第10話 新しい命のような



 一方、佐久間神社。


 春の柔らかく暖かい風が境内を抜け、木々の葉がさらさらと揺れていた。

 人間の姿で日本に帰ってきたチアキを最初に迎えたのは、姪の愛香だった。


「千秋! 私に会いにきてくれたのねっ!」


 駆け寄る勢いのまま、女性として成長した身体を惜しげもなく押し付けてくる。その距離感は、家族というより恋人のそれだった。


 チアキは思わずたじろぐ。


「お、おい愛香……ちょっと……」


 その瞬間、フィーナが無言で愛香をそっと引き剥がした。


「──申し遅れました、わたくしはフィーナ。チアキの許嫁です」


「はあ? ちょ、ちょっと……聞いてないんだけど!」


「はい。今、初めて言いましたから」


 フィーナは困惑するチアキを尻目にそうきっぱりと言い放つ。

 愛香の顔がみるみるうちに真っ赤になり、怒りと疑惑が入り混じった表情になる。

 チアキはここで下手に口を挟めば余計に拗れると悟り、ただ黙ってフィーナの言葉に頷いた。


 その時、奥から愛美が姿を見せた。


「あら、兄様。お久しぶりですね。てっきり愛香と結婚してくれると思っていたのに、いきなり振るんですか?」


 愛美はいつもの落ち着いた声で言ったが、その瞳は冗談ではなく“本気”だった。


「愛美。お前まで何変なこと言ってんだよ。愛香は姪だぞ? それに俺は愛美よりも年上のおっさんだぞ」


 愛美は小さくため息をついた。だが、その表情は真剣そのものだった。


「兄様。せっかくそのお姿になったのですから、考えてはくださりませんか? 愛香との結婚について」


「それは無理だ」


 きっぱりと否定した瞬間、愛香の瞳に涙が溜まり、ぽろりと零れた。


「……っ」


 そのまま走り去り、部屋に引きこもる。

 ぴしゃりと障子が閉まる音が、境内の静けさに重く響いた。


 チアキはきつく拳を握りしめる。


(……悪いことしたな……でも……今は……ハルカを……)


 胸の奥にしこりのような小さな痛みが残る。けれど、今は愛香の想いに応えている余裕はない。


 ハルカを取り戻す。それが、今の自分にとって何よりも優先すべきことだった。

 フィーナはそんなチアキの横顔を見つめ、静かに言った。


「千秋。あなたは優しいですが、今は遥さまを救うことが最優先ですわ」


 愛美もまた、複雑な表情で頷いた。


「愛香のことではなく、今日は違う用事でいらっしゃったのですよね?」


「ああ……実は」


 話が早い妹に心底感謝しながら、チアキはぽつぽつと事情を語った。


「……危険な吸血鬼が復活しつつある。それに……ハルカが神器の中に封印された。だから……力を貸してほしい」


 愛美は腕を組み、真剣な表情で聞いていた。


「……なるほど。状況は分かりました」


 だが、その瞳には大きな迷いがあった。


「兄様。申し訳ありませんが……今の愛香では力になれません」


「……えっ」


 予想外の言葉に、チアキは思わず瞳を泳がせた。


「愛香は兄様のことで心が揺れていて、巫女としての力が安定していません。今の状態で神器に触れれば、逆に危険です」


 チアキは息を呑んだ。まさか、姪が自分に抱いた恋心がここまで影響するとは思ってもいなかった。


「それに……私も動けません。この神社を離れれば、封印が弱まります。危険な吸血鬼ヴァンパイアが動いている今、ここを空けるわけにはいきません」


 そして、追い打ちをかけるように静かに告げた。


「千聖も……今は旅行中で不在です。連絡もつきません」


 チアキの胸が重く沈む。


(……そうか……誰も……動けねぇのか……)


 愛美は兄の表情を見つめ、静かに言った。


「遥さんには両親と兄様も救っていただいたと母様から聞いております。ですから勿論兄様を助けたい。──でも……今の佐久間家では、力になれないのです」


 その言葉は責めるものではなく、ただの“現実”だった。

 フィーナがそっとチアキの肩に触れる。


「千秋。戻りましょう。遥さまは……どんな状況であろうとあなたが戻るのを待っていますわ」


 チアキは強く頷いた。


(……待ってろ、ハルカ。誰も動けなくても……俺がお前を絶対に取り戻す)



 一方、オーフェンの城にて。


 静まり返った玉座の間では、ウィルが封印したクリスタルがかすかに震えた。


「ウィル様、これは……」


 リャナが息を呑む。

 クリスタルはまるで“心臓”のように脈動し、内部の神器セレスティアルが白い光を漏らし始めていた。


「ああ。……ハルが、自分で何かしたみたいだ」


 リャナとメイサは即座に武器を構える。

 次の瞬間──クリスタルが四散した。

 飛び散った破片が光の尾を引きながら宙を舞い、セレスティアルが白い煙を噴き上げる。


 爆ぜるような光と轟音。

 白い煙が渦を巻き、床石を焦がす。


「ハルカ様!!」


 リャナが叫び、煙の中へ駆け込む。

 視界が晴れたとき、そこには産まれたての赤子のように身体を丸めたハルカがいた。

 透き通るように白い肌は、赤黒い血と腐敗した肉片にまみれ、

 金色に変化した髪は濡れたように額と頬へ張り付き、

 その身体からは数百の吸血鬼の魂の気配が、微かに漂っていた。

 リャナは膝をつき、震える手で口元を押さえた。


「……こんな……こんなお姿になるまで……」


 メイサもまた、目を潤ませ、低く呟いた。


「くそっ……神器め……どれほどの苦痛を……」


 二人のエンプーサは怒りを抑えきれず、くちびるをきつく噛みしめる。


 ウィルはゆっくりと歩み寄り、まるで触れれば壊れてしまうかのように、そっとハルカの頬に触れた。


 冷たく、酷く軽い。かろうじて息があるのが奇跡のようだった。


(……ハル……お前は、どれだけのものを失って帰ってきたんだ……)


 ウィルは目を閉じ、深く息を吸った。


「リャナ、ハルの湯浴みを頼む」


「……畏まりました」


「メイサは私と共にオーフェンの所へ来てくれ。

この件の報告と……覚悟を伝える」


「御意」


 ウィルはハルカを抱き上げた。

 その身体は驚くほど軽く、壊れそうで──

 まるで、記憶も過去もすべてを失った“新しい命”のようだった。

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