第10話 僕の後ろにいる女性
後ろの女
この話は、すべて実話だ。
信じるも信じないも、読んでくれたあなた次第だ。ただし一つだけ約束してほしい。読み終えたあとに、自分の背後を振り返らないこと。
いや、振り返ってもいい。
ただ、そこに何もいないと思えるなら。
人によっては気分が悪くなる話もある。苦手な人は、今ここで引き返すことを強く勧める。
一、
俺がまだ高校一年のとき、友人のTに誘われて新宿で女の子二人と会った。
当時、mixiという巨大SNSが流行っていた。完全に出会い系だった。未成年は本来やっちゃいけなかったが、同年代がごろごろいた時代だ。Tがそのmixiにハマっていて、都内の同い年の女子高生二人と会う約束をした。相手が二人だから来ないかと誘われたのだ。
正直、気乗りはしなかった。
俺には親がいない。生まれてすぐ捨てられ、十八まで施設で育った。これはネタでも何でもない事実だ。簡単に言うと、捨て子だ。異性との出会いがどうこうなんて余裕はなく、毎日を自分の力だけで生き延びるので精一杯だった。自分の身の回りは全部自分でやらなければいけない。誰も助けてくれる人がいないのだから、そういう意味で手一杯だった。
だがTはどうしてもと言う。一週間分の昼飯を奢ると提案された。俺は飯に弱い。施設育ちの人間にとって、食事の確保は本能に近い。弱いところを的確に突かれて応じてしまった。
数日後、新宿でその女子高生二人と会うことになった。はっきり言うが、気乗りはしない。本当に嫌々だった。
時間ちょうどに合流する。普通にかわいい二人組だった。だが一人の女の子が俺を見て、ハッとした顔をした。
うわ、すげえヤな感じだなと思った。
Tだけがテンションを上げてカラオケに行こうと言い出す。部屋に入って自己紹介をしたとき、あの子の様子がおかしいことに気づいた。
俺を見ている。
正確に言うと、俺の後ろを見ている。
俺をというか、俺の後ろに視線が行っている。何度こちらを向いても、その子の目は俺の肩越し、あるいは頭のすぐ上あたりをさまよっている。目が合いそうで合わない。焦点がどこか別の場所に固定されている。
突如、泣き出した。尋常な泣き方ではない。嗚咽を噛み殺すように肩を震わせ、涙がぼろぼろと落ちる。
場が凍りついた。
その泣いていた子が「ちょっといいですか」と俺に聞いてきた。承諾すると、いきなり言い出した。
「私は霊が見える。霊と話せる」
俺は「うわ、やべえのが来た」と思った。全く信じていなかったからだ。顔はかわいいのに、とんでもないことを言い出すから反応に困った。
Tも微妙な顔をしている。だがTはテンションが上がっていて、色々聞いていた。
聞いているうちに怖くなってきたのだ。
「あなたは捨て子で親がいない。施設で暮らしている」
全部当たっている。
とっさにTの顔を見た。オマエ言うなよ、と言いかけた。だがTも青い顔をしていた。Tは首を横に振っている。
「あなたの後ろの人が教えてくれた」
後ろの人。俺の後ろにいるという、若い女。そいつが、俺の情報をこの子に伝えている。しかも怒っている。後ろにいる人はとても力が強く、嫉妬深い。だからこの子は俺のことが怖いと思ったのだと。
そして未来の話をされた。
「大人になって結婚してもすぐ破局する。あなたは一生恋愛に向いてない人生になる」
「その代わり、後ろの人が強すぎるから、破滅的な金運を持っている。けど女運がなさすぎて女で損する。気をつけて」
「あなたは二回結婚して、両方離婚する」
「近い将来、大金を二度手にする」
「女難の因縁が深すぎて、人助けをしなければいけない」
「将来、片足がなくなる」
もう驚きだよな。適当だとしてもひどいもんだ。
片方の女子高生に謝罪され、テンションが地に落ちたまま、一時間もしないうちにカラオケを出てお開きになった。
Tにも謝られた。帰りに二人して驚いていたのを今でも覚えている。Tは何も話していないと言った。
俺に親がいない捨て子だと見抜いて、未来の話をされた。信じられないだろう。
この子たちとは何もなかった。これきりだ。
