第8話 女王の山
一度目に帰ってきた時は、何も変わっていなかった。
蜀の丞相は甘い男だ、次は必ず勝つ、そう言って笑っていた。二度目は、少しだけ違った。白い茶のことを話した。三度目は紅い茶の包みを持ち帰った。
四度目に帰ってきた
焚き火の前で、膝に手を置いて、じっと炎を見つめていた。手には黒い茶の包みを握っている。何かを深く考え込んでいる。
「あの男は」
長い沈黙の後で、孟獲がぽつりと言った。
その先を、言わなかった。
祝融は焚き火の前に一人残された。湧いてきたのは怒りではなかった。不安だった。夫の目が、変わっていた。戦で負けた目ではない。もっと奥深い場所で、何かがぐらついている目だった。
翌朝、祝融は孟獲の前に立った。
「私がいく」
「お前の目が曇っていないか、この目で確かめる。蜀の丞相が何者なのか、私が見てくる」
「祝融」
「四度負けた男の目は当てにならない。五度目は私がいく」
孟獲は妻の顔を見た。祝融の目は真っ直ぐだった。知りたいのだ。夫を変えつつあるものの正体を。
「……わかった」
孟獲は立ち上がった。
「二人で行こう」
* * *
五度目の「捕縛」は、およそ戦闘と呼べるものではなかった。
孟獲が少数の護衛だけを連れて蜀軍の陣に近づき、形ばかりの小競り合いの後に二人は丞相の天幕に通された。
天幕の帷が開いた瞬間、祝融の足が止まった。
匂いが違った。軍の天幕とは思えない匂いだった。乾いた草の香り、花の余韻、土の深い匂い、そしてかすかに甘い湯気。
竹の棚。並んだ竹皿。木札の群れ。そして、天幕の奥に座る、痩せた文官。
祝融は
第一印象は、弱い男、だった。華奢な身体。白い肌。祝融の世界では、強さとは身体に宿るものだった。
だが、目が違った。
諸葛亮が祝融に視線を向けた時、祝融は反射的に背筋を伸ばした。見透かされている、と思った。穏やかだが、深い。底が見えない。
「座られよ」
諸葛亮の声は穏やかだった。威圧がない。だが卑屈さもない。
「夫から聞いた。お前が茶を飲ませていると。それを見に来た」
「そうか。ならば、今日は、特別な茶を淹れよう。少し歩いてもらいたい。見せたいものがある」
* * *
天幕を出て、密林の中を歩いた。
長雨が上がった密林は、むせかえるような緑の匂いに満ちていた。鳥の声が戻り、木漏れ日が苔むした地面に斑模様を描いていた。
祝融は諸葛亮の背中を見ながら歩いた。足取りが軽い。この密林を恐れていない。まるで自分の庭を歩くように進んでいる。
二刻ほど歩いただろうか。獣道が急な斜面にさしかかり、その先で視界が開けた。
山だった。
なだらかな斜面全体が深い緑に覆われている。だがそれは密林の緑とは違った。一種類の木が、斜面を埋め尽くしていた。
茶の木だった。
無数の茶樹が山の斜面にびっしりと自生している。中には幹の太さが人の腰ほどもある
そして、山全体から、茶の香りが立ち上っている。生葉の青い香りと、霧の湿った甘さと、腐葉土の深い匂いが混然一体となって風に乗ってくる。
「
諸葛亮が振り返った。
「この周辺の山々の中で、最も古い茶樹が集中している山だ。人が植えたのではない。この土地に自生している。この山の土、水、霧が、千年をかけてこの茶樹を育てた」
祝融はこの山を知っていた。だが「茶の山」とは思っていなかった。苦い葉の生える木がたくさんある山、程度の認識だった。
諸葛亮は斜面に足を踏み入れ、一本の古木の前で立ち止まった。幹は大人二人が手を回してようやく抱えるほどの太さで、手の届く高さにも若い芽が出ていた。一芽二葉を、丁寧に摘んだ。
「孟獲。この山の土を触ってみろ」
孟獲はしゃがんで地面の土を掬った。赤褐色の土。握ってもすぐにほろりと崩れる。
「この土は鉄分が多い。水はけが良い。そして毎朝の霧が天然の日除けになり、光を散乱させて葉に柔らかく当てる。茶の木にとって、これ以上の環境はない」
