安売り
通達は簡潔だった。
「ナノマシン強化プログラム、段階的縮小のお知らせ」
基地の掲示板に貼られた一枚の紙。A4サイズ。軍の書式に則った文面。感情のない活字が並んでいる。
「民間におけるナノマシン技術の普及に伴い、軍用ナノマシンの戦術的優位性は相対的に低下しています。これを受け、強化プログラムは本年度をもって新規志願の受付を停止し、段階的に縮小——」
要するに、こういうことだ。一般人がナノマシンを手に入れられるようになった以上、わざわざ軍で兵士を強化する意味が薄れた。同じものを持った民間人と、同じものを持った兵士に、特別予算は出せない。
掲示板の前で、同期が何人か立ち止まっていた。
誰も何も言わなかった。言うことがなかった。第一期の十二人のうち、基地に残っていたのは八人。残りの四人は別の基地に配属されていたが、同じ通達を読んでいるはずだ。
俺の隣に立っていた男——名前は覚えている、施術台で隣のベッドだった——が、通達の紙に手を伸ばしかけて、やめた。剥がしたところで何も変わらない。
廊下を歩く一般兵士たちは、掲示板の前を素通りしていく。彼らには関係のない話だ。強化プログラムに参加していない兵士にとっては、ただの管理部門の通達に過ぎない。俺たちだけが立ち止まっている。俺たちだけが意味を読み取っている。
トーラは通達を三回読んだ。
「縮小か。廃止じゃないんだな」
「第二期以降は未定、と書いてある」
「未定ってのは、やらないって意味だ。軍の言葉遣いくらいわかるだろう」
その通りだった。
通達が出てから、基地の空気が変わった。強化兵士の訓練スケジュールが徐々に削られていく。週五回だった専用トレーニングが週三回になり、週一回になり、やがて「各自で体力維持」という曖昧な指示に変わった。専用の医療チェックも月一回から三ヶ月に一回になった。
俺たちの身体を管理するために存在していた仕組みが、一つずつ外されていく。建物はそのまま残っているのに、中身だけが抜かれていく感覚だった。
退役勧奨が出たのは、その二ヶ月後だった。
強制ではない。退役金と再就職支援プログラムが提示された。残る選択肢もあったが、強化兵士としての任務はもうない。通常部隊に配属されて、通常の兵士と同じ仕事をすることになる。強化された身体で。
「残るか」
トーラに聞いた。
「残ってどうする。通常部隊で銃を構えるのか、この身体で。照準器なしで五百メートル先が見える目で」
「……だな」
「出るぞ。普通に暮らしてみる」
普通に。トーラがその言葉を使うのが奇妙だった。俺たちにとっての「普通」は、とっくに失われている。食事の塩分がわかり、他人の心拍が聞こえ、暗闇で星が数百個見える身体で「普通に暮らす」とは、どういうことだ。
だが他に選択肢はなかった。
退役の手続きは三日で終わった。
書類に署名した。装備を返却した。軍服、ブーツ、識別票、通信機器。一つずつ受領確認のサインをもらう。六年間、身体の一部のように扱っていたものが、番号のついた備品に戻っていく。
私物をまとめた。段ボール一箱。着替え、洗面具、本が数冊。エマからの手紙の束。六年間の軍歴が、この箱に収まった。箱を持ち上げた。軽かった。強化された腕には当然だが、それとは別の意味で軽かった。
部屋を出るとき、ベッドの上に何も残っていないのを確認した。マットレスの染み一つ残っていない。俺がここにいた痕跡は、もうどこにもない。
最後に基地の屋上に上がった。トーラと二人で。
星は相変わらず見えた。身体は変わらない。軍にいようといまいと、ナノマシンは俺たちの中にある。退役しても返却できないものだ。
「これからどうする」
トーラが聞いた。
「わからない。仕事を探す」
「何ができる」
「身体を使うことくらいだ」
「同じだな」
トーラが笑った。皮肉ではなく、どこか晴れやかな笑みだった。
「まあ、なんとかなるだろう。この身体があるんだからな」
トーラは夜空を見上げたまま、付け加えた。
「俺は後悔してないぞ。この身体が好きだ。どこに行っても、何をしても、この身体は俺のものだ。軍に返す必要もない」
トーラにとっては、退役は解放だったのだろう。守るべき家族のために軍にいたわけではない。自分のために選び、自分のために手に入れた身体を、今度は自分のために使う。それだけのことだ。身体そのものを肯定できるトーラが、少しだけ眩しかった。