だが、もう一度あの女の子に会いたい。会って話を詳しく聞きたいとずっと願っている。
この話はこれで終わりじゃないのだ。
二、
五年後の話だ。
都内で仕事をしていたが、仕事の関係で大阪に住んでいた時期がある。この時は仕事しながら遊んでいたから関西方面で友達がだいぶできた。
そのうちの一人の女友達から誘われた。淀川区のほうに、すごく当たる占い師みたいな人がいると。それに付き合えと言われて一緒に行った。
もうこの時から、別にどこに投稿するのでもなく生配信するのでもなく、一人でビデオカメラを持って心霊スポットに行っていた。霊が本当にいるのかどうか確かめたくてだ。廃墟、トンネル、山中の旧道。深夜に一人でカメラを回す。
だけど、霊能者だの霊媒師だの陰陽師だのは信じていない。今もだ。たかが猿が進化した動物が、人知を超えた能力なんて持てるはずがないじゃないかと思っている。
だから全く信じていない状態で、付き合いで行った。
この大阪のおばちゃんにも、mixiで会った女子高生と全く同じことを言われた。
「後ろにいる女の人が強すぎる。女性関係はやめたほうがいい」
「破滅的な金運がある」
全員が同じことを言うのだ。女性運がない。後ろの人が嫉妬深すぎて女関係はやめたほうがいい。そして、破滅的な金運。
この時点で俺は十九で結婚していた。ひどいもんだった。嫁は遊び歩いて何もせず、家事、子育て、仕事のワンオペだった。マジで地獄。
この破滅的な金運について説明しておく。大阪に仕事で行く前に宝くじ、サマージャンボとロト6の両方で一等が当たっている。当選した時の口座やみずほ銀行でもらう書類は生放送で出しているから、リスナーはみんな知っている。
何が破滅かって? 今一銭も残っていない。全体の八割くらい元嫁に取られた。一時的にお金を手に入れることはできるが、すぐに何らかの事情でなくなる。そういう意味での破滅的な金運だ。
大阪のおばちゃんは結構すごくて、「大金手に入れたのに色々大変ねえ」と同情してきた。何も話していないのに。
二人目だ。場所も時間も人もまるで違う。なのに、同じことを言う。
そして更に数年後。元キャバ嬢の女友達に付き合わされ、名古屋まで日帰りで新幹線に乗せられた。超美人だが整形で、スピリチュアル関係に全振りしているような女だ。悪い子ではないが、そっち系の話を始めるとウザい。彼氏がいるのになぜかいつも俺に連絡が来る。俺はこの時既婚で、元嫁とも顔見知りだから、リスナーが期待するような展開は一切ない。
名古屋の占い師は、一言で言えばおばちゃん。大して特徴もない。だが俺を一目見るなり、こう言った。
「すんごいの連れてきたわね」
ここで前回の話に繋がる。俺の後ろに若い女性がいて、凄く強い人だと。そして女運はない。恋愛運、結婚運、仕事運、健康運、そういったものが一切ない。ただし金運だけは突出していると。
そう、あの女子高生と全く同じことを言うのだ。
女子高生は未来のことを話した。皆さん覚えているだろうか。事故にあって左足が動かなくなる。前世の因縁で人助けをしていかないといけない。
名古屋の占い師にも同じことを言われた。微妙にニュアンスは違うが同じことだ。
「あなたは二回離婚する。女難があるから女には気をつけろ」
これを女子高生にも、名古屋の占い師にも言われる。人も場所も時間も全く違うところで同じことを言われるなんて、予想もできない。
三人目だ。
結果がどうだったか? いいんだ。そこに触れないでくれ。
三、
そしてまだ続きがある。四年前の話だ。
あの占いとオカルト好きな元キャバ嬢の友人に、朝っぱらから電話で叩き起こされた。
「前に約束してたじゃん!」
去年の十一月に約束していたらしい。俺は忘れていた。今更かよと思ったが、どうやら口コミオンリーの霊能者で予約が半年待ち。しかも見てもらう前に誓約書を書かされる。
誓約書の内容は、インターネットにここの情報を書かないとかだった。だからあまり詳しくは言えない。
今までその友人に連れられて色々な自称占い師、自称霊能者のところに行ったが、今回は初めてびびった。
