8話「夢語り」

 夕方になると、三人は宿の一階にある小さな酒場へ場所を移した。


 店は狭いが、暖かい。テーブルはせいぜい三、四つ。それでもどの卓にも傭兵たちが陣取り、杯を傾けながら低い声で言葉を交わしていた。


 壁には濡れた毛皮けがわが何枚も掛けられ、炉の上の鍋から水滴が落ちるたび、しゅうっと湯気が立つ。空気には、麦酒酵母のほろ苦さ、湿った毛皮の生臭さ、にんにくと油の混じったスープの匂いがいっぺんに染み込んでいた。


 やがて、黒っぽい焼き色のついたパンと、淡い黄金色のスープ、癖の強い香りの麦酒ビール、それから白い牛乳が数杯、卓に置かれた。


 カイエルは待っていたとばかりにパンを一切れつかむ。表面は霜を食った樹皮じゅひみたいにざらついて硬く、指先が痛いほどだ。だが迷いなく手で割り、スープに浸して口へ放り込む。


 ひと口、またひと口。スープが染みる暇もなく口の中でばさりと崩れ、香ばしさが喉に引っかかる。それでも口は止まらなかった。


 レンがその様子を見て、黙って自分のパンを半分に割って差し出した。


「食べないのか、レン。腹、減ってるだろ」

「硬いパンは……ちょっと苦手で」

「贅沢言うな。じゃあ遠慮なくいただこう」


 カイエルは受け取り、平然と言った。


 シエルは二人を見て小さく笑った。昨日まで汚れでまだらだった顔はすっきりしていて、絡まっていた前髪も整い、艶が戻っている。隔離外套の隙間からこぼれるエメラルドの髪が火の光を受けてきらりとした。肌も、よく磨かれた白磁はくじみたいに滑らかだ。


 次の瞬間、シエルはしれっと麦酒の杯に手を伸ばしたが――


「だめだ」


 カイエルは杯を押さえ、言い捨てた。シエルはむっとして睨み返す。


「まだ子どもだろ」


 その言葉にシエルの表情がさらに尖る。


 レンがため息まじりに笑い、代わりに牛乳の杯をシエルの前へ滑らせた。シエルは杯を取っても、しばらくカイエルを睨み続け、ようやくごくんと一口飲む。口元に真っ白な牛乳の輪をつけたまま、麦酒をあおるカイエルの喉仏をじっと見上げた。


 カイエルは自分の杯を一息に空け、たん、と置く。ひとつしゃっくりをしてから口を開いた。


「……で。お前ら、夢はあるか」


 唐突な問いだが、目だけは揺れずにレンとシエルを順に捉えていた。


 レンはパンをかじり、片手で眉間を押さえながら苦笑する。


「はあ……また始まった」


 カイエルはシエルの麦酒の杯を押さえたまま言葉を続ける。


「俺は黒雪のない、皆が安全に暮らせる国を作る。それが夢だ。レン、お前は?」


 レンはしばらく麦酒の取っ手を指でいじってから、黒い手袋に包まれた自分の右手をそっと見下ろし、静かに答えた。


「僕は……いつか体の不自由な人のために、人工の身体を作ってみたいです。目とか、腕とか、脚とか。魔導工学で」


 そして付け足す。


「でもカイエル様、毎回同じ話で飽きません?」

「はは。大きい夢じゃねえか。黒雪がいつか消えるなら、俺がその夢を叶えてやる」


 カイエルは指で卓をとん、と叩いて笑った。


 次に彼はシエルへ向き直った。わずかに顎を引き、彼女と視線を合わせる。


「じゃあ次。シエル、お前はどうだ。夢はあるか?」


 その問いに、シエルの肩が小さく跳ねた。彼女はテーブルの上にある、カイエルが食べ残したパンの欠片を見つめる。やがて椅子の脇に立てかけてあった杖をゆっくり取り上げ、青い文字を一字一字、丁寧につづった。


