第4話 桜月

――春休みの午後は、時間が止まっているみたいだ。


窓の外では、風に煽られた桜の花びらが数枚、私の勉強机に迷い込んできた。


二月のスノームーンの頃には、こんなに温かな色が世界にあるなんて信じられなかったのに。


私は、ノートの最後から二番目のページを開く――。




三月某日。卒業式の、三日前。


あの日、私たちは最後から二番目の満月を見上げていた。


二月の「スノームーン」に対して、三月の月は「ワームムーン」……和名では『桜月』と呼ぶらしい。けれど、その夜の月は、桜色なんて優しいものじゃなかった。


校門の前の、いつもの街灯の下。


ハルは自転車のハンドルを握りしめたまま、私に最後の一葉を差し出した。


「これ、俺の最後の上の句」


受け取った紙には、震えるような字でこう書かれていた。


『桜月 照らす夜道の 寂しさに』


ハルの声は、夜の闇に吸い込まれそうなくらい小さかった。


「……隣の県に行く準備、もう終わったんだ。明後日には、こっちの部屋を引き払う」


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


分かっていたはずなのに。二月のあの日から、この日が来ることを、和歌を交換するたびに予感していたはずなのに。


私は、持っていたペンを握りしめた。


今なら言える。今しか言えない。


「行かないで」

「離れたくない」

「本当は、ずっと好きだった」


喉まで出かかった言葉たちが、あまりの熱量に、出口を見失って渋滞を起こす。


でも、ハルの瞳は、どこか遠くを見つめていた。


新しい場所、新しい生活、私がいなくなる未来。


そこに、私の重すぎる想いを投げつけていいんだろうか。ハルの新しい門出を、私のわがままで汚してしまってもいいんだろうか。


――素直になれない。なっちゃいけないんだ。


私は、街灯の光に目を細めながら、ノートの余白に、わざと突き放すような、でも精一杯の強がりを書き込んだ。


『明日を急げと 背を押す光』


寂しいなんて言わない。

私は、あなたの背中を押してあげる。


それが、私が選んだ「純愛」の形だった。


ハルはその下の句を読み終えると、ふっと、泣き出しそうな顔で笑った。


「……そっか。そうだよね。背中、押されちゃったな」


その言葉が、自分の胸にナイフみたいに突き刺さる。


違う。そうじゃない。本当は、行かないでって泣き叫びたいのに。


私たちは、最後の一首を完成させないまま、別れ道で背を向けた。


――振り返りたかった。


でも、一度振り返ったら、二度と前を向けなくなる気がして、私はただ、夜道を急いだ…。




――春休みの今、ノートに残されたその一首を見返すと、文字が滲んで見える。


あの日、私が書いた「明日を急げ」という言葉。


それは、ハルへのエールじゃなくて、自分への、あまりに悲しい嘘だったんだ。





――卒業式まで、あと三日。


私たちの和歌は、一番大切な言葉を欠いたまま、最終回へ向かおうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る