東京都内の某区。住宅街の中にその場所はあった。見た目は普通の一軒家。料金も爆安で、何分でいくらとかじゃなく、一回で三百円。お茶代みたいな感じだった。
中に通され、向かい合って座った。何も話していない。
その人はマジでびびった。結婚した事も離婚した事も子供いる事も何も話していないのに、こう言った。
「娘さん二人いて、お父さん一人で大変ね」
鳥肌が立った。子供がいるとは話していないのに、子供という言い方をせずに「娘さん」と、性別まで正確に言い当てた。
手を見せていないのに手相のことも言われた。俺の両手には神秘十字線という手のひどの真ん中にでっかい十字がある。それと親指関節部分の仏眼。手のひらを横断するますかけ線。全てが両手にあるのは珍しいらしい。前に新宿の有名な手相の人にも、凄い珍しい手相をしていると言われた事がある。
そして俺と元嫁と医者しか知らない、娘の話。娘が生まれつき不安要素があってだ。
「娘さんは大丈夫よ」
安心して涙が出てしまった。
そこで最初の話に繋がる。全く同じことを言われるのだ。
「女運がない」
「後ろにいる女性が強すぎる」
「莫大な大金を手に入れるけど女に全て取られる」
四人目だ。高校時代の女子高生、大阪の霊能者、名古屋の占い師と全く同じこと。いや、もっと具体的に言われた。全て当たっている。
十年以上前に言われたことが全て当たっていた。
最後に質問の時間をもらった。気になることを聞いてみた。
「幽霊って本当にいるんですか?」
「あなたはもう見えているでしょう」
分かっているはずだけど、無理やり自分で見えてないフリをしているだけ。見る意識を高めると人の形で見えてくると言われた。
確かにここ最近、YouTubeで心霊として活動し始めてから、視界の隅に暗い影や黒い煙のようなものが見えるのだが、あまり気にしていなかった。どうやらそれが霊らしい。
まあ今でも半信半疑だ。動画にも意味不明な黒い影とか変な煙、人の声とか足音が何十回も撮れているが、それでも霊とは思っていない。人間の目に見えない特殊な未発見の動物じゃないかとまで思っている。
だって嫌じゃないか。こんな苦労して人生歩んでいるのに、死んでもまた次があるなんて。
今まで九対一くらいの割合だったけど、この人の話を聞いて八対二くらいにはなった。でも今は六対四の割合になった。六は否定、四は肯定。
四、
ここから話の色が変わる。
都内の某繁華街でバーテンダーのバイトをしていた時期がある。そこの常連で七十歳くらいのおじいちゃんがいた。穏やかで品のある人で、いつもカウンターの端で静かに飲んでいた。
ある晩、話の流れで俺がYouTubeで心霊スポットの動画を投稿していると話した。おじいちゃんの目つきが変わった。いつもの柔和な表情の奥に、鋭いものが光った。
「お前、そういうことをしているのか」
声のトーンが一段低くなっていた。仕事は何ですかと聞くと、そのおじいちゃんの答えに驚いた。
「拝み屋だよ」
拝み屋。先祖供養、加持祈祷、魔祓い、憑き物落とし。依頼者の悩みに応じて適切な拝みを行う仕事だ。
そのおじいちゃんから熱烈な誘いを受けて、弟子のような形で手伝いに行くようになった。今現在でも月に二、三回で手伝いに行っている。給料なんかない。そのおじいちゃんの信条だ。
「見えないもので金を取るのはいけないことだ」
もらっても電車賃だけ。
拝み屋と言っても大体は本人の勘違いでだ。今まで何十回も色々ついていったが、大体は考えすぎパターンだった。そのおじいちゃんも言っていた。人生相談みたいなものだよと。
だが、一件だけ。
一件だけ、やばい家があった。
五、
クソ暑い夏だった。
都内から電車を乗り継いで二時間ほどの、千葉の内陸部にその家はあった。築四十年以上の古い木造二階建て。周囲は閑静な住宅地だが、その家だけ空気が違うのが門の前に立った瞬間に分かった。
八月の焼けるような昼下がり。アスファルトが陽炎で揺れるほどの猛暑日。蝉が狂ったように鳴き、首筋を汗が伝う。
