第8話 白いベッドの迷路

家を出てから、私はずっと床に寝ていた。


どこかで「すぐに家に戻ることになるだろう」という甘い期待を捨てきれずにいたからだ。しかし、一日一日が過ぎるたび、自宅の玄関を開ける自分の姿が遠のいていく。私は、この十五平米の城に「生活」を築く覚悟を決めなければならなかった。




一番に変えたのは、寝床だ。


毎日床で寝ていると、朝起きた時に全身が鉛のように重く、痛む。私は思い切ってベッドを購入することにした。


部屋は狭く、置けるスペースなどほとんどない。それでも、私はシングルではなく、あえて「セミダブル」を選んだ。家出した身だからといって、心まで貧しくなりたくなかった。




届いたベッドは、部屋の面積の半分を占領した。


ホテルを意識して、真っ白なシーツと布団カバーを被せる。狭い部屋の中に、白く巨大な浮島ができたような光景だ。


その夜、私は初めて柔らかいシーツの上で眠りについた。




【夢のなかの帰宅】


家出をしてから初めて、夢を見た。


家族全員で車に乗り、いつもの景色を通り抜けて、我が家へと帰る夢だ。車内には他愛もない会話が溢れ、そこには「家出人」ではない私がいた。




だが、目が覚めた瞬間に視界に入ったのは、天井の染みと、部屋の半分を埋め尽くす白いベッドだった。


「ああ、夢か……」


柔らかいマットレスに沈み込みながら、私はしばらく動けずにいた。寂しさが、掛け布団よりも重くのしかかる。それでも、時計の針は無情に進む。私は洗面所で顔を洗い、歯を磨き、昨日と同じスーツに袖を通した。




仕事に向かう途中の牛丼屋で、いつもの朝定食を食べる。


最初こそ新鮮だった「外食の朝」も、今やただの作業だ。納豆を混ぜ、味噌汁を啜る。周囲の喧騒の中にいても、私の周りだけは透明な壁で仕切られているような孤独があった。




【孤独という名の副反応】


その日の午後は、四回目のコロナワクチン接種だった。


過去三回、私は副反応に悩まされたことはなかった。翌日も普通に仕事をこなせていた。


だが、今回は勝手が違う。


もし、高熱が出て動けなくなったら。もし、意識を失うようなことがあったら。


この狭い部屋で私が倒れていても、誰も気づかない。看病してくれる手も、心配して声をかけてくれる者もいないのだ。




接種の帰り道、私はスーパーに立ち寄り、強迫観念に駆られるように買い出しをした。


解熱剤、スポーツドリンク、体温計、数日分の食料。


レジ袋を両手に下げてマンションへ帰る道すがら、私は初めて知った。


一人で生きるということは、自分の弱さと、たった一人で対峙し続けなければならないということなのだ。




夜、暗い部屋で体温計を脇に挟みながら、私はスマホを眺めた。


熱はまだ出ていない。だが、心拍数だけが、静かな部屋に不気味に響いていた。




【今回の一訓】


「結婚生活において、『病める時も』という誓いは、元気な時にはその重みに気づかない。一人の自由は、健康という薄氷の上でしか成り立たないのだ。誰かがそばにいることの最大の価値は、看病という行為そのものではなく、『もしもの時に誰かがいてくれる』という安心感そのものだったのだと、独りの中で思い知る。」

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