第10話:教室の不協和音と、泥沼の独占欲(中編)
午前中の授業が終わり、昼休みを告げるチャイムが校内に鳴り響いた。
途端に、教室は抑圧から解放された生徒たちの爆発的な喧騒に包まれる。
外は相変わらずの雨だ。窓ガラスは白く曇り、グラウンドは泥濘に沈んでいる。外という逃げ場を失った数十人の熱気が、閉鎖された教室という空間で逃げ道を探して渦を巻いていた。
弁当箱の蓋を開ける音、机を寄せてグループを作る椅子が床を擦る音。それらのノイズが、湿気をたっぷりと含んだ空気の層を震わせ、俺の鼓膜を容赦なく叩きつける。
朝、直樹に指摘された言葉が、まだ頭の片隅にへばりついていた。
『お前ら、絶対なんかあるだろ』
『なんか、見ててムカつくくらい甘ったるい空気出してんだよな、お前ら』
その言葉の棘が、胸の奥でチクチクと不快な痛みを放ち続けている。周囲の生徒たちが俺たちに特別な視線を向けているわけではない。だが、一度意識してしまった「他者の目」は、俺の省エネな日常に深刻なバグを生じさせていた。
俺はそそくさと鞄から文庫本を取り出し、席を立った。
右隣の三十七番の席では、すでにらむねが女子のグループに囲まれていた。完璧なチューニングが施された、少し高めで明るい声。
俺は彼女に視線を向けることなく、教室の後ろのドアから廊下へと逃げ出した。
向かう先は決まっている。旧校舎の二階、新校舎とを繋ぐ渡り廊下。
俺たちの、沈黙が許された秘密の避難所だ。
どんよりとした薄暗い廊下を歩きながら、俺は少しだけ早足になっている自分に気づき、自嘲気味に息を吐いた。
彼女が後からやって来ることを、当然のように期待している。自分がただの「無害な背景」ではなく、彼女にとっての「特別な休憩所」であることを、どこかで誇らしく思っている。
そんな泥沼のような感情を、俺はもう否定することができなかった。
しかし。
旧校舎の二階へ続く階段を上りきり、渡り廊下の入り口に足を踏み入れた瞬間、俺の足はピタリと止まった。
「――でさ、あの動画マジでウケるんだけど!」
「あはは、それ昨日俺も見たわ!」
吹き抜ける風の音だけが聞こえるはずのその場所に、見知らぬ男子生徒のグループが陣取っていたのだ。彼らは床に直接座り込み、スマートフォンを囲んで大声で笑い合っている。雨のせいでグラウンドや中庭が使えないため、校内のあらゆる空きスペースがこうして難民たちに占拠されているのだろう。
俺は舌打ちをしそうになるのを堪え、無表情のまま踵を返した。
俺たちの絶対的な安全地帯は、雨というイレギュラーによっていとも容易く蹂躙されていた。たったそれだけのことで、胸の奥に理不尽な喪失感と苛立ちが湧き上がる。
ここは俺たちの場所だ。そう主張する権利など、俺には一ミリもないというのに。
「……あ」
来た道を引き返そうとした俺の視界に、階段を上ってきたばかりの小柄なシルエットが映った。
らむねだった。
彼女もまた、教室の息苦しさに耐えきれず、弁当の時間を早々に切り上げてこの場所へ逃げてきたのだろう。だが、彼女の視線もすぐに渡り廊下を占拠する集団に向けられ、そして、小さく絶望したように肩を落とした。
俺とらむねの視線が、薄暗い階段の踊り場で交差する。
『どうしよう』
声には出さないが、彼女の少し潤んだ瞳がそう訴えかけていた。限界まで張り詰めた糸が、今にも切れそうになっている。ここで彼女を教室に送り返せば、午後の授業で彼女のチューニングは完全に破綻してしまうかもしれない。
俺は何も言わず、顎で階段のさらに上をしゃくった。
旧校舎の三階から屋上へと続く、普段は誰も使わない短い階段。屋上の扉は施錠されているため、そこへ向かう生徒は皆無だ。
俺が先に立って階段を上り始めると、らむねも微かな足音を立てて後ろからついてきた。
一段上るごとに、下の階の喧騒が遠ざかっていく。代わりに、剥がれかけたリノリウムの床の匂いと、長年積もった埃の匂いが濃くなってきた。
屋上へと続く扉の手前。四畳半ほどの狭い踊り場が、今日の俺たちの代替地だった。
小さな擦りガラスの窓から、鉛色の空の光がわずかに差し込んでいる。薄暗く、空気が淀んでいるが、誰の目にも触れないという点では完璧な密室だった。
俺は冷たいコンクリートの壁に背中を預け、ずるずると腰を下ろした。