だがその家の門をくぐった瞬間、蝉の声が遠のいた。消えたのではない。ガラス一枚を隔てた向こう側で鳴いているように、音が薄くなった。庭の草は伸び放題で、玄関までの飛び石に苔が生えている。人の手が入らなくなってかなりの時間が経っていた。
玄関のドアを開けた瞬間、冷凍庫の中にいるような寒気が全身を包んだ。
呼吸が白くなった。真夏の、三十五度を超える日に。吐く息が白い。
隣でおじいちゃんが「ほう」と小さく呟いた。驚いてはいない。確認するような声だった。
玄関から廊下に足を踏み入れると、空気の質が変わった。重い。粘度がある。水の底を歩いているような抵抗感が全身にまとわりつく。古い家特有のカビ臭さに混じって、線香の匂いがした。誰も住んでいないはずの家で、線香の匂いがする。
そして、気配だ。
誰もいないのに人の気配がめちゃくちゃした。一人ではない。何人もいる。廊下の奥、階段の上、壁の向こう。四方八方からこちらを窺うような視線を感じる。肌の上を無数の指先が這うような、ざわざわとした感覚。
二階から足音が聞こえた。
トン、トン、トン。
ゆっくりと一段ずつ階段を降りてくる。裸足の足裏が木の板を踏む独特の音。
俺は階段の下に立っていた。見上げた先には誰もいない。踊り場までの木製の階段が薄暗い空間に延びている。壁紙は黄ばみ、ところどころ剥がれていた。
だが足音は確実に近づいてくる。一段、また一段。規則正しく正確に。まるでこちらの存在を確認しながら降りてくるような間隔で。
五段目。四段目。三段目。
足音が、階段の中ほどで止まった。
沈黙。
廊下の奥で何かが軋んだ。壁の中から、かすかに水の流れるような音がする。
そして、何かが嗤った。
笑い声ではない。空気が震えた、としか言いようがない。音として聞こえたのか、感覚として受け取ったのか、今でも判然としない。ただそこに「嗤い」があった。こちらを見下ろし品定めするような。獲物を前にした捕食者が、すぐには食いつかずに眺めている。あの感覚だ。
その瞬間、廊下の奥の襖がゆっくりと開いた。誰も触れていない。襖が三十センチほど開いて止まった。暗がりの中に、白いものが見えた。
目だ。
襖の隙間から、こちらを覗いている目があった。人間の目だ。だが光を反射していない。闇の中に白目だけが浮かんでいる。まばたきをしない。息をしていない。ただ、こちらを見つめている。
おじいちゃんが俺の腕を掴んだ。その手が震えていた。
この人が震えるのを見たのは、後にも先にもこの一度きりだ。何十件もの依頼をこなし、得体の知れない場所に平然と踏み込んでいく人が、俺の腕を掴んで震えている。
「ここはいかん」
踵を返した瞬間、二階から一斉に足音が鳴った。一人ではない。三人分、四人分。ドタドタと走り出し、階段を駆け降りてくる。だが見上げても誰もいない。足音だけが凄まじい勢いで迫ってくる。
俺たちは走った。玄関を蹴り開けて外に飛び出した。蒸し暑い外気が肌に張りつく。蝉の声が飛び込んでくる。
門を出てから振り返ると、二階の窓に黒い影が見えた。カーテンの隙間から、こちらを見送っている。女の形をしていた。長い髪が垂れ、顔があるはずの場所だけが暗く沈んでいる。
消える直前、見えた。笑っていた。
帰りの電車の中で、おじいちゃんが一言だけ教えてくれた。
「あの家には何人もいた。だが、全部一人の女が動かしている」
一人の女が複数の霊を使役している。そういう意味だった。
「お前の後ろにいるのは、お前を守ってもいるんだよ。ただ守り方が激しすぎるんだ。お前に近づく女を全部排除しようとする。嫉妬なのか執着なのか。生きているときの未練がそのまま力になっている」
その女が誰なのか、おじいちゃんにも分からないと言った。先祖の誰かかもしれないし、前世の因縁かもしれない。
「分かっているのは相当古い念だということだけだ。百年や二百年のものじゃない」
それ以上は語らなかった。
六、
何でも屋の仕事で井戸を埋めたことがある。
千葉の郊外にある古い民家の庭に、使われなくなった井戸があった。家を解体するにあたって井戸も塞いでほしいという依頼だ。
