プロローグ 灼かれた弦 §2

 数分が経ったのか。数秒だったのか。黒羽にはわからなかった。


 指令室は半壊していた。四人の弦子は倒れていた。生きている者もいた。しかし量子場そのものが破壊された空間では、弦子の力は弦を失った楽器に等しい。


 黒羽は瓦礫の中から身を起こした。左腕が動かなかった。かすかに残った弦子としての知覚が、捉えたものがあった。


 爆心地を中心に、空間に裂け目が走っている。現実と虚数の境界が、永久に薄くなっている。核分裂の暴力が空間そのものに刻んだ、消えない焼き跡。


 ——量子瘢痕りょうしはんこん


 そしてもう一つ。薄れゆく意識の中で、一瞬だけ、何かが見えた。


 空間に浮かぶ、無数の目。


 大きな目、小さな目、人間の目、人間ではない目。それらが一斉に、広島を見下ろしていた。黒羽は四十二年間、観測する側にいた。虚数体を見て、読み、確定させる——それが弦子の力だ。しかし目が合った瞬間に理解した。自分が観測されている。見られている。読まれている。弦子の力の全てが、逆向きに自分に注がれている。夜空に浮かんだ無数の刃が、一斉に黒羽の網膜の温度を奪っていく。


 全てを確定する力が物理的に再現されたその瞬間に、引き寄せられた何かの影。無数の目が、広島を見下ろしていた。


 その目には一点だけ死角が合った。


 それが黒羽の、目の前だった。無数の視線のどれも届かないその一点に、少女が立っていた。霞む視界の、すぐそこに。


 立っているはずがなかった。灰に確定された場所だ。瓦礫の熱で空気が歪み、失血で像が滲んでいた。死にかけた者が見る幻だ、と黒羽は思った。この時代の誰でもない貌をした、静かな少女。


 少女が手を伸ばし、断ち切られていく無数の弦の、たった一本に、触れた。


 黒羽がまばたきをすると、少女はもういなかった。やはり、幻だ。


 無数の目は、最後まで、気づかなかった。


 黒羽は右手で、瓦礫の中から観測記録簿を引き出した。血に濡れた指でペンを握り、後に続く者のために、震える文字を書いた。

---


 鳳弦座は消滅した。座長・黒羽厳。弦子四十三名。一瞬で失われた。公式記録では「戦後の組織再編により解散」とだけ書かれている。


 観測記録簿は、二十年後に地下から引き上げられた。最後のページ、震える筆跡で途切れた走り書きが、以後、梟弦座きょうげんざの虚数体理論の出発点になった。


 鳳弦座の席は、七十九年、空いたままだった。


 広島の量子瘢痕は、消えていない。現実と虚数の境界が薄くなった領域に、微弱な虚数体が断続的に出現する。鹿弦座ろくげんざが遠隔で監視を続けているが、鳳弦座なき今、広島に常駐する弦子はいない。


 ——ごく稀に、震えの隙間に、別の音が混じる、と鹿弦座は報告している。何の音かは、わかっていない。


 黒羽厳が最後に見た「無数の目」と「少女」が何だったのか。七十九年後の今も、理解した者はいない。


 しかし量子瘢痕は、覚えている。空間に刻まれた傷は、忘れない。七万の恐怖が焼きつけられた場所は、永遠に、一本を除いて、弦が断ち切られたまま——


 

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