らむねもまた、俺から数十センチ離れた壁際に、体操座りをするようにして座り込んだ。
狭い。
渡り廊下のような開放感がないため、二人の物理的な距離はかつてなく近かった。俺が少しでも右足を伸ばせば、彼女のローファーのつま先に触れてしまう。淀んだ空気を介して、彼女の体温そのものが直接肌に伝わってくるような錯覚さえ覚える。
外の雨音が、分厚いコンクリートの壁越しに低く籠もって聞こえる。
それ以外の音は、何もない。
「……はぁぁ」
らむねの口から、肺の中の空気をすべて絞り出すような、深く、重たい感嘆が漏れた。
その息の音を合図にするように、彼女の顔に張り付いていた「完璧なアイドル」の仮面が、音を立てて崩れ落ちる。
肩の力が完全に抜け、少しだけ猫背になる。眉尻が下がり、口元には疲労の色が色濃く滲んだ。
彼女は今、俺の目の前で、重たい着ぐるみを完全に脱ぎ捨てた。
『お前、気づいてないかもしれないけど、柚木さんの顔、お前といる時だけ全然違うぞ』
朝の直樹の言葉が、再び脳内でフラッシュバックする。 確かに違う。教室にいる時の、100点の正解を出し続ける彼女とは、まるで別人のようだ。 隙だらけで、無防備で、少し不細工で。 どうしようもなく、愛おしい。 俺はこの顔を、他の誰にも見せたくない。そう思っている自分を、もはや否定できなかった。 彼女の濡れた髪から漂うシャンプーの香りと、ほんのり甘い制汗剤の香りが、狭い踊り場に充満していく。俺の肺の裏側で、炭酸の泡がシュワシュワと絶え間なく弾け始めた。 この心地よくて危険な熱を冷ますように、俺は文庫本を開き、活字の羅列に目を落とした。当然、内容は一行たりとも頭に入らない。
どれくらいの時間が経っただろうか。 5分か、あるいは10分か。 俺たちは一言も言葉を交わさず、ただ雨音だけが響く密室の中で、互いの存在だけを許容し合っていた。 らむねの呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻していくのがわかる。チューニングによる摩耗が、この沈黙の中で回復していく音。 俺は文庫本から視線を上げず、ただ彼女の気配だけに全神経を集中させていた。
「ねえ、凪代くん」
不意に、らむねが口を開いた。
いつもより半音低く、少しだけ掠れた、彼女の「素」の声だ。
「なんだ」
俺はページをめくる手を止めずに、短く応える。
「雨、やまないね」
「梅雨だからな」
「明日も雨かな」
「天気予報ではそう言っていた」
他愛のない、本当に意味のない会話。だが、その言葉の応酬の間に存在する緩やかな「間」が、息苦しいほどに心地よかった。
らむねは体操座りのまま、膝の上に顎を乗せ、小さな窓から外の灰色を見つめている。
そして、ふと思いついたように、あるいは今日の弁当のおかずの話でもするように、全く悪びれない、平坦な口調で言った。
「あのね、さっき……三時間目が終わった後の休み時間なんだけど」
「……」
「隣のクラスの、サッカー部の男子にね、今度の日曜日、遊びに行かないかって誘われちゃった」
その言葉が俺の鼓膜を震わせ、脳の言語野で意味として処理されるまでに、数秒のタイムラグがあった。
活字を追っていた俺の視線が、ページの上で完全にフリーズする。
『今度の日曜日、遊びに行かないかって誘われちゃった』
それは、彼女の容姿とスクールカーストにおける立ち位置を考えれば、日常茶飯事とも言える出来事なのだろう。彼女は隠し事をするわけでもなく、ただ今日あった出来事の一つとして、俺という「休憩所」にこぼしただけだ。
だが。
俺の肺の裏側で、心地よい微熱として弾けていた微炭酸の泡が、その瞬間、ピタリと動きを止めた。
代わって、腹の底から、今まで感じたことのない異質な熱が這い上がってくる。
それは、炭酸のような軽やかなものではない。
もっと重たく、どす黒く、粘り気を持った熱。
「……そうか」
俺は、自分の声がひどく低く、冷え切っていることに気づいた。
文庫本を握る右手に、無意識のうちに強い力が籠もる。指先が白くなるほどに。
狭く薄暗い階段の踊り場で、雨音だけが、俺の内に芽生えた醜い感情を覆い隠すように響き続けていた。
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