井戸を埋めるには手順がある。適当に土を放り込めばいいというものではない。まず息抜きの管を入れる。井戸には地中の気が通っているから、いきなり塞ぐと良くないとされている。おじいちゃんから教わった手順に従って、清めの塩と酒を撒いてから作業に取りかかった。
井戸の蓋を開けたとき、中から冷たい風が吹き上がってきた。夏場だったが、井戸の底から来る空気は氷のように冷たい。深さは十メートルほど。懐中電灯で照らすと、底にわずかに水が光っていた。
仲間と二人で砂利を入れ始めた。一輪車で運んでは投入し、運んでは投入する単純作業だ。
三十分ほど経った頃、仲間が「ちょっと変じゃないか」と言った。
砂利を相当量入れたはずなのに、水面の位置が変わらない。もちろん水が染み込むこともあるだろう。だが何百キロもの砂利を放り込んで、底が上がってこないのはおかしい。
俺は再び懐中電灯で中を照らした。
水面に、顔が映っていた。
俺の顔ではない。もっと古い顔だった。もっと暗い。長い髪が水面に広がり、白い顔が水の底からこちらを見上げている。目が合った。暗い水の奥から、確実にこちらを認識している目だった。
一瞬のことだった。瞬きをしたら、ただの水面に戻っていた。
仲間に何か見えたかと聞いたが、何も見えなかったと言う。
その後も作業を続け、最終的に井戸は問題なく埋まった。だがあの一瞬、水面の底から見上げてきた顔は、はっきりと記憶に焼きついている。女の顔だった。
それが俺の「後ろの女」と同一なのかどうかは分からない。ただ、俺が井戸や蔵や古い土地に関わるたびに、何かが反応する。呼応する。そういう感覚がある。
七、
蔵の解体で、決定的なものに出会った。
何でも屋の依頼で千葉の郊外にある古い家の蔵を壊すことになった。依頼主は高齢の男性で、実家を処分するにあたって蔵も片づけてほしいとのことだった。
蔵の中は埃と黴の臭いに満ちていた。古い箪笥、壊れた農機具、虫食いの衣類。昭和の遺物がうず高く積まれている。仲間と黙々と搬出していたとき、蔵の奥の壁際に木箱が一つあった。
他の荷物とは明らかに異質だった。釘で厳重に封じられ、表面に墨で文字が書かれている。風化して大部分は読めなかったが、梵字のようなものが見えた。箱自体も他の荷物より明らかに古い。
依頼主に確認すると「知らない。そんなのあったのか。捨ててくれ」と。
嫌な予感がした。だが俺は開けてしまった。
釘をバールで抜き、蓋を持ち上げた瞬間、甘ったるい匂いが鼻を突いた。線香とも白檀とも違う、腐った花のような蜜のような不快な甘さ。蔵の中の温度がほんの少し下がった気がした。
中には日本人形が入っていた。
髪が伸びる人形、というホラーの定番を想像するかもしれない。違う。もっと生々しいものだった。
三十センチほどの座り姿の人形。顔の造作がやけに精緻で、まるで生きていた人間をそのまま縮小したかのような異様なリアリティがあった。目は黒曜石のような光沢を持ち、薄暗い蔵の中でも光を拾ってこちらを見つめている。着せられた着物は赤黒く変色し、ところどころに黒い染みがある。
両手は胸の前で合わせられていた。祈っているのか。縋っているのか。
そしてその人形の首に、一本の細い縄が巻かれていた。きつく、何重にも。首の部分の白い肌に、縄の跡が食い込んでいる。
仲間が「気持ち悪いな」と呟いた。俺も同じことを思った。だが目が離せなかった。
人形の下に一枚の紙片があった。風化が激しく、かろうじて判読できたのは「戻」という一文字だけだった。
おじいちゃんに電話すると、声のトーンが一段下がった。
「その箱の中に、他に何か入っていなかったか」
「絶対に家に持ち帰るな」
だがすでに遅かった。依頼主が「気持ち悪いから全部持って帰ってくれ」と言うので、俺が預かっていた。木箱ごと車のトランクに入れて。
その夜から、おかしなことが始まった。
深夜二時。天井からかりかりと引っ掻く音。ネズミかと思ったが、音は天井を移動し、壁を伝い、枕元まで降りてきた。耳元で女の声が囁いた。聞き取れない。水中で喋っているような潰れた声。
翌朝、首の右側に細い赤い線。縄の跡のような薄い痕。