俺は違った。軍にいることで、エマの治療が保証されていた。退役すれば優先枠は消える。エマの治療は——もう民間で継続できる段階にあると、担当医は言っていた。軍の優先枠がなくても、一般の保険適用で十分だと。
つまり、俺がここにいる理由も消えたということだ。
エマを守るために入った軍。エマを守るために受けた施術。エマを守るために耐えた痛み。その全てが、必要なくなりつつある。
——いや。必要だった。あの時点では確かに必要だった。俺が志願しなければ、エマの治療は始まらなかった。民間解禁が来る前に、エマの身体は限界を迎えていたかもしれない。タイミングの問題だ。俺の犠牲は無駄ではなかった。
そう自分に言い聞かせた。言い聞かせなければならなかった。
基地の門を出た。
門衛が敬礼した。俺はもう軍服を着ていない。退役者用の一時通行証を胸ポケットに入れている。それでも門衛は敬礼した。俺も反射的に敬礼を返しかけて、やめた。もう兵士ではない。
二十四歳の春。六年前、十八歳で入った門を、逆方向に歩いた。
街は変わっていた。
六年前、この街から基地に向かった時の記憶がある。灰色の建物、錆びた看板、シャッターの閉まった商店。地方都市の典型的な景色だった。
それが、変わっていた。
駅前のロータリーが整備されている。新しいビルが建っている。人の数が増えている。活気がある。何がこの街を変えたのか、すぐにわかった。
ナノマシン・クリニック。
駅前に一軒。商店街の入り口に一軒。大通り沿いに三軒。清潔な白い看板と、ガラス張りの明るい受付。「痛みなく、あなたも美しく」「ナノメディカル——あなたの健康をナノレベルでサポート」「アンチエイジング×ナノテクノロジー 初回カウンセリング無料」
コンビニより多い。
歩くたびに目に入る。電柱の広告、バス停のポスター、携帯端末を開けばバナー広告。ナノマシンという言葉が、街の空気のように当たり前にそこにあった。
俺が麻酔なしで骨を軋ませた技術が、初回カウンセリング無料になっている。
内臓が冷えた。怒りとは少し違う。もっと静かな、底の深い感覚。
クリニックのガラス越しに、施術室が見えた。白い壁、白いベッド、白衣のスタッフ。清潔で明るい空間。あの地下の施術室とは何もかもが違う。ここには革ベルトもない。麻酔なしの痛みもない。三日間の絶叫もない。ナノマシンという同じ名前の技術が、全く別のものとしてそこにあった。
自分の中にあった何かの価値が、目の前で値引きされていく感覚。
トーラは平気そうだった。クリニックの前を通り過ぎても、表情が変わらない。
「慣れるぞ」
「何にだ」
「こういう景色に」
慣れたくなかった。だが慣れるしかないこともわかっていた。
アパートを借りた。退役金で半年は暮らせる計算だった。
六畳一間。台所とユニットバス。窓から見えるのは隣のビルの壁だ。基地の宿舎より狭い。だが初めての、自分だけの部屋だった。
最初の夜、眠れなかった。静かすぎるからではない。逆だ。うるさすぎた。隣の部屋のテレビの音。上の階の足音。壁の中の水道管を流れる水の音。道路を走る車のタイヤと路面の摩擦。基地では同じ強化兵士が周囲にいたから、環境音の質が違った。ここでは一般人の生活音が、全て強化された耳に流れ込んでくる。
三日で慣れた。身体は優秀だ。順応することにかけては、俺の意思より先に動く。
だが身体が慣れることと、自分が慣れることは違う。朝、目が覚めると一瞬、天井の位置に戸惑う。基地の宿舎ではなくアパートの天井だと理解するのに、零コンマ数秒。身体はとっくに覚醒しているのに、頭がついてこない。
スーパーに買い物に行った。食材を選ぶ。値段を比べる。軍では配給だったから、こういう判断をしたことがなかった。何を食べたいか、と自分に問いかけて、答えが出ない。好みという概念が六年間使われていなかった。
結局、最初の一週間は同じ弁当を買い続けた。選ぶことに疲れたからだ。
軍では全てが決まっていた。起床時間、食事、訓練メニュー、消灯時間。自分で決めることは何もなかった。その代わり、迷うこともなかった。退役して初めて気づいた。俺は六年間、自分で何かを選ぶ練習をしていなかった。エマの治療のために軍に入ったあの一回の決断以降、選択という行為そのものを放棄していた。
仕事を探した。民間の警備会社に応募した。軍歴があること、体力に自信があること。履歴書にはそう書いた。ナノマシン強化のことは書かなかった。書く欄がなかった。書いたところで、意味がわかる人間は少ない。
