石
深夜三時に、窓ガラスが割れた。
音で目が覚めた。ガラスの破裂音。居間だ。ミラの部屋ではない——それを最初に確認した。次に自分の身体を確認した。怪我はない。
居間に行った。窓の下にガラスの破片が散らばっている。その中に、拳大の石が落ちていた。石に紙が巻きつけてあった。輪ゴムで止めてある。
紙を取った。手が震えていないことに自分で驚いた。広げた。黒いマジックで、太い文字。
「汚染兵 出ていけ」
五文字。それだけだった。
立ったまま、石を見ていた。こぶし大の川石。灰色。表面がざらついている。誰かがこの石を拾い、紙を巻き、輪ゴムで止め、夜中に俺の家まで来て、窓に投げた。その一連の動作を想像した。怒りがあったはずだ。あるいは正義感が。「汚染兵」を追い出すことが正しいと信じている人間がいる。その信念は——ゲルトの言葉から来ているのだろうか。ゲルトは暴力を肯定していない。だがゲルトの言葉が、暴力に変換される。言葉は制御できない。俺の身体から出たナノマシンが制御できなかったように。
ミラが起きてきた。居間の入口に立っている。パジャマ姿。髪が乱れている。目がまだ眠い——だがすぐに覚めた。割れた窓。床のガラス。俺の手の中の石と紙。
「お父さん」
「大丈夫だ。窓が割れただけだ」
ミラは俺の手の中の紙を見た。読んだ。表情が変わらなかった。十五歳の少女が「汚染兵 出ていけ」を読んで、表情が変わらなかった。それは強さではなかった。もう驚かないということだった。学校で似たような言葉を聞いているのだ。
ミラは居間に入ってきて、箒と塵取りを持ってきた。黙ってガラスの破片を掃き始めた。
「ミラ、いい。俺がやる」
「大丈夫。手伝うよ」
二人で黙ってガラスを片付けた。深夜三時の居間で。窓からは夜風が入ってくる。冷たい風だった。割れた窓の穴から見える夜空は、いつもと同じだった。
紙はミラが捨てた。ゴミ箱に入れた。「汚染兵 出ていけ」という言葉を、生ゴミと一緒に捨てた。迷いのない動作だった。
窓にはガムテープで段ボールを貼った。応急処置だ。明日、ガラス屋に頼む。窓が割れた理由を聞かれるだろう。何と答えるか。「石が飛んできた」。嘘ではない。だが全てでもない。半分の真実。いつもの俺だ。
警察に届けるべきか。届ければ記録が残る。記録が残れば、俺がプログラムの参加者であることが公的に確認される。まだ公式には確認されていない。リストは流出したが、俺の名前が含まれているかどうかは曖昧だ。届けなければ——石を投げた人間は、また来るかもしれない。次は石ではないかもしれない。リヒトが言っていた。隣の県で放火があったと。
段ボールで塞いだ窓を見た。みすぼらしい応急処置だった。だが今夜はこれで凌ぐしかない。
ミラが台所で麦茶を入れてくれた。二人で飲んだ。深夜三時の麦茶。台所の明かりだけが点いている。隣の家は暗い。ハンスは寝ているだろう。石が投げ込まれた音は聞こえたはずだ。だがハンスは来なかった。以前なら来たはずだ。「大丈夫か、カイくん」と。もうその声は聞こえない。
「お父さん」
「なんだ」
「引っ越す?」
「……考えてる」
「考えてるだけ?」
「ミラの学校がある」
「学校は——」
ミラは言いかけて、やめた。何を言おうとしたのか。学校はもう安全ではない、と言おうとしたのか。あるいは、学校なんかどうでもいい、と。
「明日、学校がある。寝よう」
「……ああ」
ミラが部屋に戻った。俺はしばらく台所にいた。段ボールを貼った窓から風が漏れてくる。ガムテープの隙間から。この家に十年住んでいる。ミラが五歳の時にこの町に来た。ミラの成長と一緒に、この家で暮らしてきた。ここが追われる場所になるとは思わなかった。
朝、工場に行った。
更衣室で着替えている時、同僚のリヒトが声を低くして言った。
「カイさん、ニュース見ました? 退役軍人の家が放火されたって。隣の県で」
「……見てない」