二日目の夜。同じ音、同じ声。だが声の中に一つだけ聞き取れる単語があった。
「かえして」
三日目の夜は最悪だった。
深夜二時。目が覚めた。息が白い。体が動かない。金縛りだ。
天井を見た。
天井に女がいた。
四つん這いで天井に張りついている。長い黒髪が垂れ下がり、俺の顔の三十センチ上で揺れている。白い着物が重力に逆らって貼りついている。顔は髪に隠れて見えない。だが髪の隙間から歯が見えた。笑っている。口だけが三日月のように裂けて笑っている。
声が出なかった。叫ぼうとしても喉が塞がっている。
女が片手を伸ばした。天井から白い指が俺の首に向かって降りてくる。爪が長い。爪の先が黒い。
指が首に触れた瞬間、氷を押しつけられたような激痛が走り、俺は絶叫して跳ね起きた。
部屋には何もいなかった。だが首に新しい赤い線が増えていた。二本目。昨日の線と平行に。
翌朝おじいちゃんに持っていった。一目で顔色が変わった。
「これは依代だ。人の念を移したものだ」
首に巻かれた縄を見て、こう言った。
「この人形の中にいた念は、恨みじゃない。悲しみだ。帰りたいのに帰れない。誰かのそばにいたいのにいられない。その念がお前の後ろにいるものと共鳴したんだろう」
おじいちゃんはその場で般若心経を三回唱え、俺にも唱えさせた。人形は白い布に包まれ、おじいちゃんが引き取った。
リスナーの間では「島子」と呼ばれているあの人形だ。生放送に出てたアレだよ。覚えているだろう。
あの人形を預かっていた三日間、俺は夢を見なかった。夢を見なかったのではなく、眠っている間ずっと「何かに見られている」感覚の中にいた。目を閉じているのに、暗闇の中に女の輪郭が浮かんだ。長い髪。細い肩。胸の前で合わせた両手。
あの、後ろにいるという女の輪郭と、同じ形をしていた。人形と、同じ姿勢をしていた。
だが話はここで終わらない。
人形を渡して二週間後の深夜二時。目が覚めた。枕元に何かがある。暗がりの中、手探りで触れた。固い。冷たい。陶器のような滑らかさ。
電気をつけた。
枕元に、あの人形が置かれていた。
白い布に包まれたまま。おじいちゃんに渡したはずの、あの人形が俺の枕元にある。布の隙間から黒曜石の目がこちらを見ていた。両手は胸の前で合わせたまま。首の縄もそのまま。
おじいちゃんに連絡した。おじいちゃんは長い沈黙のあと、こう言った。
「こちらにはまだある。渡した人形はここにある」
では、俺の枕元にあるこれは何だ。
「呼んだんだろう。お前の後ろの女が。同じものを、別の場所から」
捨てたはずの人形が勝手に戻ってくる。拝み屋の世界では珍しくないらしい。だがこの場合、戻ったのではない。「似たもの」が新たに引き寄せられている。後ろの女が、自分と同質の悲しみを持つものを集めているのだと。
その人形もおじいちゃんが処理した。今度は戻ってこなかった。
だが天井に張りついた女の姿は今でも忘れられない。三日月の口。首に降りてくる白い指。黒い爪先。思い出すと、今でも首の右側が疼く。
八、
おじいちゃんから教わったことの一つに、「帰ってくる」という概念がある。
因果応報。仏教の言葉だが、おじいちゃんはもっと即物的に語った。
「他人を傷つけたら、必ず自分に返ってくる。何年後か何十年後か分からないが、絶対に返ってくる。世の中はそうできている」
皆さんも経験があると思う。他人を騙したり、傷つけたり。まあ危害だわな。絶対に自分に返ってくる。マジで世の中うまくできている。
某宗教の教祖や昔テレビに出てた自称霊能者、霊媒師、坊さん。思い出してみてほしい。みんな死んでいるでしょう。病気とかで最後は苦しんで一人ぼっちで。某テレビに出てた自称の人も最後は変死だ。
これは帰ってきているのだ。目に見えないもので金を稼いだんだから。
俺も中学、高校はかなり暴れ回った人間だった。散々帰ってきた。主に女関係で。
俺は帰ってくることに気づいていた。最初の女子高生にも言われていたし、大阪のおばちゃんにも言われていたのもあるけど。