『パン屋をやりたいです』


 カイエルは数秒、瞬きだけしてそれを読み、真顔のまま、ため息まじりに言った。


「……ずいぶん素朴だな」


 言い終えるより早く、シエルは視線を膝へ落とし、唾を一度ごくりと飲み込んだ。杖を握る手が落ち着かない。


 そのとき、カイエルが半拍遅れて笑い出した。


「でも、素朴だからいい。ははっ!」


 杯を持ち上げ、揺らして言う。


「気に入った。いつかお前に王都一のパン屋を建ててやる。で、毎日最高のパンを俺に献上けんじょうしろ」


 シエルは顔を上げてカイエルを見返し、頬を少し膨らませ――やがて口元をゆるめた。そしてパンをスープにどっぷり浸し、口へ運ぶ。


 次の瞬間。


「け、けほっ……!」


 口の中の唾は一瞬でパンに吸われ、乾いた喉の奥へ、スープの黒胡椒の辛味がべたりと貼りついた。シエルは何度もむせ、涙目になりながら牛乳を持ち上げてごくごくと飲んだ。


「おいおい。パンもまともに食えないでパン屋かよ」


 カイエルが腹を抱えて笑った。


 そうして三人が笑いながら話しているところへ、酒場の若い女が二人、カイエルとレンのほうへ寄ってきた。シエルにちらりとだけ視線を投げ、口角を片方だけ、すっと吊り上げてから。


 外の凍える寒さなど忘れたみたいな、胸元の大きく開いた薄い白布の服。雪粉みたいに白い髪が腰まで落ちている。


 片方が横髪を耳の後ろへ払うと、カイエルの太腿に手を置き、ためらいなく隣に腰を下ろした。


「何の話をそんなに楽しそうにしてるの? あたしたちも混ぜてよ、傭兵さん」


 玉がぶつかるみたいに高い声。同時に、シエルの目がすっと細くなった。杖を握る手に力が入る。


 カイエルは女の手を取って外し、淡々と言う。


「夢の話だ。……あんたは夢があるか?」


 女は下唇を軽く噛み、目を細めて笑う。身を寄せるように前へ傾いた。


「女の夢なんて、みんな同じじゃない? 頼れて責任感のある男と結婚すること。……誰かさんみたいに」


 もう一人はレンの後ろから近づき、毛の一本もない白い手を彼の胸元に置き、指先でゆっくり撫でた。


 カイエルの隣に座った女を睨むシエルの瞳が、かっと見開かれる。もともと細く吊り上がった瞳孔が、さらに鋭さを増した。縄張りを踏まれた獣みたいに。唇の隙間から鋭い犬歯が一瞬覗き、杖の青がごくわずかに揺らいだ。


 その刹那、カイエルは女の額に指を当て軽く押し戻した。


「残念だな。俺は頼れもしないし、責任感もない。ガキみたいな男だ」


 レンも咳払いし、胸元の手をそっと外した。


 カイエルは麦酒を取り直し、底に残った泡を見つめたまま続ける。


「男がいなくて寂しいのは分かるが……まだ若い。自分の体は大事にしろ。ひと時の欲に負けて生まれた、父親のいない子に何の罪がある」


 女の表情が凍りつき、低い、這うような声で呟いた。


「は? 何それ……。あたしは……」


 だが最後まで吐き出せなかった。眉がひくりと動き、椅子を蹴って立ち上がる。背を向け、聞こえるか聞こえないかの声で吐き捨てた。


「……ガキ連れのくせに。趣味わる……」


 ガタッ!


