番外編 第1話「魔王様の奔走と酸っぱい木の実」

 結婚式から数ヶ月が経ち、魔王城は平穏ながらも、ある一つの事件に揺れていた。

 原因は、勇者レオの体調不良である。

 新しい命を授かったレオの体は、想像以上に激しい変化に見舞われていた。勇者として鍛え抜いた強靭な肉体も、胎内に宿る規格外の魔力、魔王と勇者のハブリッドの前では、驚くほど無防備だった。


 「うっぷ……」


 深夜の寝室。レオが口元を押さえてベッドから起き上がると、隣で岩のように眠っていた巨大な塊が即座に反応した。


 「レオか? どうした、また吐き気か?」


 ベリアルが飛び起きる。普段の冷静沈着な魔王とは思えないほどの慌てぶりだ。

 3メートル近い巨体がオロオロと動き回り、レオの背中をさすろうとするが、その手が大きすぎて背中全体を覆ってしまう。


 「大丈夫だ……ちょっと、波が来ただけ……」


 レオは青白い顔で強がったが、額には脂汗が滲んでいる。


 「水か? それとも背中をさするか? 医者を呼ぶか?」


 「落ち着け……大袈裟だぞ、ベリアル」


 「大袈裟なものか。お前が苦しんでいるのだぞ。代われるものなら余が代わってやりたい」


 ベリアルは本気で悲痛な顔をしていた。世界最強の男が、妻のつわり一つに無力感を噛み締めている姿は、少し滑稽で、どうしようもなく愛おしい。

 レオは小さく笑い、ベリアルの太い指を一本だけ握りしめた。


 「……なぁ、ベリアル」


 「なんだ? 何でも言ってみろ。隣国を一つ滅ぼせば気が晴れるか?」


 「そんな物騒なことしなくていい。ただ……あれが食いたい」


 「あれ?」


 「北の森に生えてる、あの……名前は忘れたけど、赤くて酸っぱい木の実」


 レオの言葉を聞いた瞬間、ベリアルの顔色がさっと変わった。


 「『竜殺しの果実』か。あれは猛毒を持つワイバーンの巣窟にしか自生しない、極めて危険な……」


 「……食いたいなぁ」


 レオが上目遣いで、ぼんやりとつぶやく。

 その一言は、魔王にとって絶対命令に等しかった。


 「……待っていろ。すぐにとってくる」


 ベリアルは窓を開け放ち、夜空へと飛び出した。

 パジャマ姿のまま、冬の寒空へ。


***


 数十分後。

 窓から冷たい風と共に戻ってきた魔王の手には、山のような量の真っ赤な果実が抱えられていた。その肩には少し煤がついていたが、ベリアルは気にした様子もなく、満面の笑みで果実を差し出した。


 「ほら、レオ。一番甘酸っぱいのを選んできたぞ」


 「お前……本当に取りに行ったのかよ」


 「愛妻の願いだ。地獄の底だろうと行ってやる」


 レオは一つ手に取り、口に放り込んだ。

 強烈な酸味が口いっぱいに広がり、胃のムカつきがすっと引いていく。


 「……うまい」


 「そうか。それはよかった」


 ベリアルは子供のように破顔し、レオが実を食べる様子を、まるで世界一の名画でも鑑賞するかのように見つめ続けた。

 その日から、魔王城の食卓には、あらゆる種類の「酸っぱいもの」が並ぶようになったという。魔王の過保護すぎる愛と共に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る