第3話「三人の夜」
まだ人の少ない、夜の早い時間帯だった。
プレイルームの照明は低く、静かな空気が満ちている。
拓也とヒビキは、言葉を交わすことなく、肌を重ねていた。
触れ合う温度。
重なる呼吸。
いつもと同じはずの流れ。
けれど、その奥に、わずかな違和感が紛れていた。
やがて、二人はゆっくりと動きを止める。
荒くなった息を整えながら、マットレスの上で体を預け合った。
ヒビキは、乱れた髪を指で整えながら、拓也を見た。
「……イシちゃん……どうしたの……」
「……ん?」
「……今日、ちょっと違うね」
少しだけ間を置いて、続ける。
「激しかったけど……なんか、私のこと見てない感じがした」
軽く笑うように言ったが、その視線は外していなかった。
「好きな人でも……できた?」
冗談めかした言い方だった。
拓也は、わずかに眉をひそめる。
「何言ってんだよ……」
「だってさ、こんな時間に誘うの、珍しいし」
「……なんかあったのかな、って思うじゃん」
拓也は一瞬だけ言葉を探す。
――言いかけて、やめた。
「……何もねえよ」
「じゃ、いいや」
立ち上がり、バスローブを羽織る。
「戻ろ。喉乾いたし」
ヒビキは、拓也の手をとった。
拓也とヒビキが初めて会ったのは、店に通いはじめて1ヶ月くらいしたころ。
カウンターで一人で飲んでいたとき、ヒビキに声をかけられた。
彼女曰く、好きだった高校の先生に似ていたらしい。
それ以来、何度も肌を重ねている。
最初はヒビキの強引な誘いに困惑していた拓也だったが、ヒビキと話しているうちに、なんとなくウマが合う、心地よさを感じていた。
ヒビキがこの店に来たきっかけは、彼氏に無理やり連れてこられたかららしい。
悪い男だった、と言っていた。それからすぐ、捨てられたと。
彼女は、笑って言っていた。
シャワーを浴びた二人が、バーカウンターに戻ってくる。
白いブラウスの女性が、マリと静かに話していた。
黒髪。
落ち着いた佇まい。
――美鈴だった。
「……あっ……」
思わず声が漏れる。
美鈴も気づき、こちらを見る。
近づいてくる拓也に、美鈴は声をかけた。
「こんばんは、……イシちゃん」
その呼び名に、拓也はわずかに戸惑う。
「マリさんに教えてもらったの」
マリが、いたずらっぽく笑った。
「あ、そう……」
その間に、ヒビキが一歩前に出る。
「……あの、お知り合い?」
「……ああ。こないだ、少し」
短く答える。
「そうなんだ」
ヒビキは、二人を見比べた。
「わたし、ヒビキです。イシちゃんの……まあ、友達みたいなもん」
「美鈴です。よろしく」
マリを交えて、四人は話しはじめる。
「なんで二人は、会ったばかりなのに、仲いいのさ」
「いや……実は、昔の知り合いでさ」
「そう、偶然会って」
「あ……そうなんだ……」
ヒビキは少し口を尖らせた。
夜が深くなり、店内の空気もゆるやかに変わっていく。
ヒビキが、グラスを置いてにっこり笑った。
「ねえ、せっかく三人揃ったんだし……どう? 奥で一緒に遊ばない?」
ヒビキの言葉に、拓也の表情がわずかに固まった。
「おい、ヒビキ……」
「えー、いいじゃん。美鈴さんも興味ありそうだったし。ね?」
ヒビキは軽く肩をすくめ、いたずらっぽく美鈴の方を向いた。
美鈴は一瞬、息を飲んだ。
指先を強く絡め、膝の上でぎゅっと握りしめる。
心臓の音がうるさい。
夫に何年も求められず、一人で寂しさを紛らわせてきた体。
それが、こんな提案を前にして熱を持ち始めていることに、自分でも驚いていた。
胸の奥に、はっきりとした恐怖があった。
知らない女性と、拓也と、こんな形で――。
でも、さっきカウンターでヒビキが拓也に自然に寄り添っていた姿を見た瞬間。
胸の奥に抑えきれない好奇心と、ほんの少しの「負けたくない」ような気持ちが混じり合っていた。
このまま一人で帰ったら、また後悔するだけかもしれない。
――そう思った瞬間、決意のようなものが胸に落ちた。
「……少しだけ……興味は、ありますけど……」
声が震えてしまった。
美鈴は慌てて目を伏せたが、すぐにゆっくりと顔を上げ、唇を軽く噛んだ。
「私、こういうの全く初めてで……怖いんですけど……」
「でも、このまま帰るのも、きっと後悔しそうで」
ヒビキは満足げに目を細め、明るく笑った。
「大丈夫だよ。美鈴さん、嫌だったらすぐ言ってね」
「イシちゃんは優しいから、ちゃんと止めてくれるし」
拓也は眉を寄せ、ため息をついた。
「……無理にするもんじゃないだろ」
「な、美鈴さん」
その視線は真っ直ぐ美鈴に向けられていた。
心配と、わずかな欲情が混じった目。
美鈴は数秒、唇を軽く噛んだ後、小さく首を横に振った。
「……大丈夫、です。試してみたい……」
「少しだけ……このまま帰るのも、寂しいし」
言葉を口にした瞬間、指先が細かく震えた。
恥ずかしさと、期待と、罪悪感が一気に体を熱くする。
ヒビキは立ち上がり、明るく言った。
「じゃあ、決まり! 行こっか」