 レンが勢いよく立ち上がった。普段は柔らかな琥珀色の瞳が、鋭く細まっている。


 カイエルが右手を上げて止めた。


「レン。いい。座れ。……よくあることだろ。相手にするだけ損だぞ」


 レンは舌打ちし、女たちの背に視線を刺しながら座り直した。


 カイエルは、細かく震えるシエルの手を見て、パンを一つ取って半分に割り、彼女のほうへ押しやった。


「ほら。さっきの話、続けよう」


 シエルはしばらく迷い、ようやく杖を下ろしてパンを受け取った。しかしその後も、彼女の口元は下がったままで、なかなか戻らなかった。



***



「ああ、重てぇ……やっぱりこうなると思った……」


 レンは、力なく寝言を垂れ流すカイエルを肩に担いだまま宿へ戻ると、ベッドの上にほどよく、それでも慎重に放り投げた。


 カイエルはそのまま顔から枕に突っ込み、「むにゃ……」とくぐもった音を漏らしたかと思うと、遊び疲れた子どもみたいにすぐ鼾を立てはじめた。投げ出された長い手足が、次第にベッドの端へだらりと垂れ下がっていく。


 レンは何も言わず窓辺へ行き、カーテンをそっと掴んだ。外をさっと目でなぞると、家々の灯りが一つ、また一つと消えていく。橙の明かりが減るほど、村は雪の中へ静かに沈んでいった。


 冷気を遮るようにカーテンを閉め、振り返る。部屋の隅には、シエルの分厚い上着がきっちり角を合わせて畳まれていた。


 そしてその隣――カイエルの隣のベッドで、シエルは両膝を抱えたまま、自分の胸元をぼんやり見つめてしゃがみ込んでいた。


 薄い布の部屋着には淡い灰色の染みがところどころ残っているが、整えられた裾は体の線に沿って静かに垂れている。露骨ではないものの、なだらかな曲線を描く胸のふくらみが布を押し、そこから続く細い腰がかすかに目に入った。


 そして背中――水に溶かしたみたいな淡い緑が、先端へいくほど灰色へと滲んでいく。大人の男の肘ほどの小さな翼が、畳まれては開き、また畳まれては開いた。


 レンは彼女をちらりと見てから自分のザックへ向かい、帳面とペン、それから無骨な茶色い紙に包まれた小さな塊を取り出した。


 彼はシエルのベッドの端へその包みを音もなく置き、カイエルの向かいのベッドに腰を下ろして帳面を開いた。ペン先が紙を掻く、さらさらという音が、部屋の静けさを細く裂いて続く。


 シエルは膝から顔を上げ、包みを手に取ると、指先で紙の端を探り当てて、ゆっくりほどいた。中から現れたのは、折り目の正しい、雪のように真っ白な止血布しけつふの束だった。


 彼女はしばらくそれを見つめ、それから目を丸くしてレンへ視線を移した。


 レンは視線を帳面に置いたまま、低い声で言った。


「止血布……カイエル様のせいで使い切ったでしょう。女物は別にないから……それでも持っておいてください」


 彼女はうつむき、長く伸びた前髪を指で引き下ろして、目元を半分隠すようにした。耳の先端がランプの光を透かし、ほんのり赤く染まっている。それから布を両手で包み込むと、ザックのいちばん奥へ、しわにならないよう丁寧にしまい込んだ。


 そして再びベッドの上に正座し、レンに向けて両手を持ち上げる。指先がかすかに震えていた。空中で何かを描こうとして途中で止まり、また指を折り曲げる。


 彼はそれを見て帳面を閉じた。静かに立ち上がり、灯りのほうへ歩いていくと、点灯用の紐に手をかけながら言った。


「いえ。シエルさんがいてくれたから、カイエル様もほとんど軽傷で済んだんです。助けられてるのは、むしろこっちですよ」


 少しだけ言葉を切り、レンは肩越しにシエルを振り返った。目元がふっと柔らかく和らぐ。


「……明日の朝も早いです。そろそろ寝ましょう。いい夢を」


 カチッ。


 小さな音とともに、部屋は完全な闇に沈んだ。残ったのは、違うリズムを刻む三つの息遣いだけ。


 一つは、毛布を蹴飛ばすみたいに重く、無防備な音。

 一つは、一定の間隔で静かに空気を入れ替える、規則正しい音。

 そしてもう一つは、羽毛が擦れる音よりもなお小さく、つつましい音だった。

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