第4話 中華屋《昇鯉桜》
看板などが掲げられていないので、初めはそこが飲食店だと、仁実は分からなかった。
山口警視監は躊躇せずに、フロストガラスの扉を横にスライドして中に入る。
開いた扉からは中華屋独特の辛い香辛料とごま油が混じった空気が流れ出てきた。
そこでようやく、仁実はここが飲食店だと気付き、山口警視監に続いて中に入る。
中は赤と黒を基調とした、ザ・中華という感じの配色だ。赤い提灯がいくつもぶら下がって日の光が入らない店内を幻想的に照らしている。
席数はカウンターとテーブルを合わせて二十名に届かないぐらいで、こぢんまりとした個人経営の中華屋、といった雰囲気を醸し出していた。
「アイヤ! 山口サンが人を連れて来店なんて珍しいネ!」
普通だったのはそこまでで、山口警視監に話しかけてきた男は異彩を放っていた。
彼はカウンターの奥で中華鍋を振っていた。鍋を振る度に、黒色に紫色が混じった緩い三つ編みが、意志を持った生物のように飛び跳ねる。
胡散臭いという単語が擬人化したような男に、仁実はまじまじと見入ってしまう。
彼女の視線を一身に受けた男は、照れたように笑った。
「キレーなお嬢サンに見つめられるなんて役得ネ。コツコツと善行を積んでいた甲斐があるヨ。
ささっ。座っテ。座っテ。今、ウーロン茶を出してあげるからネ」
「お前がいつ善行を積んだんだ、
「アイヤ~。今日も手厳しいネ、山口サンは。
今のワタシは正義と平和をこよなく愛する中華屋・
顔の前でわたわたと両手を振って否定する王さんは、彼には悪いが信じることができないほど、信頼性が低かった。
容疑者になれば満場一致で犯人と決定づけられてしまいそうなほど怪しい。
(う~ん。王さんには悪いけど、今すぐにでも職質したいぐらいには怪しいなぁ……)
山口警視監は、そんな王さんのことを鼻で笑う。
「はっ。どうだかな。
まぁ、いい。俺には日替わりランチを。こいつには中華スープでも飲ませとけ」
「イヤイヤ! ちゃんと本人から注文を聞くヨ!
山口サンは
「好きにしろ。
バカ女、好きなものを注文しておけ。奢ってやる」
「え……? あっ、はい。分かりました……」
(人にご飯を奢るタイプなんだ、山口警視監……。意外に人情のある人かも。
私が食欲ないのが分かったから、中華スープを頼んでくれようとしたのかな? だとしたら、山口警視監のことを少しは見直したかも)
一番奥のテーブルに向かう山口警視監の背中をチラッと見る仁実。
お前に食わせるものは中華スープぐらいしかねぇぞ、という高度な皮肉なのか、それとも彼女の体調を気遣った結果かは分からない。
しかし、チョイスされた選択肢は、仁実の絶食に近い状態の胃と弱った体に優しいものだった。山口警視監の真意はどうであれ、彼女自身はプラスに捉えておく。
そんな風にぼんやりと山口警視監の真意について仁実が考えていると、王さんが声を掛けてきた。
「ヤァヤァ。初来店のお嬢サン。改めまして、
注文は席でも受け付けているから、座ってからゆっくり考えても大丈夫ダヨ?」
「あっ。ごめんなさい。ここで注文していきます。
山口警――ごほんっ! 山口さんの言っていたように中華スープでお願いします」
「アァ。山口サンが警察なことは知っているから、好きに呼んでいいよ、お嬢サン。彼は大切な常連サンだからネ。
それで、いいノ? 中華スープで? メニューにないものも、中華料理なら大体作れるケド?」
捜査中でもないのに一般市民に警察であることがバレたら色々と困るのではないか、と配慮した仁実だったが、その必要はなかったようだ。
王さんが山口警視監のことを警察だと知っていることに救われた仁実は、ほっと胸をなでおろす。
「大丈夫です。その、お気持ちは嬉しいのですが、食欲がないので……」
「そうナノ? 分かったヨ。
じゃあ、とびっきり美味しい中華スープを作るから、席に座ってチョット待っててネ!」
「ありがとうございます」
注文を終えた仁実は、一足先に注文を終えた山口警視監が座っているテーブルに向かう。
四人掛けのテーブルには、所狭しと様々な中華料理と空になったお皿が積み重なっていた。さも宴会が開かれた後のように見受けられたが、着席していたのは彼女と共に来たばかりの山口警視監を除いては一人だった。
