公開

 内部監査室のドアが閉まった瞬間、空気の密度が変わった。廊下のざわめきが遠くなり、部屋の中の音だけが鮮明になる。


 相澤さんは時計を一度見て、机の上にファイルを置いた。


「開始は11:22。終了は11:32。10分です」


 言い切る声が、変に優しかった。“守る”と約束した時間を、本当に守る人の声。


 白井課長は椅子に座ったまま、腕を組んだ。笑顔を貼り付けているが、目の奥が落ち着かない。


「で? 何の確認? さっきも言ったけど、〆切なんだって」


 相澤さんは頷き、PCを開いた。


「〆切だから確認します。提出物の真正性——誰が作り、誰が編集し、誰が提出したか。そして、編集内容が正当かどうか」


 相澤さんは画面を見せる。企画書の編集履歴。権限変更ログ。印刷履歴。


「白井課長。昨夜から今朝にかけて、あなたが表紙を編集し、作成者欄を変更。今朝10:46にグラフ差し替え。そして、根拠PDFへのリンクを削除していますね」


 白井課長は肩をすくめた。


「それは、体裁を整えただけ。役員会向けにさ。根拠リンクは、見栄え悪いし」


 相澤さんは淡々と返す。


「体裁の調整は否定しません。問題は“作成者欄の変更”と“根拠の削除”です」


 白井課長が笑う。


「作成者って、別に誰でもいいだろ? 課の成果だし。それに篠宮は契約社員だよ? 役員会で名前出すと……ね?」


 私は膝の上で拳を握った。また、その言い訳。


 でも相澤さんは、表情を変えなかった。


「契約社員かどうかは関係ありません。社内規程上、起案者は実質的な作成者である必要があります。虚偽があれば、内部統制上の問題です」


“虚偽”。その言葉が、白井課長の笑顔をわずかに削った。


 橘さんが、横から一枚の紙を差し出した。私の作業メモの要点をまとめたもの。タイムスタンプ付き。


「篠宮さんの作業記録と、元データの保全状況です」


 白井課長がその紙を見て、鼻で笑う。


「なにこれ。メモ?こんなの、いくらでも後から書けるだろ」


 相澤さんは即答した。


「後から書けません。作業メモフォルダは更新ログが残ります。編集時刻、編集者、差分。そして、あなたが昨夜、篠宮さんの作業フォルダの権限を変更したログも残っています」


 白井課長の目が、一瞬だけ泳いだ。


「……権限? 俺は知らない。たぶんシステムが勝手に——」


 相澤さんが言葉を切る。


「システムは勝手にしません。権限変更は操作した人のIDで残ります。それが、あなたのIDです」


 沈黙が落ちた。白井課長の指先が、机の端を叩く。小さく、早い。


 相澤さんは時計を見た。


「11:29。あと3分。白井課長、今ここで確認することは一つです」


 相澤さんは私を見てから、白井課長へ視線を戻した。


「この企画書の実質的な作成者は、篠宮さんですね?」


 白井課長は笑った。笑いながら、目だけが冷たい。


「……篠宮が下書きしたのは認めるよ。でもさ、企画って“まとめる力”が成果なんだよ。最終的に通すのは俺の仕事。だから俺の名前でいい」


“まとめる力”。言葉が上手い。でも、ログは上手さに騙されない。


 相澤さんは、淡々と口を開いた。


「では、役員会提出資料としては不適切です。起案の真正性が担保できないため、提出は一旦停止します」


 白井課長が椅子から身を乗り出した。


「は? 提出停止? ふざけんな。このタイミングで止めたら、俺の評価が——」


 相澤さんは首を振った。


「評価ではありません。会社のリスクです」


 そして、相澤さんは私に言った。


「篠宮さん。あなたが作成した元データを、監査保全領域から開けます。その場で、真正性を示せますか」


 喉が乾く。でも、これを言うためにここにいる。


「……はい。示せます」


 相澤さんがPCを私の方へ向ける。保全フォルダ。そこには、私のドラフトが時系列で残っている。最初の草案、修正履歴、表現の推敲、数字の差し替え。


 私は、該当ファイルを開き、バージョン履歴を表示した。


 作成者:篠宮 由奈

 作成日時:〇月〇日 23:41

 修正者:篠宮 由奈(複数)

