第6話「あの……手、怪我してますよ」
砂と汗の匂いが、空気ごと肌に張りつく。
十歩先にボルグが立っていた。
近い。遠くから見たときとは全然違う。この距離だと、影だけで俺がすっぽり覆われる。
目が合った。鋭い目。だけどそこに残酷さはない。
ただ「戦う」という意思だけが、まっすぐこっちを向いている。
心臓がうるさい。息が浅い。
客席の上の方から、よく通る声が響いた。
「さァ皆様お待ちかね! 本日の第三試合ァ!」
実況の声だ。闘技場にはドリオンっていう専属の実況者がいるらしい。ガルドさんがそう言ってた。
「赤の門より! 闘技場が誇る最強のパワーファイター、鉄拳のボルグゥ!」
歓声が爆発する。ボルグが軽く拳を上げた。それだけで客席が揺れた。
「そして白の門より! ……えー、新入り! 属性は慈愛! 攻撃魔法なし!」
紹介が雑すぎないか。
「正直に申し上げます、私ドリオン、二十年実況やってますが慈愛の属性は初めて見ました! 予想はズバリ――三十秒! いや、ボルグの一撃なら十秒もいらないかもしれません!」
……何その予想。否定できないけど。
「始めェ!」
審判の声。歓声がぐわっと膨れ上がった。
――え、もう?
構える暇なんてなかった。
ボルグが動いた。あの巨体で、信じられないくらい速い。
拳が来る。見えた。でも、避けられるわけがない。
腹に、叩き込まれた。
***
体が浮いた。
比喩じゃなく、本当に浮いた。数メートルは飛んだと思う。背中から砂の上に叩きつけられて、肺の空気が全部出た。
痛い。
口を開けてひゅーひゅー言いながら、砂の上でうずくまる。視界がぐらぐら揺れてる。
「出ました一撃ゥ! さすがのボルグ! これで決ま――」
ドリオンの声が途切れた。
俺は、立ち上がったから。
殴られ慣れてるから。何年もかけて身につけた、誰にも自慢できない特技。殴られても立ち上がること。
それだけは、できる。
「……お?」
ドリオンの声に困惑が混じった。
「立ちました! 新入りが立ち上がった! ボルグの一撃を受けてですよ!? こ、これは――根性か? それとも、ただの鈍感か!?」
鈍感じゃない。めちゃくちゃ痛い。
観客席がざわついた。ボルグも一瞬だけ足を止めて、小さく首をかしげた。
でもすぐに走ってきた。
二発目。顔面。砂の上を転がる。口の中がじゃりじゃりする。
立ち上がる。
「ま、また立った!?」
三発目。胸。吹っ飛ぶ。
立ち上がる。
四発目。五発目。六発目。
何発目かわからなくなった。体中がずきずき痛い。砂まみれで、制服はもうぼろぼろだ。
「何発目だ!? 俺もう数えてないぞ!?」
ドリオンの声が裏返っている。
それでも――立ち上がる。
***
ボルグが足を止めた。
肩で息をしている。あれだけ全力で殴り続ければ、そりゃ疲れる。
――って、なんで殴られてる俺が相手の心配してるんだ。
いつもの悪い癖だ。
でもそこで、気づいた。
ボルグの拳。
血だらけだった。
何度も殴ったせいで、自分の拳の皮が剥けている。関節のあたりから赤い雫がぽたぽた落ちて、砂に小さな染みを作っていた。
試合のこと。観客のこと。全部、頭から消えた。
代わりに浮かんだのは、たったひとつ。
――この人、手を怪我してる。
気づいたら、歩き出していた。ふらふらと、ボルグに向かって。
ボルグが身構えた。当然だ。何発殴っても倒れない奴が近づいてきたら、誰だって警戒する。
でも俺がやったのは、殴り返すことじゃなかった。
ボルグの拳に、そっと両手で触れた。
「あの……手、怪我してますよ」
手のひらが、光った。
***
温かい。
手のひらからボルグの拳に、柔らかい熱が流れていく。
あの、ずっと手の中にあった温もり。この世界に来てからずっと俺の手のひらに住みついていた不思議な熱が――今、目の前のこの人の傷を治している。
裂けた皮膚が塞がる。血が止まる。腫れが引く。
ボルグが自分の拳を見つめていた。
さっきまで血だらけだった手が――きれいに、元通りになっている。
闘技場が静まった。何百人もの歓声が、嘘みたいに消えた。
実況席から、ドリオンの声が漏れた。
「えーと……今、何が起きましたか。殴られた方が……殴った方の傷を……治した? 治しましたね? え? なんで?」
ドリオンが誰かに確認を求めているのが聞こえた。でも誰も答えなかったらしい。
「ちょっ、これどう実況すれば……!」
ボルグの目が大きく見開かれている。困惑。驚き。そして――理解の追いつかないものを見た、という顔。
俺は自分の手のひらを見た。光はもう消えている。
回復。
奴隷商で「ハズレ」と言われた力。
この手は、人を殴るためにあるんじゃなかった。
――ああ、そうか。こういうことだったのか。
観客席のどこかから声が上がった。
「……今の、何だ?」
「治した……のか? 自分を殴った奴の傷を?」
「なんでだよ」
ざわざわと波紋が広がっていく。
ボルグが一歩、後ずさった。
それから首を振って、もう一度拳を握り直した。
当然だ。まだ試合中だもんな。
ボルグの拳が、また飛んできた。
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