シャワールーム。
水音が静かに響く中、美鈴はどこか落ち着かない様子で立っていた。
ヒビキの視線を時折感じ、肩をわずかにすくめる。
拓也はそれに気づき、そっと彼女の背中に手を添えた。
「……無理しなくていいから」
「大丈夫……です」
美鈴の声は、ほんの少し震えていた。
夫に長く求められなかった体。
それが、こんな状況で熱を帯びていくことに、彼女自身が戸惑っていた。
しばらくして、三人はプレイルームに入った。
薄暗い照明の下、空気が甘く重くなる。
並んで、ソファーに座った。
「どうしよっか……」
ヒビキが軽く笑って言った。
「じゃあさ、先に私とイシちゃんでやるから、美鈴さんは見ててよ」
「入ってきてもいいから」
美鈴は、一瞬だけ戸惑いを見せる。
「……はい」
ヒビキは迷わずバスローブをはだけ、拓也に身を寄せた。
慣れた手つきで唇を重ね、指を絡める。
拓也の体が反応するのを、美鈴はソファーから少し離れた位置で見つめていた。
最初は、ただ見ているだけだった。
前は、少し離れたカップルの様子を覗いていただけだったが、今回は違った。
初めて間近で目にする生々しい光景。
ヒビキの吐息が湿り気を帯び、拓也の指が彼女の肌を滑るたび、美鈴の胸の奥がざわついた。
恥ずかしいのに、目が離せない。
今までに味わえなかった「激しさ」と「自由」が、そこにあった。
やがて、美鈴の呼吸が少しずつ乱れ始めた。太ももをそっと擦り合わせる。
拓也がこちらを見た。目が合う。
美鈴は逃げなかった。
むしろ、潤んだ瞳で小さく頷いた。
拓也はヒビキから少し体を離し、美鈴を抱き寄せた。
唇が触れた瞬間、美鈴の体がびくりと震えた。
柔らかく、熱いキス。
ヒビキの視線を感じながらのそれは、背徳感で頭がぼうっとした。
三人の息遣いが、湿った空気の中で混ざり合う。
ヒビキが美鈴の肩に手を置き、優しく撫でる。
「大丈夫だよ……気持ちいいでしょ?」
美鈴は頷く代わりに、小さな喘ぎを漏らした。
拓也の指が彼女の胸を、腰を、ゆっくりと這う。
ヒビキは横から美鈴の首筋に唇を寄せ、軽く吸う。
抑えていた声が、次第に大きくなっていく。
羞恥が溶け、代わりに熱い波が体を駆け巡る。
夫に一度も与えられなかった「満たされる感覚」が、ここにあった。
拓也も、美鈴の反応に引き込まれていた。
彼女の体が自分を求めるように動くたび、あの時の記憶がフラッシュバックする。
あの時、怖くなって離した少女が、今、こんな場所で自分を求めている。
その事実に、胸がざわついた。
ヒビキは、二人の様子をすぐそばで見ていた。
最初はいつもの延長のはずだった。
でも、何かが違う。
拓也の目が、美鈴に向かうときの熱量。
美鈴が拓也に触れる仕草の、どこか懐かしげで甘い柔らかさ。
今まで自分が見せてきた「ここだけの関係」とは、明らかに違う何かがあった。
胸の奥が、ちくりと痛む。
興奮しているのに、息が浅くなる。
見ていられなかった。
声に出せない言葉が、喉に詰まる。
やがて、ヒビキは小さく息を吐いた。
「……あのさ」
二人がこちらを向く。
「ちょっと用事思い出したから、先帰るわ」
言いながら、ヒビキは少し視線を逸らした。
それから、拓也を見る。
何かを言いかけて――やめる。
ほんの一瞬だけ、その場に立ち尽くす。
「……二人で、ゆっくり楽しんどいて」
いつも通りの軽い調子で笑ってみせる。
そのまま、振り返らずに部屋を出た。
扉が閉まる音が、静かに響く。
残された静寂の中で、拓也は視線を落とした。
「……どうしたんだろう」
美鈴も息を整えながら、小さく首を傾げる。
「……少し、休もうか」
二人は並んで横になり、寄り添った。
天井を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整える。
しばらくして、美鈴が静かに口を開いた。
「私……ずっと忘れ物してたの」
拓也は、顔を向ける。
「拓也くんが、うちに来た日のこと……」
「ずっと、残ってて」
言葉を選びながら、続ける。
「あのとき……何も言えなくて」
「……ごめん、俺、あの時まだガキだったから」
「どうしたらいいか、わからなくて」
「うん……そうよね。今なら、わかる」
美鈴は、やわらかく笑った。
「私も、ちゃんと伝えられなかった」
少しだけ間を置く。
「……好きだったの」
静かな声だった。
けれど、はっきりしていた。
拓也は、息を止める。
「……俺も」
「好きだった」
美鈴は、目を細めた。
「ありがとう」
そして、少しだけ遠くを見る。
「あの時、そのまましてたら、どうなったのかな」
美鈴は、一息おいた。
「ボタンのかけ違えだったんだよね。きっと」
「……たぶん」
二人は、そのまま唇を重ねる。
今度は、迷わずに。
再び肌と肌が重なりあう。
静かな夜が、ゆっくりと深くなっていった。
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