灼かれた弦 §2

 数分が経ったのか。数秒だったのか。黒羽にはわからなかった。


 指令室は半壊していた。四人の弦子は倒れていた。生きている者もいた。量子場の破れた空間では、弦子は弦を失った楽器に等しかった。


 黒羽は瓦礫の中から身を起こした。左腕が動かなかった。残った知覚が、捉えたものがあった。


 爆心地を中心に、空間に裂け目が走っている。現実と虚数の境界が、永久に薄くなっている。消えない焼き跡。


 ——量子瘢痕(りょうしはんこん)。


 そしてもう一つ。薄れゆく意識の中で、一瞬だけ、何かが見えた。


 空間に浮かぶ、無数の目。


 大きな目、小さな目、人間の目、人間ではない目。それらが一斉に、広島を見下ろしていた。黒羽は二十年あまり、観測する側にいた。見て、読み、確定させる側に。目が合った瞬間に、裏返った。自分が観測されている。見られている。読まれている。頭上の無数の目が、一斉に、黒羽の網膜から温度を奪っていく。


 その目には一点だけ死角があった。


 それが黒羽の、目の前だった。無数の視線のどれも届かないその一点に、少女が立っていた。霞む視界の、すぐそこに。


 立っているはずがなかった。瓦礫の熱で空気が歪み、失血で像が滲んでいた。幻だ、と黒羽は思った。この時代の誰でもない貌をした、静かな少女。


 少女が手を伸ばし、断ち切られていく無数の弦の、たった一本に、触れた。


 黒羽がまばたきをすると、少女はもういなかった。やはり、幻だ。


 無数の目は、最後まで、少女のほうを見なかった。


 黒羽は右手で、瓦礫の中から観測記録簿を引き出した。血に濡れた指でペンを握り、書いた。


---


 観測記録簿には、その朝、瓦を運んでいた子どもたちの名前は一つもなかった。記録簿が数えたのは、弦の数だけだった。黒羽は最後の頁の端に、それを詫びる一行を書きかけて、書き終えられなかった。


 鳳弦座は消滅した。座長・黒羽厳。弦子四十三名。その夜のうちに、ほとんどが失われた。公式記録では「戦後の組織再編により解散」とだけ書かれた。


 観測記録簿は、二十年後に地下から引き上げられた。最後の頁の走り書きが、本郷の小さな研究部——のちの梟弦座——の出発点になった。それを、力と呼ぶ者が、のちに現れた。黒羽は、そう呼ばなかった。


 鳳弦座の席は、八十年、空いたままだった。


 広島の量子瘢痕は、消えなかった。微弱な虚数体が、断続的に出た。鹿弦座が、遠隔で監視した。


 ごく稀に、震えの隙間に、別の音が混じる、と鹿弦座は報告した。


 量子瘢痕は、覚えていた。七万の恐怖が焼きついた場所は、一本を除いて、弦が断たれたまま——


 震えていた。

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