2 悪とは「善なる行為を退ける意志」である

ここまで述べてきた、あらゆる場面において「いま、なすべきもの」として選択する行為の根拠を「善」という概念だとするのであれば、「悪」とは自分自身の中で「いま、なすべきもの」として認識している行為を退ける意志であると言える。


どういうことか。


たとえば「道を歩いていて雨が降ってきた」ときに「傘を差す」ことが自身の価値観に照らし合わせて「いま、なすべきもの」であるという認識がありつつも、「面倒くさい」からという理由でそれを実行しなかったのであれば、その「傘を差すのが面倒くさい」という意思が「悪」という概念の輪郭と言えるのかもしれない。


ここで一つの違和感が生まれる。


「面倒くさい」という価値判断もまた「いま、なすべきもの」として選ばれた行為の根拠として「善」という概念の一部なのではないか。日本大百科全書(ニッポニカ) のなかでも、この点を「悪の存在」をめぐって生じるパラドックスであるとしている。つまり、そもそも「意志」という存在が本来善に向けられているものなのであるとすれば「善を退けて悪を選ぶ意志」などというものは存在しないと考えられる。なのに、やはり我々は「悪」というものを知覚している。


大前提として、ここまで「善悪」という概念について長々と言語化をしてきたが、我々はその大枠を言語化はできずとも何となく認識できているように感じる。だからこそ「善悪」という概念は冒頭に述べたように比較的身近な存在として知覚されているのだと思う。それでは、身近な感覚の中で「善悪を分かつもの」を考えた時に、しっくりくるものは何だろうか。


個人的には「後ろめたい」という感情、言い換えるのであれば「罪悪感」が「善を退けて悪を選ぶ意志」に付随するものであるように感じた。


つまり、行為を選択する価値判断の根拠として、やはり「善」は「悪」に先立つ概念であり、その上で「善を退ける意志」を選択する際には「罪悪感」が自動的に知覚される。その反証として、我々が「いま、なすべきもの」として行為を選択した際に「罪悪感」を知覚することはない。


以上が個人的に筆者が考える「善とは何か?」「悪とは何か?」という質問への解答として一定の説得力のある説明である。と、するのであれば、「善」と「正義」の違いについてもまた、一定の説明を与えることができるように感じる。


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