「やばいっすよ。プログラムの参加者リストが流出してて、ネットで住所まで特定されてるらしいです」
リヒトの声には恐怖があった。だがリヒトの恐怖は「世の中が怖い」であって、「隣にいる男が怖い」ではなかった。リヒトはまだ知らない。俺がプログラムの参加者であることを。
「気をつけたほうがいいですよ。退役軍人ってだけで目をつけられるかもしれないし」
「……ああ。気をつける」
リヒトは善意で言っている。善意が、刃物より痛かった。リヒトの家にも子供がいる。六歳の息子。その子の身体にもナノマシンがある。リヒトはそれを知っている。知って、怖がっている。怖がっている相手が目の前にいることを、知らずに。
工場のラインに戻った。いつもの作業。いつもの部品。いつもの手の動き。だがこの手がいつもの手ではないことを、俺だけが知っている。
昼休み。食堂で一人で食べていた。向かいの席に誰も座らなかった。偶然かもしれない。だが先週までは誰かしら座っていた。俺の左隣にはいつもヨハンが座っていた。今日はヨハンが二つ離れた席に座っている。偶然だろうか。
考えすぎかもしれない。石が投げ込まれた翌朝は、全てが疑わしく見える。全ての視線が敵意に見える。全ての沈黙が拒絶に見える。被害妄想だ。——だが、窓のガラスは実際に割れた。段ボールの貼られた窓が自宅にある。妄想ではない。
午後、工場長に呼ばれた。小さな事務室。工場長は五十代の穏やかな男で、俺が入社した時の面接官でもあった。
「カイくん。率直に聞く。君はナノマシン強化プログラムの参加者か」
俺は工場長の目を見た。嘘をつくことも——できたかもしれない。だがもう、嘘は疲れた。
「……ああ」
工場長は頷いた。怒りはなかった。困惑があった。
「わかった。——今すぐどうこうするつもりはない。だが組合からの問い合わせがあった場合、俺は嘘をつけない。それだけ伝えておく」
「わかりました」
事務室を出た。廊下が長く感じた。
夕方、ハンスが来た。
チャイムが鳴った。ドアを開けた。ハンスだった。前回会った時——論文公開の日——から一ヶ月以上が経っていた。ハンスの顔は変わっていた。怒りがあった。あの穏やかな老人の顔に、怒りが載っていた。
「カイ。教えてくれ」
ハンスの声は低かった。
「君は——知っていて、ずっと隣に住んでいたのか。俺の身体が変わっていくのを知っていて、『体調がいい』と笑う俺の顔を、ずっと見ていたのか」
前回と同じ問いだった。だが質が違った。前回は動揺だった。今回は怒りだった。一ヶ月の間に、ハンスの中で動揺が怒りに変わった。
「ハンスさん」
「答えてくれ」
「確証はなかった」
「でも疑っていた」
「……ああ」
ハンスの目が閉じた。三秒。目が開いた。
「七年間だ。七年間、俺は君を信頼していた。毎月、一緒に飯を食った。ミラちゃんを孫みたいに思っていた。——その七年間、君は俺の身体が変わっていくのを知っていて、黙っていた」
「知っていたのは——」
「言い訳は聞きたくない」
ハンスの声が鋭くなった。七十代の男の声とは思えないほど。ナノマシンが声帯も若返らせているのだ。ハンスの怒りの声が若く、強くなっていることの皮肉を、ハンス自身は知らない。俺だけが知っている。ハンスの身体を変えたものと、ハンスの怒りの原因が、同じものであることを。
「カイ。もう隣にいられない」
「——」
「引っ越す。来月までに出る」
ハンスが背を向けた。振り返らなかった。前回と同じだ。だが前回は「時間がほしい」だった。今回は「もう隣にいられない」だった。時間が経って、答えが出たのだ。ハンスの答え。七年間の信頼を、カイの沈黙が殺した。
ハンスの背中が廊下の向こうに消えた。ドアが閉まった。鍵が——今度も鍵がかかった。ハンスが鍵をかけるようになったのは、あの日からだ。もう鍵は開かない。
玄関のドアを閉めた。壁に背をつけた。滑り落ちるように座った。膝を抱えた。四十代の男が、玄関の床に座って膝を抱えている。
