マンションの住民
二章12話 二日目の朝
新しい住居先で迎える、二度目の朝。
怜は布団の中で身じろぎしながら、ゆっくりと目を覚ました。
右脚のギブスが相変わらず鬱陶しい。寝返りを打つたびに存在を主張してくるそれに小さく舌打ちしながら、怜はベッドの横を見た。
――いない。
昨日あれだけゲームに熱中していたのだから、今頃は爆睡していると思っていた。
そう思いながら上半身を起こし、眠気の残る目で部屋を見回す。
すぐ目の前に、答えはあった。
大きなゲーミングチェアの背もたれに隠れるようにして、一見すると分かりにくい。
だが、よく見れば左側のモニターには試合結果のリザルト画面が表示されたまま。
その前で、VRを装着したまま机に突っ伏し、規則正しい寝息を立てている小さな背中があった。
「……またか」
怜は呆れたように呟く。
VRを外す気力すら残っていないらしく、コントローラーは机の端に転がり、マイクも付けっぱなしだ。
――遠慮して机の前で寝ている? 一瞬そんな考えが浮かんだが、すぐに否定する。
昨日も同じだった。
一昨日も、たぶんその前も……。
(……癖、なんだな)
自分に対する気遣いや、ましてや我慢でもない。
単に昔から変わらない生活習慣なんだと、そう理解した途端、怜は別の意味でげんなりした。
「この調子だと……本当に学校、遅刻する」
ベッドから降りて、眠りこけているシアリーの肩を、指先でつつく。
一度だけ肩がびくりと動いたので、怜は反射的に距離を取った。起きた? と思ったが反応なし、寝息だけが規則正しい。
――やっぱり、遠慮なんかじゃない。元々こういう子だ。
叱る人がいない生活なんだろうな、と怜はそう結論づけながら、朝から小さくため息を吐いた。
もう少し強めに揺らして、顔を覗き込む。
ようやくシアリーの眉が動き、ぼんやりと目が開いた。
「……朝?」
「そう。朝」
半分夢の中のまま、シアリーは椅子にもたれ直し、大きな欠伸をした。
「……休みの日はね、だいたいこうなるよ」
悪びれる様子もなく、当たり前みたいに言う。
怜は一瞬、言葉を失った。
「……毎回?」
「うん。気づいたら、寝落ちしてる」
寝起きとは思えぬ淡々とした答えだった。
努力の末でも、たまたまでもなく、“習慣”としての寝落ち。
怜は深く息を吐く。
呆れと諦めが入り混じる、重たい溜息だった。
(……げんなりする)
昨日だけじゃない。
今日だけでもない。
これからも今の生活が続くと思った瞬間、じわりと重く感じた。怜は視線を逸らし、頭をかいた。
「……ちゃんと寝なよ」
言葉にしても、あまり期待はしていなかった。
シアリーは「はーい」と気の抜けた返事をしながら、また椅子に体を預ける。
反省の色は、あまり見えなかった。
朝は、こうして始まった。
※
朝食の準備をしながら、シアリーはコーンフレークの箱を棚から取り出す。
箱を開け、中の袋を取り出して、専用のボウルにカラカラと音を立てて注ぎ込む。
“Before I know it, it’s already morning~.”
(気が付くと朝になっちゃうんだよね〜)
英語でそんなことを言いながら、あっけらかんとした表情を浮かべている。
怜はその横顔を見て、目を細めた。
(また、シリアル……)
牛乳を注ぎ、スプーンを差し込んでから、今度は別の袋に手を伸ばす。
ドライフルーツがたっぷり入ったグラノーラだ。
“Here, granola with lots of dried fruit for you, Ryo.”
