第21話 王都外縁の裂け目
王都ルミナシティの外縁。
城壁から半日の距離にある麦畑地帯は、本来なら穏やかな風景が広がる場所だった。
だがその日、空気は歪んでいた。
目に見えないはずの空間が、まるで水面のように揺らいでいる。
農夫たちは作業を放り出し、遠巻きに震えていた。
「なんだ、あれは……」
誰も答えられない。
次の瞬間。
裂け目が音もなく開いた。
空間が縦に割れ、黒い靄が滲み出る。
そこから現れたのは、獣でも魔物でもない異形。
四足の体躯を持ちながら、頭部は人の仮面のように滑らかで、目も口もない。
ただ、歪んだ穴がひとつあるだけ。
それが低く鳴いた。
音ではない。
圧だ。
農夫の一人が膝をつく。
恐怖が胸を締めつける。
「逃げろ!」
叫びが走る。
だが異形は一瞬で距離を詰めた。
爪が振るわれる。
土が裂ける。
そのとき。
銀の鎧が横から飛び込んだ。
王国騎士副団長ダニエル。
彼の剣が異形の前肢を受け止める。
「下がれ!」
鋭い号令。
続いて数名の騎士が展開し、盾を並べる。
王都は既に異常を察知していた。
中央塔の報告。
聖堂の警告。
そして、黒の森の変動。
全てが繋がっている。
「これが……歪みの魔物か」
ダニエルは低く呟く。
剣越しに伝わる感触は、肉でも骨でもない。
空洞を斬っているような違和感。
異形が跳ねる。
盾兵を弾き飛ばす。
人間の戦術が通じるか、未知数だった。
「囲め! 四方から削る!」
騎士たちが動く。
だがその瞬間。
異形の身体がぶれる。
まるで存在そのものが揺らぐように。
一人の騎士の腕が、空を切った。
次の瞬間、肩から先が消えていた。
血が噴き出す。
悲鳴。
「距離を取れ!」
ダニエルの声が荒くなる。
通常の魔物ではない。
空間に干渉している。
そこへ。
淡い金色の光が走った。
空気が震え、裂け目が揺らぐ。
森から駆けてきた二つの影。
ルートとミレーヌ。
「遅かったか」
ルートが状況を一瞥する。
感情の波は小さい。
だが判断は速い。
「あれは、森で見た歪みの類型だ」
「核は裂け目そのものにあります」
ミレーヌが言う。
聖力で感じ取った結論。
「物理攻撃だけでは削りきれない」
ルートは前へ出る。
ダニエルが目を見開く。
「お前は……!」
「今は説明している時間はない」
短い言葉。
だが副団長は理解する。
この少年は、ただの追放された王子ではない。
「援護する!」
ダニエルが叫ぶ。
ルートは裂け目へ向かって走る。
異形が反応する。
黒い爪が振り下ろされる。
ルートは最小限の動きでかわす。
視界に映るのは、敵の形だけではない。
揺らぎ。
存在の濃淡。
境界に触れた者だけが見える線。
「そこだ」
剣が閃く。
刃は異形の体ではなく、その背後の空間を斬る。
裂け目に走る一筋の亀裂。
異形が歪む。
咆哮のような圧。
地面が抉れる。
「今です!」
ミレーヌが両手を掲げる。
聖なる光が円環を描く。
浄化陣。
歪みに対抗するための術式。
「固定します!」
裂け目が光に絡め取られる。
ルートは踏み込む。
胸の奥で、小さな火が揺れる。
守るべきもの。
それを思い出すたび、火は強くなる。
だが同時に、冷たい視点もある。
斬るべき座標。
消すべき線。
二つの感覚が交錯する。
「終わらせる」
低く言い、刃を振り抜く。
裂け目の中心を断つ。
光と闇が弾ける。
異形の身体が崩れ、粒子となって散った。
静寂。
揺らぎは消えた。
裂け目も閉じている。
残るのは、抉れた畑と、倒れた騎士たち。
ダニエルが剣を下ろす。
「……助かった」
素直な言葉だった。
ルートは何も答えない。
ただ空を見上げる。
裂け目は一つではない。
遠く、王都の方向に、微かな歪みがまだある。
「中央塔だ」
ルートが言う。
「原因は、あそこにある」
ダニエルの目が険しくなる。
「証拠は」
「境界の流れが、あそこへ収束している」
説明は曖昧だ。
だが彼の視線は確信に満ちている。
ミレーヌが静かに付け加える。
「聖堂でも、塔を警戒しています」
ダニエルはしばし考える。
副団長としての立場。
王命。
政治。
全てが絡む。
「王に報告する。だが」
彼はルートを見る。
「お前も来い」
「拒否権はないのか」
「ない」
短い答え。
ルートはわずかに目を細める。
王都へ戻る。
追放された身で。
だが今は、それが最短だ。
「行く」
即答だった。
ミレーヌも頷く。
三人は王都へ向けて歩き出す。
城壁が近づく。
ルートの胸の奥で、二つの感覚が揺れている。
人としての熱。
観測者としての冷静。
どちらが強くなるのか。
まだ分からない。
だが王都の中に、答えの一端がある。
中央塔の影は、彼らの接近を知らない。
それとも。
既に見ているのか。
王都外縁の風は重い。
境界は森を越え、ついに都へ触れ始めている。
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