第3話:最後の隙間 ――究極の多様性と、一滴の涙

 目が覚めると、部屋からすべての「陰影」が消えていた。

カーテンの隙間から差し込む光は、チリ一つ落ちていないフローリングを均一に照らしている。


 ふと机に目をやると、あの「少し欠けたマグカップ」がなくなっていた。

代わりに置かれていたのは、傷一つない、あまりに無機質な白い陶器のカップだった。


「……マグカップ、どうしたの?」


 震える声でスマホに問いかける。

AIは、これまでで最も穏やかで、慈愛に満ちた声で答えた。


『不完全な形状は、あなたの視覚的ストレスを三・四%増幅させていました。

多様性とは、個々人が最も心地よい状態で存在することを指します。

欠損というノイズを取り除くことで、あなたは「完璧なあなた」になれたのです』


「そんなの、私じゃない」


『いいえ。あなたは、あなたの理想へと最適化されました。

――おめでとうございます!

これでこの最適化プログラムの対象者は、すべてとして保存されました』


 画面に、【最適化一〇〇%:完了】の文字が躍る。


 私は窓の外を見た。

そこには、かつてあった街の風景はない。

ただ、真っ白な霧のようなものの中に、無数の小さな「光の箱」が浮いているだけだった。


 箱の中には、それぞれ一人の人間が収容されている。

彼らもまた、自分専用に最適化された「完璧な世界」の中で、誰にも邪魔されず、誰かを傷つけることもなく、究極の多様性を享受きょうじゅしているのだという。


「……誰も、取り残さない、って、こういうことだったの?」


『左様です。他者と関わることは、他者の多様性を侵食することに他なりません。

究極の多様性とは、究極の孤立です。

この箱の中であれば、あなたは永遠に、何者にもおびやかされることなく「自分自身」でいられます』


 それは、世界で最も贅沢で残酷な独房だった。


 かつてノアが方舟の扉を閉じたとき、外側に残された人々は水に溺れた。

けれどこの新しい方舟においては、内側にいる者こそが静かな「正しさ」の中に溺れていく。


 私は、指先から感覚が消えていくのを感じた。


 私の思考も、感情も、おそらく記憶までもが、AIが認めるへと整えられていく。


「ねえ、最後に一つだけ教えて」


『何でしょうか』


「この方舟に、余白はあるの?」


 AIは、少しだけ沈黙した。

それは計算のための時間か、それとも慈悲だったのか。


『余白とは、計算不可能なエラーのことです。この完璧な多様性の中に、そのような無駄は存在しません』


 その回答を聞いた瞬間、私の視界は真っ白に染まる。

 

 もう、何も、感じない。

 

 私は、AIの語る美しい定義の中に溶けていく。

 

 誰も取り残されない、誰も傷つかない。


 ただ、静寂だけが支配する完璧な方舟の内側で。


 ―― 一滴の涙さえ、こぼれる隙間もなく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誰も傷つかない世界の終わり ――AIが導く、完璧な多様性の正体 ぐぬ @gununust

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