(はい、リョウはドライフルーツいっぱいのグラノーラね)
名前を呼ばれたのは分かった。
内容までは分からないが、自分の分を用意しているのは伝わった。
怜は小さく息を吐いて、椅子に腰を下ろした。
(……世話焼きだな)
そう思いながらも、差し出されたボウルを受け取る手は、特に拒むこともなかった。
騒がしい夜と、眠い朝。
それでも、こうして一緒に朝を迎えていることだけは、もう当たり前になりつつあった。
「――てか、いつの間に人の名前を呼び捨てしているのさ」
グラノーラの入った小さめの容器を受け取ったとき、怜はやや呆れた声色でそう言った。
以前は、ぎこちない日本語で「しもつきさん」と、どこか顔色をうかがうように呼んでいたはずだ。
シアリーは一瞬だけ言葉に詰まり、視線を宙に浮かべる。
それから、少し考えるように眉を寄せて、ゆっくり口を開いた。
「いっしょに、暮らすから……トモダチだから、カゾク……だから……」
途切れ途切れの日本語を使い、言葉を選びながら、確かめるように語る。
「家族……」
怜はその単語を、思わず小さく反芻した。
容器を持つ手が、ほんの一瞬だけ止まる。
家族。
軽く口にしていい言葉ではなかった。少なくとも、自分にとっては。
「……勝手に決めないでよ」
強く突き放すでもなくて、肯定を認めないのを隠す曖昧な声だった。
シアリーはその反応をどう受け取ればいいのか
分からず、小さく息を吐いた。
「でも……名前、呼ぶほうが、ちかい」
そう言って、照れ隠しのようにスプーンを持ち上げる。
怜はそれを横目で見て、小さく息をついた。
「……まあ、今更戻せって言うのも変か」
完全に納得したわけじゃないが、拒絶するほど嫌でもない。
「呼び捨ては……そのままでいい」
そう言ってから、少し間を置いて付け足す。
「……でも、『家族』は、まだ早い」
シアリーは一瞬きょとんとした顔をしてから、ゆっくり頷いた。
「……うん。わかった」
短い返事に、それ以上踏み込まない距離感。
二人は並んで、無言のまま朝食を続ける。
スプーンがボウルに当たる小さな音。
シアリーがグラノーラを一口食べて、「……あまい」と小さく笑った。
怜は何も言わず、もう一口だけ口に運ぶ。
※
マンションの部屋に設置されている食器洗い機に、使い終えた食器を一枚ずつ並べて入れていく。
ガラス越しに見える内部はまだ静かで、シアリーが操作パネルを軽く押すと、短い電子音が鳴った。
ほどなくして低い駆動音が立ち上がり、内部で水が回り始める。
泡立った水がゆっくりと窓を流れていくのを、シアリーは少し前屈みになって眺めていた。
その背中を見ながら、怜はリビングの椅子に腰掛けたまま声をかける。
「次の授業の予習でもする?」
問いかけは何気ないが、休日の過ごし方にあえて勉強という選択肢を出してみるのは、怜なりの様子見だ。
シアリーは一瞬だけ振り返り、首を傾げる。
「よしゅう……?」
意味は完全には掴めていない様子だが、雰囲気で察したのか、怜のタブレットを指差した。
「スクールの、べんきょう?」
「まあ、そんな感じ」
怜は仕方ないという顔をする。
正直、今すぐ勉強したいわけでもない。ただ、落ち着いた時間をどう使うかを決めたかった。
食器洗い機の中で水音が一定のリズムを刻む。
買い物帰りの疲労と、妙に整った部屋の静けさが混じり合って、時間の流れがゆっくりになっていた。
「……今日は、いいや」
少し間を置いて、怜はそう付け足す。
「宿題は夜でいい」
シアリーはその言葉のニュアンスだけを受け取って、軽く頷いた。
「じゃあ……あとで、ね」
二人の間に、特別な会話はない。
けれど、無理に埋めなくてもいい沈黙が、少しずつ増えてきていた。
食器洗い機の動作音が、部屋の静けさの中で淡く響いていた。
“Then… wanna play a game together?”
(じゃあ…一緒にゲームしようか?)
立ち上がりながらそう言うシアリーに、怜は一瞬だけ視線を向けて、すぐに逸らした。
断る理由を探しているというより、どう返せばいいか分からない、という顔だ。
(……やっぱり、そこに行くか)
返事を待たず、自室の方へ向かうシアリーの背中を見送りながら、怜は小さく息を吐いた。
拒絶したいわけじゃない。
ただ、自分がその世界に足を踏み入れていいのか、まだ決めきれないだけだった。
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