第4話:硝子の楽園と、崩れゆく楔 3:お静の叫び

 胸元で冷たく脈打つ『銀の鍵』は、九条の思考の泥沼に杭のように突き刺さる。


 だが目の前の光景はあまりに甘美だ。


 若き日の姿をした彼女が心配そうに九条の顔を覗き込んでいる。

 その瞳には一点の曇りもなく、ただ愛する者への慈愛だけが湛えられている。


「九条くん? 顔色が悪いわ。……やっぱり、少し働きすぎなのよ」


 彼女の指が九条の頬に触れる。


 温かい。


 その体温を感じた瞬間、九条の心臓が早鐘を打った。

 時間の間に囚われ、自分の居場所も分からず、それでもただ渇望し夢見た温もり。


 これを振り払うことなど人間にできるだろうか?

 杭が沼に引きずり込まれるように、九条はその温もりに身を任せそうになる。


『そうだ、受け入れろ』


 無閑の声が、脳内に直接響き、蜜のように甘く囁く。


『ここなら、お前はもう苦しまなくていい。

 肺を鉄に潰される苦しみも、終わりなき贖罪もすべて忘れていいんだ。

 ……佐伯だって、あんな無駄死にをせずに済んだ世界なんだよ、ここは』


(佐伯。)


 その名が出た瞬間、懐から「ジッ」と皮膚を焼くような冷気を感じた。


 九条は懐に手を入れた。

 そこには、現実世界から持ち込んだのか『佐伯の鍵(友愛の鍵)』が入っていた。

 指先に触れたその鍵はこの温かい世界の中で唯一、「絶対零度のような冷たさ」を放っていた。


 九条はハッとして、目の前で笑う佐伯を見た。


 佐伯は生きている。

 楽しそうだ。……だが、彼の笑顔には「重み」がなかった。

 九条が知っている本物の佐伯は、あんなに軽薄に笑っていただろうか?


 違う。


 俺が知っている佐伯は、七十年の間、罪に苦しみ、皺だらけの顔で涙を流し、それでも友のために命を懸けて「鍵」になった男だ。


 その苦渋と覚悟の果てに見せたあの最期の笑顔こそが、本物の佐伯だったはずだ。


(……ここにいるのは、誰だ?)


 九条は隣で微笑む那由多を見た。

 彼女もまた、傷一つない綺麗な顔をしている。

 だが、俺が愛したのは、門の毒に侵され、顔半分を失ってなお、俺を逃がそうと叫んだ気高い魂ではなかったか?


 そうだ。佐伯は死んだ。俺のために。


 なのに、この世界では佐伯は生きているというのか?

