛み合った。
鎖が沈黙した。焔が引き戻された。
——まだだ。終わらぬ。必ず……探し出す。
その声を最後に、気配が引いた。
レイアは、その場に崩れ落ちた。
呼吸ができなかった。胸が焼けて、痛みだけが残っている。震える手で右胸に触れると、感触が違った。
右胸から肩、背中にかけて。
消えない純黒の焔の痕が、刺青のように刻まれていた。
龍の腕が、ゆっくりと人の形へ戻っていく。完全ではない。痺れと熱が残り、違和感が消えない。
門は沈黙していた。
焦土の広間に、重い静寂が降りた。
「……偶然、かな」
掠れた声で呟いた。
偶然ではないと分かっていた。でも他に言葉が出なかった。体が限界だった。思考がまとまらない。
本体が完全に顕現したわけでもないのに、あの圧力だった。
これが獄門龍。
間違いなく、この世界の上澄みにいる怪物だ。
それを理解した上で、レイアは地面に倒れ伏した。
意識が途切れる前に、一つだけ確かめた。
手の感触があった。
指が床の石を掴んでいた。
それだけで充分だった。
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