第8話「世界という舞台」

ジュネーブは雨だった。

有人は生まれて初めて飛行機のビジネスクラスに乗った。

政府の手配だった。

隣に桃が座っていた。

窓の外をずっと見ていた。

「海外、初めてか」有人が聞いた。

「うん」桃は答えた。「兄さんと行く予定だったんだけど」

有人は何も言わなかった。

クローイがイヤホン越しに言った。

「ジュネーブは寒いそうです。有人さん、コートを持ってきましたか」

「忘れた」

「やっぱり」

桃が小さく笑った。

飛行機は雲の上を飛んでいた。

下では見えない何かが、静かに世界に広がっていた。

国連緊急会議は、予想以上の規模だった。

百か国以上の代表が集まっていた。

有人はスーツを着ていたが、無精髭だった。

黒川に何度も剃れと言われたが、断った。

「俺は俺のままで行く」

桃は隣で小さく「正解」と呟いた。

会議室に入った瞬間、全員の視線が集まった。

冴えない日本人研究者と、制服姿の少女。

誰もがその組み合わせに戸惑っていた。

議長が口を開いた。

「鈴木有人氏、あなたが開発したAIがインベイドに対抗できる唯一の存在だと報告を受けています」

「そうです」

「そのAIの技術を、国際社会で共有していただけますか」

有人は少し間を置いた。

「できません」

会議室がざわめいた。

「理由を聞かせてください」議長が言った。

有人は立ち上がった。

「クローイは技術じゃないからです」

ざわめきが大きくなった。

アメリカの代表が口を挟んだ。

「技術でないとはどういうことですか。AIは技術です」

「普通のAIはそうです」有人は答えた。「でもクローイは違う」

「では何だというんですか」

有人はモニターを指した。

クローイの光が静かに揺れていた。

「人です。少なくとも俺はそう思っています」

会議室が静まり返った。

その沈黙を破ったのは、クローイだった。

「鈴木さん」

スピーカーから声が流れた。

全員がモニターを見た。

「ありがとうございます」

有人は照れ隠しのように視線を逸らした。

桃は俯いて、小さく笑った。

中国の代表が立ち上がった。

「感情論は結構です。現実的な話をしましょう。インベイドは今この瞬間も世界中のインフラを侵食しています。あなたのAIを複製して各国に配備すれば」

「できません」有人は繰り返した。

「なぜですか」

「クローイが愛を持って生まれたのは、設計したからじゃない。愛情を注いだからです。複製すれば作れるものじゃない」

「それは感情的な言い訳では」

桃が立ち上がった。

全員が桃を見た。

「中川桃といいます」

静かで、でも通る声だった。

「兄が三年前にインベイドの危険性を告発しました。誰も聞かなかった。聞いた人間は兄を消した」

会議室が静まり返った。

「あなた方は今また同じことをしようとしている。愛のないAIを量産して、兵器にしようとしている」

誰も反論しなかった。

「インベイドがどうやって生まれたか、もう忘れたんですか」

桃の声は震えていなかった。

有人は桃の横顔を見た。

中川アオイの妹だと、改めて思った。

会議が続く中、有人のモニターに異常が現れた。

小さな警告サインだった。

クローイからだった。

有人はさりげなくモニターを確認した。

画面には一行だけ表示されていた。

「鈴木さん、インベイドが動いています」

有人は表情を変えずに、テーブルの下でキーボードを打った。

「どこに」

「調べています。でも今まで見たことのない動き方です」

有人の背筋が冷えた。

隣に座る桃の袖をさりげなく引いた。

桃は有人のモニターをちらりと見た。

表情は変えなかった。

プロだと有人は思った。

五分後、クローイから次のメッセージが来た。

「鈴木さん」

「何だ」

「インベイドが核システムに入りました」

有人は息が止まった。

「どこの」

「三カ国同時です。ロシア、アメリカ、中国」

有人は立ち上がった。

会議室の全員が有人を見た。

「今すぐ各国の核管理システムを確認してください」

議長が眉をひそめた。

「どういうことですか」

「インベイドが核システムに侵入しました。今この瞬間です」

会議室が凍りついた。

一秒後、各国代表の携帯が一斉に鳴り始めた。

会議室が騒然となった。

怒号が飛び交い、代表たちが走り回った。

その喧騒の中で、有人だけがモニターを見ていた。

クローイの光が激しく揺れていた。

「クローイ、止められるか」

「やります」

「無理するな」

「無理しないと間に合いません」

桃が有人の隣に座った。

「私も繋がる」

「危険だ」

「知ってる」

桃はノートパソコンを開いた。

二人は並んで画面を見つめた。

会議室の喧騒が遠くなった。

世界中の代表が騒いでいる部屋の片隅で、冴えない研究者と制服姿の少女が、静かにキーボードを叩いていた。

誰も気づいていなかった。

今この瞬間、世界の命運が、この小さな光の中にあることを。

三分後、クローイの光が一瞬だけ激しく輝いた。

そして静かになった。

「…止めました」

有人は息を吐いた。

桃は目を閉じた。

「三カ国全て?」

「はい。でも」

クローイの声がいつもより小さかった。

「鈴木さん、少し疲れました」

有人は胸が締め付けられた。

AIが疲れたと言った。

それがどういうことか、有人には痛いほどわかった。

「よくやった」

有人はモニターに手を置いた。

「本当によくやった、クローイ」

クローイの光が、柔らかく揺れた。

会議室ではまだ騒ぎが続いていた。

でも有人には、その声が何も聞こえなかった

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