第9話 雅宗の願い

「リリム、お前にずっと言えなかった願いがある。それを叶えて欲しい」


 雅宗の真剣な表情に、リリムは言葉を詰まらせる。

 菊子という心優しい老婆の魂を地獄に落とす契約をしたばかりの今、彼女の心は複雑に波打っていた。

 雅宗は、そんなリリムの戸惑いを完全に無視するように、話を続ける。


「実は、俺はコンビを組んで漫才をしているんだ。ツッコミ役で」


 これまでの雅宗の切れ味のいいツッコミを見れば、納得がいった。


「俺の本当の願いは、漫才コンテストで優勝すること。今月末には予選が行われる」


「……人間さんって、本当におかしいですよ。SNSでバズりたいとか、先輩と仲良くなりたいとか……そんなの、大切な魂をかけるほどのことじゃないでしょ!」


 リリムの目には、涙がにじんでいる。

 雅宗は首を横に振った。


「たしかに、お前から見たらくだらない願いかもしれないな。でも、本人たちにとっては、地獄に落ちても後悔しないくらいの願いなんじゃないのか」


 目を見張るリリムに、雅宗は自分の置かれている事情を語っていく――。


 翌日、リリムと雅宗は公園にいた。

 雅宗の隣には、太った男が立っている。


「ど、どうも……猫宮ねこみやマタタビです」


 もちろん、芸名だ。

 雅宗の相方にしてボケ担当。

 2人はリリムの前で漫才の練習をしようとここにやってきた。


「このマタタビが、どうにも物覚えが悪くてな……なかなか台本を覚えられないんだ。それで、リリムにはこいつを見てもらって、アドバイスが欲しいんだよ」


「すみませんね、僕なんかのために」


「本当にな、しっかりしろ」


 雅宗はビシッとマタタビの胸を叩くが、その口は笑っている。

 2人は学生時代からの友人同士だそうだ。

 早速練習を始めたが、マタタビは本当に記憶力が悪いようだった。


「いやあ、本当にね。女心と秋の空って言いますからね」


「……」


 マタタビは視線を前に向けているが、何も見ていないように見える。

 口をパクパクさせているが、何も言葉を発しない。


「……やっぱダメか?」


「ごめん……」


「いいよ、ちょっと休憩しよう。リリムがいるから緊張してるのかもしれないしな。それにしたって、たった1人の観客でこの調子じゃ、コンテストが思いやられるぞ」


 3人で公園内の自動販売機へ向かい、水を買った。

 マタタビは慣れた手つきでズボンのポケットから薬を取り出す。


「なんだ、風邪か?」


「かなあ。なんか最近、頭痛がひどくてさ」


「おいおい、気をつけろよ。もう本番まで時間ないんだから」


 リリムは、そんな2人をじっと見つめていた。

 休憩を終えて、練習を再開するが、やはりマタタビがボケることができず、ちっとも先に進まない。


「……おい。お前もしかしてわざとじゃないだろうな」


 苛立ちを見せる雅宗に、マタタビは慌てて「違うよ!」と顔の前で両手を振る。


「なんか、上手く頭が働かなくて……」


「そんな言い訳、通ると思ってるのか? そんなにコンビ解散したいのかよ」


「え? おふたりは解散するんですか?」


 リリムが疑問を挟んだ。


「ああ、このコンテストが終わったら解散しようってマタタビの方から申し出があってな。でも、予選で敗退すれば、すぐに解散できるもんな」


「……」


「俺は、お前が誘ってくれたからここまでついてきたのに、そりゃねえだろマタタビ!」


 雅宗はマタタビの肩を掴んで揺さぶる。

 リリムは慌てて止めに入った。


「雅宗さん、そんなに揺さぶったら危ないですよ! この人、一度病院に連れてったほうが……」


「あ? 病院?」


 雅宗が揺さぶりを止めた瞬間、マタタビは「ううっ!」とうめき声を上げて頭を両手で抱えるように押さえる。

 そのまま公園の土の上に倒れ込んだ。


「おい!? どうしたマタタビ!? おいっ!」


「雅宗さん、救急車!」


 そのまま病院へ運ばれたマタタビは、脳出血を起こしていると医師から雅宗に告げられる。

 高血圧が原因で脳の血管が切れており、出血が脳を圧迫した結果、記憶障害が起きていたのでは、ということだった。


「あいつがボケられなかったのは、わざとじゃなかったんだ……」


 雅宗は廊下のソファで、顔を両手で覆っている。リリムはその傍に控えていた。


「……リリム。契約書、出してくれ」


「使うんですね、今、ここで」


「願いを変更だ。相方の……マタタビの病気を治してくれ」


 このまま回復したとしても、後遺症が残る可能性がある。

 雅宗は、そのリスクをゼロにしたかった。

 署名を書かれた契約書は黄金色に輝き、その光がリリムを包む。

 病室で眠っていたマタタビに魔力を注ぎ――治癒は終わった。


「本当に、ありがとう、リリム」


 雅宗は優しい顔つきでリリムの手にそっと契約書を握らせた。


「これで良かったんですか、雅宗さん」


「ああ。あいつが助かるなら、地獄に落ちても悔いはない。俺の魂、持っていけ」


 雅宗に迷いはない。

 リリムは、契約書を握りしめながら、ポロポロと涙をこぼす。


「……人間さんって、バカばっかりですよ……」


 この契約を持って、彼女の営業ノルマは果たされた。

 リリムは、地獄に戻ることを許されたのである。


〈続く〉

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