 それは救いなのか? それとも、佐伯が命を懸けて俺に託した思いは……


「……違う」


 九条は呻くように呟いた。

 だが、体は鉛のように重く、心地よいまどろみから抜け出せない。


 彼女が微笑みながら、九条に酌をする。


「さあ、どうぞ。」


 その笑顔は九条の抗う心を溶かしていく。


 もういいのではないか。現実はあまりに辛く、あまりに残酷だ。

 ここで永遠にこの笑顔を守って生きることも一つの愛の形なのではないか――。


「……違います」


 その時、静寂な世界にひび割れたような震える声が響いた。


 店先で花を生けていたはずの若き日のお静だった。

 彼女は持っていた花瓶を取り落とし、ガシャンという音と共に床に水と花をぶちまけていた。

 その瞳は幻影の中の操り人形のものではなく、明確な「拒絶」の意志を宿している。


 そして目の前の「彼女」を睨みつけていた。


 ***


 ……違う。あの方は、義姉さまは、そんな風にはお笑いにならない。

 あんな風に九条様に甘えたり、引き留めたりする人ではなかった。


 お静の脳裏に遠いあの日――七十年前の雨の夜の記憶が鮮烈に蘇る。


 それは深夜の工房だった。

 私はふと目が覚めて、水を飲もうと台所へ降りた。


 工房の隙間から明かりが漏れていた。

 覗き込むとそこには義姉さまが一人で座っていた。


 右腕の包帯は解かれていた。


「……っ、く……」


 義姉さまは苦痛に顔を歪めながら、赤黒く錆びついた自分の腕を金やすりで削っていた。


 皮膚ではない。

 肉が鉄に変わり、腐食し、崩れ落ちていく音。


 私は思わず悲鳴を上げそうになり、口を押さえた。

 けれど、気配を悟られた。


「……お静?」


 義姉さまが振り返る。


 その顔の半分はすでにどす黒い鉄に侵食されていた。

 私は震えながら駆け寄った。


「義姉さま……! なに、それ……痛い、痛いの!?」


「大丈夫よ。見なかったことにして」


 義姉さまは慌てて包帯を巻こうとしたが、私はその手を掴んだ。


 冷たい。氷のように冷たくて硬い。


「どうして……どうして! こんな体で……!」


 義姉さまは寂しげに微笑み、私の頭を撫でた。


「お静。鍵師っていうのはね、誰かのために扉を開けるのが仕事なの。

 でもね、扉を開けてあげる人は、最後まで『こちらの世界』に残らなきゃいけないのよ」


 義姉さまは工房の重厚な扉を指差した。


「見て。扉が開くとき、向こう側へ行けるのはお客さんだけ。扉を支えている『蝶番ちょうつがい』は、動くことも、向こうへ行くこともできない。

 ただ軋んで、摩耗して、誰かを送り出し続けるだけ……それが、私」


「そんなの……嫌だよ! 新月の彼氏さんと一緒に逃げるんじゃなかったの!」


 私が泣き叫ぶと義姉さまは困ったように首を振った。


「あの人は光の中を歩く人よ。

 私が彼の手を取れば、彼までこの暗い蝶番の一部にしてしまう。

 ……好きな人と同じ場所に行けないこと。一番近くにいるのに、永遠に触れられないこと。

 それが、この店を守る『鍵師の孤独』なの」


 義姉さまの瞳から涙がこぼれ落ちた。


 その涙さえも頬を伝う途中で錆色の粉に変わっていく。


「私は彼を巻き込みたくない。あの人には私の叶わなかった幸せを掴んでほしいの」


 義姉さまは私の手を強く握りしめた。


 それは遺言のような響きだった。


「お静。もし私が壊れたら、あんたは逃げなさい……」


「でも壊れずにいたら、『温かいお茶』を淹れてくれるかな」


「え……?」


「あなたのお茶は、鉄の塊のように冷えた私の心を温めてくれるから。

 一日でも長く、私が冷たい『鉄』になってしまわないように……」


 記憶の中の義姉さまは泣いていた。

 彼を愛しているからこそ突き放し、一人で地獄へ落ちようとしていた。


 それなのに。目の前の幻影はなんだろう。

「もう頑張らなくていい」「ずっと一緒にいましょう」ですって?


 そんな甘い言葉で九条様を縛り付け、九条様の覚悟を義姉さまの献身を泥で塗りつぶすような真似を!


「……ふざけないで」


 私の中で何かが切れた。

 老いた体のどこにそんな力が残っていたのか。

 私は、九条様と偽物の間に割って入り、絶叫した。


「騙されないでください、九条様!!

 その人は……その人は、那由多義姉さまではありません!!」


 ***


『お静ちゃん? どうしたんだい』


 無閑の声に僅かな焦りが混じる。


 お静は、九条と彼女の間に割って入るようにして叫んだ。


「騙されないでください、九条様! ……その人は、偽物です!」


「お静……?」


 九条は呆然と彼女を見る。


 お静は目の前の「完璧な笑顔の彼女」を指差し、涙ながらに訴えた。


「……あの人は、私の知っている義姉さまは、そんな風に笑いません!」


「……義姉さん? お静、そうだ君は……那由多の」


「そうです! 那由多義姉さまです!」


 お静の言葉が硝子の世界に亀裂を入れる。


「七十年前、私は見ていました。義姉さまが、どれだけ苦しんであなたを遠ざけたか。

 義姉さまは、あなたの前では気丈に振る舞っていましたが、裏ではいつも泣いていたんです! 『あの人を巻き込みたくない』『あの人には光の中を生きてほしい』って……

 声を殺して泣いていたんです!」


 お静の言葉が鋭利な刃物となって九条の胸を貫く。


 目の前の幻影の彼女は、相変わらずニコニコと笑っている。

 その笑顔が急に不気味な「能面」のように見え始めた。


 お静は続ける。


「義姉さまの愛は、こんな都合の良い『幸せ』なんかじゃありませんでした!