ハンスを失った。
七年間。月に一度の食事。ミラを「ハンスおじいちゃん」と呼ばせてくれた人。卵焼きの味を覚えてくれた人。クリスマスにミラに手編みの手袋を贈ってくれた人。あの人が——去る。
泣いてはいなかった。泣く余裕がなかった。感情がどこかで凍っていた。悲しみが来るべき場所に、空白があった。あとで来るのだろう。今は動けない。
ミラが帰ってきたら、ハンスのことを伝えなければならない。「ハンスおじいちゃんは引っ越すよ」。ミラは何と言うだろう。また「大丈夫だよ」と言うだろうか。ミラの「大丈夫」は、もう限界に近いはずだ。石を投げられ、ハンスを失い、学校でも——それでも「大丈夫」と言い続ける十五歳。その強さは本物だ。だがいつまで持つのか。
夜、トーラが来た。電話ではなく、直接。
玄関に立っていた。革のジャケット。軍用のブーツ。目が据わっていた。酒の匂いはしない。素面だ。素面で、あの目をしている。
「入れよ」
台所にトーラを通した。お茶は出さなかった。出す気分ではなかった。トーラも求めなかった。テーブルを挟んで座った。
「カイ、俺は拒絶派の集会に行った。先週の水曜日」
「……知ってる」
「ゲルトに会った。直接話した。——あの人は正しいよ」
俺は黙った。
「お前も聞いたろ。ゲルトの演説。『選べなかったことが問題だ』。あれは正しい。俺たちが選んだことの結果を、全員が背負わされてる。選ぶ権利もなく」
「……」
「俺には守るものがなかった。お前みたいに妹のためとか、そういう理由がなかった。自分のために変わった。自分が強くなりたかっただけだ。だから——自分のした結果を、誰かのためだったと言い訳できない。罪だけが残る」
トーラの声は平坦だった。感情を排した声だった。結論を出した人間の声。ユーリスが論文を発表した時のような——事実だけを述べる声。
「カイ、お前も認めるべきだ」
「何を認めろと言ってる」
「俺たちは加害者だ。世界を変えた。意図はなかった。だが結果がある。結果の責任を取るべきだ」
「責任を取る——具体的に何をすればいい。元に戻す方法はない。謝れば済むのか。誰に謝る。全人類にか」
自分の声が大きくなっていた。怒っていた。トーラに対してではない。自分に対して。トーラの言うことを否定できない自分に対して。
「何か言えよ」
トーラが同じ言葉を繰り返した。電話の時と同じだ。
「——言えることがない」
「嘘だ。言えることはある。認めたくないだけだ」
俺は立ち上がった。トーラも立ち上がった。二人の間にテーブルがあった。目が合った。施術台で隣のベッドにいた男——女——戦友——の目と。
「帰れ」
「カイ」
「帰ってくれ」
トーラは帰った。黙って。玄関で靴を履く音が聞こえた。ブーツの紐を結ぶ音。軍用のブーツ。施術台の隣で寝ていた同期が、俺の家の玄関で靴を履いて、出ていく。ドアを閉める音が静かだった。怒りの音ではなかった。諦めの音だった。ハンスの鍵の音とは違う種類の断絶だった。
台所に一人になった。テーブルに両手をついた。力が入った。指がテーブルの天板にめり込みそうだった。実際にめり込んだ。木目が割れた。強化された指が、木のテーブルの表面に跡を残した。
壁を殴ろうとした。拳を上げた。——やめた。深呼吸をした。三回。軍にいた頃の訓練が役に立つのは、こういう時だけだ。怒りを制御する技術。殺すための身体に備わった、殺さないための技術。
自分の手を見た。テーブルにめり込んだ跡がついた手。人間の手か。人間の手で、テーブルの天板を凹ませるか。この手がこの力を持っていることが、俺が「普通」ではないことの証拠だ。ゲルトの言う通りだ。この身体は、もう俺のものではない。
翌朝、ミラの制服を洗おうとして気づいた。
スカートの裾に泥がついていた。膝の裏にも。転んだ跡ではない。押された跡だ。膝から落ちた時にできる汚れ方だった。
ミラに聞いた。
「制服、汚れてたぞ」
「転んだ」