嫁に取られる前に宝くじとロトの金を一部使って、地元の付き合い長く信用できるやつらに、一人あたり数百万出して、返さなくていいから手伝えと言って、今現在でも何でも屋をやっている。建物の解体から井戸埋めとかだ。俺は現場関係の仕事をやっていて超資格ホルダーだから、大体のことはできる。建設系の機械や重機はほぼ運転できるし。でも金は取らない。交通費と飯代だけだ。
おじいちゃんも言っていた。見えないもので金を取るのはいけないことだと。もらっても電車賃だけ。
配信者でもいたでしょう。リスナーから散々金を取って最後刺されて死んだ人。アレも帰ってきた。人を騙しまくってどんぶらこされた配信者もいた。ソレも帰ってきた。散々調子乗って好き勝手やった配信者だって、最後は孤独死で誰にも発見されずに液状化状態で発見。コレも帰ってきた。
人助けをしなければいけない。あの女子高生がそう言った。前世の因縁で、人助けをしていかなければいけないのだと。
二十歳から始めた何でも屋は、もうかれこれ十年になる。蔵の解体の時に見つけた人形の話もあったし、井戸埋めの話もあった。全部、人助けの中で出会ったものだ。
最近SNS界隈でも問題になっているいじめ問題。アレだって絶対帰ってくる。何年後か何十年後か知らないけど。
信じるも信じないも読者次第だけどね。
実際に俺の生放送中にも色々あったから。
九、
今の俺の話をしよう。
千葉県に住んでいる。一家心中があったとされる築四十年以上の古い三DKの一軒家だ。娘二人と暮らしている。長女が十二歳、次女が八歳。愛車はホンダのスーパーカブ110。車の免許はあるが車はない。
結婚時代は京都府京都市左京区に住んでいた。色々あって千葉に戻ってきた。
今の生活はご飯を炊いて醤油をかけて食べる。お湯を沸かしてお湯を飲む。少しでもお金に余裕があれば娘の貯蓄と娘の生活費に回す。
破滅的な金運はまだ生きている。生配信で競馬配信をやって、適当に買った三連単が当たって五百円が百万円になったり、三万円が数百万円になったりした。全部生放送中の出来事だ。二〇二二年の一月から三月にかけてロトの三等と四等が毎週ずっと当たり続けるというのもあった。
確かに当たるのだ。当たるが、そのあとにいつも何かしらのトラブルがある。金が入っても結局消える。だから競馬配信はもうやらない。
おじいちゃんに教わった手順で、この家には一通りの処置を施した。効果があるのか分からないが、一応教わったことはやってみた。確かに変な事はだいぶ減った。
だが完全にはなくなっていない。
深夜、台所の蛇口から水が滴る音がすることがある。止めたはずの蛇口から。確認しに行くと閉まっている。だがシンクには水滴の跡が残っている。
風呂場の鏡に一瞬だけ余計な影が映ることがある。自分の背後にもう一つの輪郭が重なるような。振り返っても何もいない。鏡を見直すと自分の顔だけが映っている。
そして、たまに。本当にたまにだが、二階の廊下を歩いているとき、背後にもう一つ分の足音が聞こえることがある。
俺が止まると、その足音も止まる。
俺が歩き出すと、その足音も歩き出す。
半拍遅れて、正確に。まるで俺の影がもう一つあるかのように。
後ろの女だ、と思う。
心霊スポットには今も一人で行っている。海外を含めた北海道から沖縄まで千カ所以上。おかしいと思わないだろうか。投稿している動画で逃げ帰っている動画がある。明らかに不思議な動画もある。ライブ限定のお蔵入り動画だってある。俺自身も色々と体験済みだ。
それでも一人で行き続けている。
よく聞かれる。一人で心霊スポットに行って、怖くないんですかと。
答えは簡単だ。霊の存在を信じていないからだ。矛盾しているだろう。信じたくないと言ったほうが正確かもしれない。信じてしまったら心霊スポットなんか一人で行けなくなる。
皆さんもよく聞くだろう。「生きている人間が一番怖い」と。その通りだ。今まで何百人とヤバい人間がいた。変態、変人、メンヘラ。ぶっちゃけ怪談より人怖な話のほうが多い。
今は六対四の割合だ。六は否定、四は肯定。