面接官は俺の体格を見て頷いた。「すぐ働けますか」。すぐ働けた。
警備員の仕事は単純だった。立つ。見る。歩く。異常があれば報告する。
商業施設の夜間巡回。強化された目には暗がりも昼間と変わらない。監視カメラの死角も、赤外線センサーの範囲も、一度見れば頭に入る。だが報告書には「異常なし」とだけ書く。異常がないのは俺の身体のほうだ。この仕事に、この身体は要らない。
時々、巡回中に自分の足音を聞いた。コンクリートの床を踏む均一な音。軍靴の代わりに安全靴を履いているが、歩き方は変わらない。癖は身体に染みついている。
退屈だった。だが退屈は平和だ。誰も傷つかない。俺も傷つかない。それでいい。
ただ、時々思った。この身体を持て余している、と。百メートルを九秒台で走れる脚で、駐車場を巡回している。二キロ先の会話が聞ける耳で、非常ベルの点検をしている。暗視能力のある目で、懐中電灯を持って歩いている。能力と役割の間に、途方もない隙間がある。その隙間を、退屈と名づけて受け入れている。
トーラとは月に一度、飯を食うようになった。互いの近況を話す。トーラも警備系の仕事に就いていた。個人の護衛だと言った。詳しくは聞かなかった。聞く必要がなかった。
「飯がうまくなった」
トーラが定食屋の味噌汁を啜りながら言った。
「軍のメシがまずかっただけだ」
「違う。味がわかるようになったんだ。あの頃は任務のことしか考えてなかったからな」
そうかもしれない。俺も退役してから、食事の味を意識するようになった。塩分の量まで舌でわかるのは相変わらずだが、それを「うまい」「まずい」と感じる余裕ができた。心の問題だ。身体ではなく。
「なあ」
トーラが箸を置いた。
「お前、ちゃんと寝てるか」
「寝てる」
「顔色の話じゃない。目の下の血流量が落ちてる。ストレスか、慢性的な睡眠不足だ」
他人の身体の異変を読み取る能力は、戦場では有用だった。だが退役後の定食屋では、ただ鬱陶しい。
「大きなお世話だ」
「だろうな」
トーラはそれ以上何も言わなかった。
エマに会いに行ったのは、退役して三ヶ月経った頃だった。
理由は必要なかった。会いたかった。それだけだ。軍にいた六年間、面会は年に二回が限度だった。今は——いつでも行ける。その自由にまだ慣れていない。
大学のキャンパス。あの動画と同じ並木道。季節は秋で、桜の代わりに銀杏が色づいていた。黄色い葉が風に乗って落ちていく。一枚の葉が地面に着くまでの軌道が、俺の目には見える。不要な情報だ。だが見える。
講義棟の前のベンチに座って待った。学生たちが目の前を行き交う。二十歳前後の若い男女。彼らの心拍が聞こえる。健康な、規則正しい拍動。誰も俺に注意を払わない。少し大柄な男が一人、ベンチに座っている。それだけのことだ。
エマは講義を終えて出てきた。友人と二人。笑いながら何かを話している。声が聞こえた——三十メートル先のエマの声が。「レポートの締め切り、来週だっけ」。普通の会話。普通の大学生の会話。
歩き方は——もうほとんど普通だった。右足を庇う癖はまだ僅かに残っているが、注意して見なければわからない程度だ。俺の目には見えた。右の踵が地面に接地するタイミングが、左より零コンマ一秒遅い。だがそれだけだ。
「お兄ちゃん!」
エマが俺を見つけた。三十メートル先から、一直線にこちらに向かってくる。
駆け寄ってきた。——走っている。走れるようになっていた。両足が地面を蹴り、身体が前に運ばれていく。かつて松葉杖がなければ立てなかった脚が、今は地面を力強く踏んでいる。
「来てくれたの? 連絡くれればよかったのに」
「近くに用があった」
嘘だ。エマに会うために来た。
キャンパスの中を一緒に歩いた。エマは俺の腕を掴むようにして歩く。子供の頃からの癖だ。治療が進んでからも変わらなかった。
「お兄ちゃん、筋肉落ちた? 前より細くない?」
「そんなことはない」
「嘘。前に会った時はもっとガチガチだったよ」
気のせいではないかもしれない。軍にいた頃と比べれば、負荷の質が違う。警備員の仕事で使う筋肉と、戦闘訓練で使う筋肉は別物だ。ナノマシンは必要な部位を維持し、不要な部位を最適化する。俺の身体は、俺の意思とは無関係に、新しい生活に適応し始めている。
