第5話

中庭で食べたあのおにぎりの余韻が、まだ胃の奥に微かな熱を持って残っていた。

あんなに不格好な塊だったのに、不思議と腹の底からぽかぽかと温かくなる気配がある。

(……サボっても、いいんだよな)

自分に言い聞かせるように呟きながら、和樹は気づけば校舎の影から、遠くのグラウンドを眺めていた。

放課後。すでに野球部の練習は始まっている。

夕日に照らされた黒土の上を、部員たちが列をなしてランニングをしていた。

――ざっ……ざっ……。

規則正しい足音。そこまでは、まだ良かった。

――ザリッ……。

砂利を噛む音に混じった、鋭い金属の擦れる音。

土と、金属のスパイクが、地面に力強く擦り付けられる不快な音。

その音が耳に触れた瞬間、和樹の視界から色が消えた。

心臓が嫌な跳ね方をして、喉の奥が引き攣る。胃の奥にあったはずの温かな熱は一瞬で冷め、代わりに冷たい脂汗がじわりと背中を伝った。

(……くそっ)

耳を塞ぎたいのに、体が強張って動かない。

音を聞くたびに、和樹の意識は引きずり戻される。そんな自分が情けなかった。

部室の中の薄闇で、視界の端で光った金属の輝き。

右肘の裏を踏みにじった、あの容赦ないスパイクの感触。

野球を、壊されたあの日。

「はっ、……っく、……」

呼吸が浅くなる。

さっきまであんなに美味しく食べられたはずなのに、今は吐き気すら込み上げてくる。

「異常なし」と診断されたはずの右肘が、焼けるように熱を持ち、激しく疼き始めた。




それは、ほんの数週間前。暦の上では秋になるというのに。肌を焼くような暑さが連日続くような季節だった。

三年生が引退して、新チーム体制になったことで、部内の空気は異常なほどピリついていた。

「篠山ッス!! 失礼しますっ!」

部室のドアを開ける際の、時代錯誤な決まり文句。そんな挨拶に何の違和感も抱かなくなるほど、和樹は「体育会系」という名の歪な日常に馴染もうとしていた。

だが、部室に残っていた上級生たちの視線は、ただの「雑用チェック」にしては執拗で、どろりと濁っていた。

(……また難癖かよ)

げんなりしながら自分のスポーツバッグを手に取り、部室を出ようとした、その時だった。

背中に、鉄の塊をぶつけられたような衝撃が走る。

「ぅぐ、っ……!」

肺の空気を強制的に絞り出され、和樹はコンクリートの地面に叩きつけられた。上半身を捻り、痛みに耐えながら衝撃の主を睨みつける。そこに立っていたのは、嫌な笑みを浮かべた上級生だった。

「……腑抜けすぎだろ、スポーツ推薦様よぉ。もっと用心深くならなきゃなあ?」

そのニヤついた面を殴り飛ばしてやりたかった。だが、和樹は爪が掌に食い込むほど拳を握りしめ、怒りを飲み込んだ。ここで手を出せば、自分もこいつらと同じ土俵に落ちる。その矜持だけが、和樹を繋ぎ止めていた。

しかし、彼らの悪意は、和樹の想像を遥かに超えていた。

逃げようとする和樹の体は、他数名の上級生によって無慈悲に地面へ押さえつけられる。

「やめろ、離せっ……!」

抗う和樹の視界に、上級生が履いたスパイクの裏が映った。

じりじりと、金属の刃が和樹の右肘裏に食い込んでいく。

関節の本来の動きとは逆の方向へ、鈍く、容赦のない圧力がかかった。

自分も毎日手入れしてきたはずの、鋭い刃。

それが今、自分の宝物である右腕を、未来ごと断ち切ろうとしている。


(終わった)


直感した。

同時に、それまで握りしめていたプライドが、音を立てて崩れ去る。

「そこだけは! やめてください……っ!!」

喉の奥から絞り出したのは、叫びですらなかった。

それは、震える声で吐き出された、惨めな命乞いだった。

睨みつけていた瞳は、今はただ恐怖に塗りつぶされ、涙で視界が歪む。


軋んだのは、自分の肘だったのか。

それとも、誇りごと粉々に砕かれた、自分の心だったのか。

ミシミシと、不快な音を立てて何かが壊れていく。

その感触だけが、永遠のような熱を持って、和樹の記憶に刻み込まれた。

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