 もっと痛くて、苦しくて……でも、誰よりもあなたのことを想って、身を引こうとした、血の通った愛だったんです! こんな……こんな、あなたに甘えるだけの硝子細工の人形なんかじゃ、断じてありません!!」


『……九条』懐の鍵が心臓に直接語りかけてくる。

 ――これは、お前が欲しかった未来か?

 ――俺たちが命を懸けて繋いだ「痛み」は、無かったことにしていいものなのか?


 味噌汁の味が砂の味に変わっていく。

 柔らかな空気は、まとわりつくような甘い香水の臭いへと変質していく。


 ここは楽園ではない。

 大切な人たちの「死」と「覚悟」を冒涜する美しい墓場だ。


 パリーン!!


 九条の世界が、音を立ててひび割れ始めた。


 佐伯の絶叫と共に空間の一部が剥がれ落ちた。そこから覗くのは美しい青空ではなく、どす黒い工房の天井だった。


 無閑が舌打ちをする。


『……まさか、お静があちらに干渉するとは。佐伯の鍵といい、余計なノイズが混じってしまったな』


 九条は懐から『佐伯の鍵』を取り出した。

 鍵は今や九条の手の中で真っ赤に熱した鉄のように熱を帯びている。


 そこから伝わってくるのは佐伯の怒りだ。

 ――目を覚ませ、九条!

 ――俺があこがれていた男は、夢に逃げるような奴じゃない! 現実の痛みを受け入れる男だ!


「……そうだ」


 九条は目の前の「彼女」の手を振り払った。

 幻影の彼女は悲しそうに首を傾げる。


「どうしたの? 九条くん」


「……お前は、那由多じゃない」


 九条の声にかつての冷徹な力が戻る。

 九条は黒金と化しているはずの右手に握られた『友愛の鍵』を構えた。


「俺が愛したのは、俺を甘やかす都合のいい人形じゃない。

 傷ついても運命に抗って、俺を守ろうとしてくれた……不器用で誇り高い『本物の彼女』だ!」


 九条は踏み込んだ。

 呼吸が楽なこの世界に別れを告げるように、肺いっぱいに空気を吸い込み咆哮する。


「消えろォォォッ!!」


 ガァァァァンッ!!


 九条は佐伯の鍵を幻影の彼女ではなく、この世界の「空」に突き立てた。


 鍵の先端から銀色の衝撃波が奔流となって迸る。

 それは佐伯の魂であり、九条の執念であり、お静の祈りだった。

「鉄」の真実が「硝子」の虚構を粉砕する。


 ピキピキピキ……!


 空間に亀裂が走る。

 美しい台所が、明るい日差しが、そして微笑む彼女の姿が、ガラス片となって砕け散っていく。


「あ……」


 最後に残った彼女の口元が何かを言おうとして音もなく崩れ去った。


 その瞬間、九条を強烈な引力が襲った。

 浮遊感。そして、叩きつけられるような重力。


 ――ガハッ!

 九条は現実の工房の床に膝をつき、咳き込んだ。

 肺に激痛が走る。鉄の肋骨が再び胸を締め上げ酸素を遮断する。

 口の中に広がる鉄錆の味。

 痛い。苦しい。しかしそれは九条が生きている現実だった。


「はぁ、はぁ……」


 九条は脂汗を流しながら顔を上げた。


 目の前には、膝から崩れ落ち、呆然としている無閑の姿があった。

 彼の周囲には砕け散った無数の「硝子の鍵」の残骸が雪のように降り積もっていた。


「……なぜだ」


 無閑が震える声で呟いた。

 その表情からは余裕も冷笑も消え失せ、迷子のような心細さが滲んでいた。


「なぜ、拒む……。僕は、完璧な世界を作ったはずだ。

 あの人も生きていて、君も健康で、誰も傷つかない楽園を……。

 それなのに、なぜ君たちは、わざわざ『痛み』のある方を選ぶんだ……!」


 無閑の手から、あの「黒い石の欠片」が転がり落ち、乾いた音を立てた。


 九条は、痛む体を引きずり、ゆっくりと立ち上がった。


 その右腕は、先ほどよりもさらに黒く、硬く、輝きを増していた。


「あなたは鍵師としては天才だ。だが」


 九条は、隣で震えているお静――年老いた姿に戻った彼女を庇うように立ち、告げた。


「あなたは、『人の強さ』を知らなすぎた」

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