エマは大学の話をした。講義のこと、友人のこと、サークルのこと。普通の大学生の話だ。四年前、階段を降りられなかった少女が、キャンパスを走り、友人と笑い、講義に出席している。
「お兄ちゃんのおかげだよ」
エマが言った。あの動画のメッセージと同じ言葉。同じ感謝。同じ笑顔。
俺は頷いた。
だがあの時のように、胸の中に温かいものが広がらなかった。
エマの回復は嬉しい。それは変わらない。だが頭の片隅で、小さな声が囁いていた。——もし二年遅く生まれていたら。もし民間解禁がもう少し早かったら。俺が軍に入る必要はなかった。施術を受ける必要もなかった。エマは普通に病院に行って、普通にナノマシン治療を受けて、普通に回復していた。
俺の犠牲は、タイミングの問題だった。たった二年。その二年のために、俺は骨を軋ませ、筋肉を引き裂かれ、身体を兵器に作り替えた。
エマには言わなかった。言えるわけがない。エマの感謝を否定する権利は、俺にはない。エマが「おかげだよ」と信じているなら、それでいい。それが嘘になる必要はない。
だが俺の中で、何かが静かに軋んでいた。
エマと別れ際、ハグをした。エマは小さかった。二十歳になっても、俺の胸の高さまでしかない。エマの心拍が伝わってきた。七十二回。健康な若い女性の安静時心拍。四年前、病院のベッドで測った時は九十を超えていた。エマの身体は、確かに回復している。俺がいなくても、もう大丈夫だ。
——俺がいなくても。
その言葉が、思いのほか深く刺さった。
帰り道、大学の正門を出て通りに出た。
目の前にナノマシン・クリニックがあった。
大きな看板。清潔な白い外壁。ガラス越しに受付が見えた。待合室のソファに若い男女が座っている。雑誌を読みながら、順番を待っている。日常の一部として。特別なことではないものとして。
看板にはこう書いてあった。
「ナノメディカルプラス——神経疾患にも対応。最新ナノマシン治療で、あなたの歩みを支えます」
神経疾患にも対応。
エマの病気と同じだ。
今ならここで治せる。予約を取って、カウンセリングを受けて、保険を適用して。痛みなく。犠牲なく。誰の兄も軍に送らずに。
俺は看板の前で立ち止まった。
長い間、動けなかった。
通行人が俺の横を通り過ぎていく。母親と小さな子供。若い女性のグループ。スーツ姿の男性。誰も看板を気にしていない。当たり前の景色だから。ナノマシン・クリニックがある日常は、もう彼らにとっての「普通」だ。
クリニックの自動ドアが開いて、一人の女性が出てきた。俺と同じくらいの年齢だろうか。彼女は軽い足取りで歩いていく。表情は穏やかだ。何の施術を受けたのかは知らない。知る必要もない。だが彼女が三十分前にここに入り、痛みもなく施術を受けて出てきたのだということは想像がついた。
俺が「選んだ」ことの意味が、初めて本当に揺らいだ瞬間だった。施術の痛みではなく、任務の記憶でもなく、美容広告の苛立ちでもなく。エマと同じ病気が、街角のクリニックで治せるという事実。その事実の前で、俺の六年間が小さくなっていく。
看板から目を離した。歩き出した。
身体は変わらない。強化された足が、アスファルトを正確に踏む。砂粒の一つ一つが靴底を通して伝わる。この身体は俺のものだ。それだけは変わらない。
だがこの身体が持つ意味は、少しずつ、確実に、変わり始めていた。
駅に向かう途中、道路脇の排水溝が目に入った。雨上がりの水が、側溝をゆっくり流れている。
退役時の健康診断で、軍医が言っていたことを思い出した。
「代謝産物にナノマシンの残留が検出されています。微量ですが、汗や尿から排出され続けている。人体に害はありません。念のためお伝えしておきます」
念のため。
俺の身体からは、今もナノマシンが出続けている。汗に混じり、下水に流れ、処理場を経て河川に注ぎ、やがて海に至る。微量だと軍医は言った。だが十二人の被験者全員が排出している。今後は民間施術者からも排出される。何万、何十万という人間の身体から。
微量は、やがて微量ではなくなる。
俺はそのことを考えながら、駅の階段を降りた。改札を通り、ホームに立った。電車を待つ人々の群れに紛れた。誰も俺の身体の中にあるものを知らない。誰も俺の身体から出ているものを知らない。
電車が来た。乗った。座席に座った。窓の外を景色が流れていく。
普通の生活だ。
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