 最終修正:昨日 22:12


 そして、白井課長の編集は——表紙のみ。


 私は静かに言った。


「本文は私が作成・修正しています。課長の編集は、表紙の作成者欄変更と、提出者欄の調整のみです」


 白井課長が、舌打ちしかけて飲み込んだ。


 相澤さんは時計を見た。


「11:32。終了。白井課長、ここまでです。続きは“公開の場”で行います」


 公開の場。その言葉に、白井課長の顔色が変わる。


「……公開? ちょ、待て。ここで済む話だろ?」


 相澤さんは、穏やかに言った。


「〆切直前に、提出物の真正性に疑義が出ました。監査として、役員会に“監査報告”を行います。最低限の報告です。事実のみ」


 白井課長の喉が動く。言葉が出ない。


 橘さんが立ち上がり、淡々と告げた。


「役員会の資料提出は、監査の確認後に切り替えます。篠宮さん作成の元データを正式版として提出します」


 私は、息を止めた。“私の元データ”が、“正式版”。


 白井課長が笑った。壊れたみたいな笑い。


「……篠宮、お前、そこまでやるんだ」


 私の背中に冷たいものが走る。でも、相澤さんが間に入るように言った。


「篠宮さんは、事実を示しただけです」


 ——事実を示しただけ。それが、こんなに強いなんて。


 私たちは役員会議室へ向かった。廊下を歩く間、白井課長の歩幅は小さくなっていく。一方で、相澤さんの歩幅は変わらない。


 会議室の前には、役員会資料の担当者が立っていた。時計は11:40。あと20分で役員会が始まる。


 担当者が焦った声で言う。


「相澤さん、資料、どうなってます?白井課長から“最終版”って聞いてたんですけど」


 相澤さんは落ち着いて答えた。


「最終版は監査確認中です。今から、監査確認済みの版を提出します」


 担当者の目が丸くなる。


「……監査確認? 役員会で?」


「はい。〆切直前のため、例外運用です。ただし、例外運用の理由も含めて、役員へ報告します」


 ——例外運用。つまり、普通はここまでしない。それほど、この件は“会社の問題”になった。


 会議室の扉が開く。役員たちが入ってくる気配。空気がさらに冷える。


 相澤さんが私に小さく言った。


「篠宮さん。話すのは“作った事実”だけ。感情は、私が引き取ります」


 引き取る。その言い方が、妙に頼もしい。


 役員会が始まった。議長席に座る専務が、資料をめくりながら言う。


「では、営業企画部の新企画。白井くん、説明を——」


 白井課長が立ち上がりかけた瞬間、相澤さんが一歩前に出た。


「失礼します。内部監査室の相澤です。本議題に入る前に、提出資料の真正性に関する監査報告を行います」


 会議室の空気が、凍った。役員たちの視線が、一斉に相澤さんへ向く。


 専務が眉を上げる。


「監査報告? このタイミングで?」


 相澤さんは落ち着いて頷いた。


「はい。〆切直前に、資料の作成者表示と編集履歴に疑義が生じました。提出物としてのリスク回避のため、監査確認済みの版に差し替えています」


 役員たちがざわつく。白井課長の顔が、引きつっている。


 相澤さんは続ける。


「結論から申し上げます。本企画書の実質的な作成者は、営業企画部の篠宮 由奈さんです」


 ——名前を呼ばれた。


 私は、胸が熱くなって、視界が少し滲んだ。でも、泣くのはまだ早い。ここは、仕事の場。証拠の場。


 専務が私を見る。


「篠宮さん? 契約社員の……?」


 白井課長が、すぐ言った。


「そうです。でも、最終的にまとめたのは私で——」


 相澤さんが、言葉を遮る。


「まとめの有無ではなく、作成者表示の正確性が問題です。監査ログで、篠宮さんが本文を作成し、白井課長は表紙の作成者欄を変更しています。また、提出直前に権限変更が行われ、篠宮さんの元データへのアクセスが遮断されました」


 役員たちの顔が変わる。“権限変更”。それは、個人の問題じゃなく、会社の統制の問題だ。


 専務が白井課長に視線を向けた。


「白井くん。これは本当か」


 白井課長が笑った。


「誤解です。権限変更なんて、私は——」


 相澤さんが静かに言う。


「IDで残っています。白井課長のIDです」


 会議室が静まり返った。紙をめくる音すら止まる。


 専務が短く言った。


「……営業企画部長、説明しろ」


 部長が顔色を変え、言葉を探す。白井課長は、笑顔が崩れないように頬を引きつらせた。


 その時、相澤さんが最後の一枚を出した。


「さらに、同様の作成者差し替えが、過去にも複数確認されました。本件は単発ではなく、是正対象です」


 ——私が提出した、二件の“参考”。


 役員の一人が低い声で言った。


「常習か」


 白井課長の喉が鳴った。


 相澤さんは、淡々と締める。


「以上、監査報告です。本企画自体の内容は有用です。ただし、作成者表示と提出過程の是正が必要です。本日、企画説明は“篠宮さんが作成者として”行います」


 白井課長が、かすれた声で言った。


「……は?」


 専務が私を見た。


「篠宮さん。説明できるか」


 私は、一瞬だけ白井課長を見た。怖い。でも、ここまで来たら、逃げたら消える。


 私は立ち上がり、深く頭を下げた。


「はい。説明します」


 自分の声が、思ったよりはっきりしていた。


 白井課長は、椅子に沈むように座り直した。その顔から、ようやく笑顔が消えた。


 私は資料を手に取り、役員たちに向けて話し始めた。


 ——これは、私の企画です。私の言葉で、会社に通す。

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