「……転んだのか」
「うん。運動場で」
嘘だ。ミラの心拍が上がっている。七十二から九十一に。嘘をつく時のミラの心拍だ。ミラが俺に嘘をつくのは——これが初めてではない。先週も「宿題が多いから遅くなった」と言った時、心拍が上がっていた。その前も。その前も。初めてではないことに、今気づいた。気づくのが遅すぎた。
学校で何かがある。無視。排除。「汚染兵の娘」という囁き。制服の泥は、誰かに押されたか、突き飛ばされた証拠だ。ミラは父に言わない。言えば俺が傷つくと知っているから。言えば俺が学校に怒鳴り込むと思っているのかもしれない。強化された身体で。それは誰も望まない。
十五歳の娘が、父親を傷つけないために嘘をつく。俺がミラに嘘をついたのと同じ構造だ。嘘が循環している。ナノマシンと同じように。親から子へ。子から親へ。守るための嘘が、守りたい相手を孤立させる。
ミラの背中を見送った。学校に行く背中。制服。スカート。昨日洗った制服。今日もあの制服が汚れるのかもしれない。明日も。明後日も。俺にはそれを止める力がない。強化された身体で、何もできない。石を投げた人間を見つけて殴ることはできる。ミラをいじめる子供の親に怒鳴り込むことはできる。だがそれは——力だ。暴力だ。「汚染兵」がすることだ。俺が力を使えば使うほど、ミラの立場は悪くなる。
力があることが、無力であることを意味する。これほど皮肉な状況があるだろうか。
夜。ミラが寝た後、ミラの部屋の前に立った。
ドアの向こうの寝息が聞こえる。規則的な呼吸。深い睡眠に入っている。ミラは丈夫だ。ナノマシンのおかげで。
おかげ。——あの言葉が、また来た。
この子を守るために身体を差し出した。その身体から出たものが世界を変え、この子が「汚染兵の娘」と呼ばれる理由になった。エマを歩かせるために変わった俺の身体が、ミラを追い詰めている。因果が円環になっている。出口がない。
俺は本当に無関係か。トーラが見つけた軍の文書。「環境影響は許容範囲内と判断する」。軍は最初から知っていた。排出されることを。環境に蓄積されることを。「許容範囲内」と書いて、目を瞑った。俺もそれを知った時——ユーリスに会った時——目を瞑った。「確証がない」と言い訳して。確証がなくても、声を上げることはできた。ユーリスのように。だが俺はユーリスになれなかった。黙って、ミラの隣で暮らし続けた。
認めたくない。認めたら——エマを救った選択そのものが否定される。エマのために変わった。それが全ての始まりだ。始まりが「罪」なら、エマが歩けるようになったことも「罪の結果」になる。エマが走る姿。エマの笑顔。タクヤとの結婚。ソウタの誕生。全てが「罪の結果」になる。それは——耐えられない。
エマからは、まだ連絡がない。ニュースが始まってからもう一ヶ月以上。エマは何を思っているだろう。エマの身体にもナノマシンがある。民間治療で入れたものと、環境由来のものと、二重に。エマは——俺を許すだろうか。許さないだろうか。どちらであっても、俺の罪は変わらない。
だが否定し続けることも、もうできない。窓には段ボールが貼ってある。ハンスは来月引っ越す。ミラの制服は泥で汚れている。工場長は俺の正体を知った。全てが、俺の沈黙の代償だ。十五年間、黙っていた代償が、一度に請求書として届いている。
ミラの寝息を聞いていた。穏やかな呼吸。この呼吸を守りたい。だが「守る」ということが何を意味するのか、もうわからなかった。この町にいることが守ることなのか。この町を離れることが守ることなのか。俺のそばにいることが守ることなのか。俺から離れることが守ることなのか。
答えは出なかった。ドアの前に立ったまま、ミラの寝息を聞いていた。この子の心拍が穏やかであることだけが、今の俺の唯一の救いだった。
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