王さんに『祥吾クン』と呼ばれていたその男は、ミルクティー色の軽いウェーブが掛かった髪型をしていた。
現代日本人には珍しい金色と青色の瞳を持っている。男の瞳は俗に言うオッドアイというもので、ガラスのように薄い二色の瞳は、ひたすらに料理にだけ注がれている。
キリっとした眉毛がカッコいいだけでなく、成人男性にしては大きめの垂れ目が愛嬌をプラスしていた。それが、無表情で怖さを感じる顔の造形を和らげている。
もしも、捜査一課の女性警官がこの場に居たら、年齢など関係なく全員が黄色い悲鳴を上げたことだろう。それぐらい、万人受けする感じのイケメンだ。
あまりの顔面の偏差値の高さに、秘匿課は顔採用があるのか、と仁実は邪推してしまうほどだった。
「――来たな。俺の隣に座っておけ」
「はい。失礼します」
男を見ながら、どちら側に座るか迷っていた仁実に、端的な指示を出した山口警視監。
彼女はその指示に従って彼の隣に腰を下ろした。
とここで、山口警視監の瞳の色がコバルトブルーを模したような、深い青色であることに気付く。ずっと薄暗いところでしか見てなかったせいで、仁実は彼の瞳の色を黒色だと勘違いしていたのだ。
髪色こそよくある黒色だ。
しかし、目の色は現代日本ではまず見ない鋭い青色だ。その瞳は見ているだけで、気の弱い人間は海洋恐怖症を引き起こしてしまいそうなほど、深みがある。そのぐらい、深い海をそのものだった。
瞳の色が平凡な黒色でない色なのも秘匿課の採用理由の一つなのかもしれない、と突拍子もないことを仁実は考える。
そんな彼女の邪な視線が気に障ったのか、山口警視監が眉間に皺を寄せた。
「なんだ? 俺の顔に何かついているのか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
「山口サン瞳の色が珍しいんじゃないノ? 祥吾クンのオッドアイも日本じゃあまり見ないデショ?
ハイ。日替わり定食と中華スープダヨ。初来店サービスで
いらなかったら、山口サンか祥吾クンに渡せばいいカラ」
山口警視監の瞳を見つめていた理由を言い
レバニラ炒め定食は山口警視監の前に、溶き卵が浮かんでいる中華スープと小皿に入った愛玉子は仁実の前に配膳される。
サービスと称して愛玉子をつけてくれた優しさが、様々な理由で荒んだ彼女の心に沁み渡り、思わず目を潤ませてしまう。
「あ、ありがとうございます!」
「お礼なんていいヨ。でも、良かったらまた来てネ!」
「はい! ぜひ来店させていただきます!」
初対面の見た目の胡散臭さで疑ってしまったのが申し訳ないほどに、王さんはいい人だった。
仁実は返答まで完璧な彼の人の良さに感涙を流しそうだった。
もっとも、山口警視監が「人を残飯処理係にするな」と言ったことで、涙がスンッと引っ込む。
「祥吾。食べている途中で悪いが、話を聞いてくれるか?」
「ん? あっ。ごろーさんだ。
どうしたの? 急用? 直接来るなんて珍しいね。書類仕事終わった?」
食事の手は止めないものの、男は視線と意識をようやくこちらに向けてきた。
彼の話し方は少しばかりふわふわしていて、成人男性にしては芯がないと受け取られるだろう。
しかし、それがギャップとなって無表情の顔面を更に中和し、女性にとてもモテそうなカッコ可愛い男を演出していた。
「書類仕事は残念ながら終わってない。
一生懸命片付けている途中で、どっかの誰かが盛大に邪魔しやがったからな」
「うっ。す、すみませんでした……」
山口警視監の書類仕事を盛大に邪魔した記憶のある仁実は縮こまる。
男の視線は山口警視監から彼女の方へ移り、ぱちくりと瞬きした。
「ごろーさんの仕事を邪魔したの? その子が? 度胸あるね。
見たことない人だけど、どこの人?」
「捜査一課の奴だ。
で、お前にはこのバカ女と組んで持ち込まれた事件を処理しろ」
ここで再び、男はゆっくりと瞬きする。
透明な瞳は仁実を見ているようで何も映してなく、無感情だ。
人とはこんなに無機質な目ができたのか、と彼女は少しだけ男に恐怖を覚えた。
「え? ボク? ボクがその人と一緒に調査をするの? ごろーさんと一緒じゃなくて二人だけで?」
「そうだ。そろそろお前も一般常識が身について、普通の人間と二人だけで調査しても良さそうな頃合いだからな。