孟獲の手の中の土が、かすかに震えた。自分の土地の土を、蜀の男に説明されている。
「同じ品種の茶樹でも、山が違えば味が変わる。土が違う。水が違う。霧の量が違う。風の向きが違う。そのすべてが、一枚の葉の中に刻み込まれている」
祝融が口を開いた。
「知っていたのか。この山のことを」
「来てから調べた。土を触り、水を汲み、葉を摘み、飲んだ。そうすれば、山が教えてくれた」
諸葛亮は掌の上の若芽を二人に見せた。
「私はこの山を——茶の女王の山と呼びたい」
祝融の目が、鋭くなった。
「なぜ、女王だ」
「力強いだけではない。優美さがある。蘭の花のような気品がある。力で圧倒するのではなく、静かに、だが確実に心に沁みる。——女王の風格だ」
祝融は答えなかった。だが、その目が一瞬だけ揺れた。
* * *
蜀軍の陣に戻り、天幕の中で、諸葛亮は易武山の
その傍らに、密林から集めた果実と蜂蜜が竹の皿に盛られていた。
祝融は皿を見た。見覚えのある果実だった。子供の頃から食べていた、酸味の強い小さな実。そしてあの蜂蜜は、崖の上の野生蜂の巣から採るもので、この土地の人間なら誰でも知っているものだ。
「すべてこの山で採れるものだ」
諸葛亮が急須に湯を注いだ。
立ち上る湯気に、祝融は思わず目を閉じた。蘭に似た、だがもっと柔らかく、もっと複雑な香り。花弁の甘さの裏に、蜜の重さがあり、さらにその奥に、木の幹のような落ち着いた深みがある。
碗に注がれた液体は、薄い金色だった。
祝融は碗を取り、口をつけた。
最初に来たのは、甘みだった。水のように透き通った甘み。舌の上でほどけて、喉の奥に消えていく。だが消えた後に、また戻ってくる。一口ごとに、甘みの層が重なっていく。
祝融は三口目を飲み、碗を下ろした時、自分の手が微かに震えていることに気づいた。
これが、この山の味。
自分が生まれ育った土地の味。
諸葛亮が蜂蜜を少量匙に取り、碗の縁に添えた。祝融は蜂蜜を舐め、茶を含んだ。甘みの種類が重なり、溶け合い、そこに酸味のある果実を一切れ噛むと、甘みの輪郭が際立ち、茶の奥に潜んでいた微かな渋みが全体を引き締めた。
祝融は碗を置いた。しばらく、何も言えなかった。
「私はこの茶を奪いに来たのではない」
諸葛亮は静かに言った。
「この山は、お前たちの山だ。この茶は、お前たちの茶だ。私はただ、この土地が持っている力を、お前たちに見せたかった」
天幕の中に沈黙が落ちた。
祝融は碗を置き、背筋を伸ばし、諸葛亮を正面から見た。
「お前は剣を持っていない。矛も弓も鎧も持っていない。茶碗一つで、私の夫を変えた」
「——恐ろしい男だ」
祝融は言った。その声に敵意はなかった。畏怖と、かすかな敬意があった。
* * *
密林の道を並んで歩きながら、長い間、二人とも黙っていた。木漏れ日が二人の肩に落ちている。
祝融が、不意に口を開いた。
「あの男の茶を、もう一度飲みたい」
孟獲は妻の横顔を見た。祝融は前を向いたまま、それ以上何も言わなかった。
孟獲は視線を前に戻した。
この密林の中に、易武山がある。あの山の土の中に、何百年もかけて育った茶の木がある。その葉の中に、自分たちの土地のすべてが宿っている。
孟獲は歩きながら、自分の中で何かが大きく動くのを感じていた。
怒りでもなく、悔しさでもなく、屈辱でもなかった。それらはすべて、もう通り過ぎた場所にあった。今あるのは、もっと静かで、もっと深い、名前のつかない感情だった。
まだ信頼とは呼べない。だが、敵意はもう消えている。
あの男が自分の土地を愛していることを、孟獲は理解し始めていた。
だが、この静かな心の変化が、南中の未来を決定づける「最後の一手」となるためには、もう一つの舞台が必要だった。それは、天幕の中ではなく、むき出しの炎を囲む夜の宴であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます