プロローグ
グラスの氷が、静かに鳴った。
低く落とされた照明。
奥のソファから、ときどき小さな笑い声がこぼれる。
大石 拓也は、カウンターの端に座っていた。
この店に通うようになって、もう1年近い。
特別な理由があるわけでもない。ただ、週末になると、気づけばここにいる。
ウイスキーを一口。
氷がグラスの中で、ゆっくり回る。
その時、入り口のチャイムが鳴った。
「……あ、いたいた」
彼女の名は、ヒビキ。本名は知らない。
肩にかかる明るいボブ。
細身のジーンズに体のラインが出るトップス。
眠そうな目で、無邪気な笑顔を見せる。
「イシちゃん、お待たせー」
「いや、待ってねえし」
ヒビキは隣に腰を下ろした。
「今日結構遅くね?」
「うん。今日、店忙しくて」
「マリちゃん、水割り。薄ーいので」
二人は乾杯し、店員のマリと三人で話し始める。
マリが二人の仲をちゃかす。
「ヒビキちゃん、イシちゃんのこと好きだよね」
「全然だよ。既婚者興味ないし」
「いや、もうとっくに逃げられてるけどな」
いつもの夜が続き、夜も更けたころ。
ヒビキはグラスを置き、ちらりと拓也を見る。
「……これ飲んだら、行こか?」
拓也はこくり、と頷く。
しばらくして、二人は席を立った。
店の奥へ。
シャワーを浴び、プレイルームへ入ると、店内の笑い声が遠くなる。
薄暗い照明の下、ヒビキはバスローブを脱ぎ捨てる。
小柄で細身だが、しなやかで女性らしい肢体。
二人の影がゆっくりと重なった。
拓也の指が、ヒビキの背中をなぞる。
恍惚とした表情。
重なる唇。
言葉は、ほとんどない。
ただ、肌を重ねる。
呼吸が重なる。
夜が、ゆっくりと深くなっていった。
しばらくして、火照りが冷めたころ。
二人はソファーで寄り添っていた。
ヒビキは拓也の胸に顔をうずめながら、ぽつりとつぶやく。
「……ねえ、イシちゃん」
拓也が顔を向ける。
ヒビキは少しだけ口を開き――
「……」
小さく笑った。
「うーん、なんでもない」
「なんだよ」
ヒビキは起き上がった。
「ほら、帰ろ」
外に出ると、空が白みはじめていた。
ヒビキは大きく背伸びをする。
「……もう、イシちゃん、激しすぎ……」
「どっちがだよ」
拓也が微笑むと、ヒビキは笑って手を振った。
「じゃあね」
駅の方へ駆けていく。
振り返りもしない。
友達ではない。
彼女でもない。
ここだけの関係。
拓也は反対の道を歩いた。
やがて、家に帰り着く。
誰もいない部屋。
コーヒーを一杯飲んだあと、ベッドに入る。
――そんな、いつもの朝帰り。
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