というわけで、飯が食い終わったら行ってこい」
「うん。分かった。
よろしくね、ええと……柔らかそうな肉質のヒト?」
「は?」
生まれて初めて肉質だけで呼称された仁実は驚きを隠せなかった。
自己紹介をまだしてなかったとはいえ、せめて『女警官さん』とか、『捜査一課の人』とか、そういう呼び方をされると思っていたのだ。
山口警視監の『大バカ女』よりも遥かに衝撃が大きく、仁実は口をパクつかせて言葉を失う。
彼女と男を交互に見た山口警視監は大きなため息をついて、「駄目だろ、祥吾」と男をさとす。
「生きている人間を肉質で呼ぶな。それは禁止したはずだ。
名前が分からない時には、まず自己紹介からって教えただろ?」
「あっ。そうだった。
ごめん。ごめん。やり直しさせてもらうね。
ボクは緑川祥吾。階級は警視。で、キミは?」
さっきのことはなかったかのように、爽やかに初対面の挨拶を交わしてくる緑川警視。
彼の発言をまだ引きずっている仁実は気合で彼との会話を繋げる。
「え、ぁ、あっ、芦原仁実、です……。巡査部長をしています」
「よろしくね。芦原さんって呼べばいいかな?」
「えぇ、それでいいです……」
『柔らかそうな肉質のヒト』と呼ばれなければ、もう何でも良かった。芦原と呼び捨てにされようが、ひーちゃんと可愛らしく呼ばれようがどうでもいい。
ただ、その異質な呼びかけだけは、どうしても受け入れられなかった。
(え!? 柔らかそうな肉質のヒトってなに……? そんな牛肉のランク分けみたいな呼び方、今までされたことはないんだけど?
私、この人と一緒に調査するんだよね? 大丈夫かな? 聞き込みとかでこんなこと言われたらフォローできないんだけど……?)
冷静さを欠いている仁実とは対照的に、山口警視監と緑川警視は平静そのものだ。
「祥吾。この後はこのバカ女の基本的に従うように。特に人間に対しての接し方は、ちゃんと聞いておけ」
「うん。分かったよ」
「バカ女。お前は祥吾が何かを食う時には邪魔をしないこと。これだけは肝に銘じておけ。
基本的にはお前の言うことを聞くように指示しておいたが、無視することも多々あるだろう。だから、その度に話し合いなりフォローなりでどうにかしろ」
フォローというものでどうにかなるレベルではない緑川警視を丸投げにされると察知した仁実は、山口警視監に猛然と抗議する。
「ちょっ!? そんなこと言われても!?
待ってください! 山口警視監! お願いですから、緑川警視と二人きりというのは考え直してください!」
「六人目の犠牲者が出ない内に犯人をどうにかしたいんだろ?
なら、祥吾と組んで事件を捜査する以外に道はないぞ」
取り付く島もない山口警視監に、しかし、仁実は縋りつく。
ここで彼を逃したら、フリーダムすぎる緑川警視を一人で相手にしなければならないからだ。
「それはそうなんですが! もう少し緑川警視について情報をいただけますか!?」
「あ? 人の隣で騒ぎ立てていた口は飾りか? それぐらい自分で聞け。
王。会計だ。祥吾が現時点で食った分も清算しておく」
いつの間にか、山口警視監はレバニラ定食を米の一粒も残さずに平らげており、王さんに声を掛けて席を立つ。
彼は中華鍋を手放してキッチンからレジに移動し、山口警視監から受け取った伝票のバーコードを読み取っていく。
そうして出された金額はおよそ三人で食べたとは思えないほど高額で、王さんがニコニコで会計を受け付けるのも納得いくものだった。
「アイヨ~。こちらがお会計ネ」
「カードで。領収書も出しておいてくれ」
山口警視監は黒色のカードを出して会計する。
あれがブラックカードというものなのかと、仁実は度肝を抜かれる。
彼女が硬直している間に、山口警視監は清算が終わったカードを財布にしまった。
「ハイハイ。こちら、領収書ネ。
また顔を出してネ」
「気が向いたらな。
じゃあ、祥吾。またな」
「うん。ごちそうさま、山口さん」
会計の終えた山口警視監は緑川警視にだけ声を掛ける。
そして、呆然としたままの仁実は見捨て、さっさと店から出て行ってしまった。
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