最近、視界の端に映る黒い影が、はっきりと人の形を取り始めた。以前は煙のようなもやもやとした塊だったのが、今は輪郭がある。肩がある。首がある。長い髪がある。
まだ、顔は見えない。
見えないうちは、大丈夫だと思っていた。
だが先月。初めて、顔の一部が見えた。
洗面所の鏡を見ていたとき、自分の肩越しに、顎から下だけが映った。白い肌。細い顎。薄い唇が、微かに開いている。何かを言おうとしている。
振り返った。何もいなかった。鏡に視線を戻しても、もう何も映っていなかった。
だが唇が動いていた方向は、俺の耳に向かっていた。あと少しで、声が聞こえるようになる。
おじいちゃんに話した。長い沈黙のあと、こう言った。
「顔が全部見えたら、声が聞こえるようになる。声が聞こえたら、名前を呼ばれる。名前を呼ばれたら、もう離れられない。だから見るな。絶対に、正面から見ようとするな」
見ないようにしている。だが視界の端に、いつもいる。
了、
あの女子高生が泣きながら教えてくれた、後ろにいるという女。
大阪のおばちゃんが同情してくれた、強すぎる女。
名古屋の占い師が一目で言い当てた、嫉妬深い女。
都内の誓約書の人が「もう見えているでしょう」と言い放った女。
千葉の家の襖の隙間から覗いていた、まばたきしない目の女。
井戸の底の水面から手を伸ばしてきた、白い顔の女。
天井に四つん這いで張りつき、三日月の口で笑っていた女。
枕元に別の人形を引き寄せた、同質の悲しみを集める女。
廊下の暗がりで人の形を取りかけて消えた、陽炎の女。
鏡の中で俺の耳に囁こうとしていた、薄い唇の女。
全部同じものなのか。それとも違うものなのか。
分からない。おじいちゃんにも分からないと言われた。
だが一つだけ確かなことがある。俺の後ろにはずっと誰かがいる。十年以上前から。いや、もしかしたら生まれたときから。
施設で育ち、親の顔も知らず、裏切られ、金を奪われ、それでも生きてきた。この俺の背中に、ずっと誰かがいた。
守ってくれているのか。縛りつけているのか。
それは呪いなのか、救いなのか。
分からない。だが、彼女がいる限り、俺は一人ではないのだとも思う。施設にいた頃も、結婚して地獄を見ていた頃も、離婚して一人で娘二人を育て始めた頃も。ずっと後ろにいた。
たとえそれが、生きている人間ではないとしても。
おじいちゃんはこうも言っていた。
「拝むことで解決できるものと、できないものがある。お前の後ろにいるのは、後者だ。追い払おうとしても無駄だ。お前と一緒にいることを選んでいる。だったら、うまく付き合っていくしかない」
うまく付き合う。その言葉が今の俺を支えている。
後ろにいる女は、俺に女運を与えない代わりに、破滅的な金運をくれた。人助けをしろという宿命を課した代わりに、重機を動かす腕と資格と、信用できる仲間をくれた。
トレードオフだ。この世の理は、全部そうできているのかもしれない。
あの女子高生が泣きながら言った予言は、ほぼすべて当たった。二回の結婚と離婚。大金を手にしたこと。女で損したこと。人助けを始めたこと。
まだ当たっていないのは、片足のことだけだ。
それがいつ来るのか。来ないかもしれない。来るかもしれない。
だが来たとしても、俺は受け入れるだろう。それが帰ってきた結果なら。それが後ろの女との約束なら。
さて。最後に、これを読んでくれたあなたに伝えたいことがある。
他人に危害を加えないで生きてほしい。
嘘はつくな。人を騙すな。傷つけるな。搾取するな。
帰ってくる。何年後か何十年後か分からない。形も分からない。だが必ず帰ってくる。世の中はそういう仕組みになっている。
そして、あなたの後ろには誰がいるだろうか。
振り返らなくていい。
ただ少しだけ意識してみてほしい。背中に触れる空気の温度を。首筋をなでる、かすかな気配を。
何も感じなければ、それでいい。
だが、もし何かを感じたなら。
それはきっと、ずっと前から、そこにいたのだ。
そしてもうすぐ。
名前を、呼ぶ。
(了)
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